監督:ケイリー・ライヒャルト
ミークス・カットオフがいまだに輸入されないライヒャルト監督の新作(DVDスルー)。一回しか見てないので、備忘録的に。
ネタバレしかしてない。
まずもって、かなり巧妙なつくりである。
ダム爆破に至るプロセスでの多くの伏線、すなわち、防犯カメラの前で帽子を外してしまうダコタ・ファニング、ボートを運ぶ道中での多くの観光客、計画を練っているところに現れる通行人、爆破十数分前に現れる車(これを捉えるコーエン兄弟的ロングショットが素晴らしい)、ことを終えた帰りの検問、などなど、いずれも後々に主人公達が追いつめられることになりそうなキーショットが何度も出てくる。
しかし、実際には彼らはこれらの「ヘマ」に足元を掬われるわけではなく(つまり伏線は回収されることなく)、計画を実行したときには気付きもしなかった存在によって、心理的動揺をきたし、自滅していくわけだ。
だがこの映画の魅力はこうした計算された構成だけでは語りきれないだろう。
ボートがゆっくりとダムに接近していく様を捉えたショットの純粋な視覚的面白さ、あるいは冒頭と後半に出てくる農作業を捉えたショット群、自転車に乗ったダコタ・ファニングを捉えた移動ショット,
図書館のコンピューターでニュースを知ったアイゼンバーグを捉えたカメラがゆっくりと俯瞰へと移動していく素晴らしい演出。
こうしたいくつかの優れて映画的なショットは、しかし決して、作品の印象を決定づけるようなインパクトのあるショットとは言い難く、きわめて抑制的に、小出しにされる。この抑制的なリズムが、むしろ終盤の転調と帰結をより効果的なものにしているだろう。
ことほど左様に、終盤のサウナにおける、ダコタ・ファニングののけ反りこそが、この映画のクライマックスとなっている。
ジェシー・アイゼンバーグの主観ショットがやたらと出てくる。数えきれないがおそらく20ほどある。
一方で、その他ピーター・サースガードやダコタ・ファニングの主観ショットは全く出てこない。一か所、これはサースガードの主観ショットかな、と思うところが、ボートで湖に出て、枯れた木々に目をやるシーンだ。だがここでも、最後までそれらの木々に目をやっているのは、ジェシー・アイゼンバーグだけである。
アイゼンバーグはここでは徹底的に「見る人」としてキャラクタりぜーションされている(ラストショットも彼の主観ショットだ)。
その意図は不明確である。効果を発揮している、のかもよくわからない。
それと、三人の関係性とその動きを繊細に描写していく手腕は見事なものだと思うが(それぞれの人間に対するカメラの距離、あるいはオフで入ってくる声、などなど)、もう少し大胆に描いてほしいとも思う。
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