監督:F・W・ムルナウ
今更何を言うことがあるのか、という映画だが、要点は、1)展開的にも撮影の観点からも、この映画はまさに"巻き込まれ型"の活劇であること。2)手のアップがあっても良いんじゃないの?ということ。
とりわけ涙なくして見れぬ前半30~40分ぐらいの撮影のスタイル。空間を大きく取り、主要人物を画面手前に配し、奥や背景を強調するそれは、夫とその浮気相手が都会の暮らしを夢想するシーン、路面バスの中の撮影、そして路面バスを降りた直後の撮影で見られる。
路面バスにおいて、特にジャネット・ゲイナーは夫に殺されかけたショックでうまく動けない。路面バスでもじっとうつむいて固まっている。夫の方もどうしていいかわからず、立ちすくむばかりだ。一方で路面バスは快調な速度で街へ向かい、カメラはバスの窓から見える街の景色(が高速で過ぎていく様)を捉える。手前でじっと立ちすくむ二人と、奥の景色の対比がここでは行われている。(照明の当たり方なども影響して)ここではどちらかといえば奥の高速で移動する景色が画面の主役になっている。
路面バスが停車すると、ジャネット・ゲイナーが降りていく。彼女は夫から逃げるのだが、街は車の往来が激しく、うまく道路を渡れない。このときゲイナーは固まっているというよりは、ふらふらしている。ふらー、ふらー、といった感じで、それをカメラがまた滑らかな移動撮影で捉えるのだが、ここでもやはりジャネット・ゲイナー以上に、激しい車の往来が画面の主役となっている。
要するに、この二人は都会の街並みに"巻き込まれ"ているのである。夫と妻の心理ドラマであったはずの映画は、いつしか都会の街の激しさに圧倒され、ただただ"リアクション"することしかできない二人を描くようになる。
そしてこの手前に夫婦、奥に街の光景、という画面構図は二人が入った喫茶店、そして教会のシーンでも踏襲されることになる。
教会の構図。結婚式の模様が左奥で演じられ、右手前に夫婦二人がやってくる。この構図は本当に感動的だ。まるでメアリー・ピックフォードが『雀』の中で見る天使の幻覚のようだ。
そして前半のクライマックスは道路の真ん中で二人が口づけを交わすシーンだろう。
このシーンが感動的なのは、二人がついに画面の主役になるからだ。
街の車の往来にふらふらと"リアクション"するしかなかった二人が、道路(そして画面)の真ん中で口づけを交わし、街を一瞬"掌握"し、街の人々を"リアクション"側に回す。もっと言えば、街を"見て"はおろおろするしかなかった二人が、初めて"見られる"存在となる。その瞬間をこんな風に捉えて見せること。大傑作たるゆえんはここだろう。
その後も農民のダンスによって再び二人は画面の主役になるだろう。
さて、最後に手のアップショットについて書こう。これは主に最初の夫が妻を殺そうとするシーンで、どうせなら夫の手のアップを撮ったらどうか、と思った次第。フリッツ・ラングみたいに。フリッツ・ラングの映画では、よく手のアップがある。『ビッグヒート』の最初のショットとか、『飾窓の女』の殺害シーンとか。この手のアップというのは、どこか運動を心理から解放せしめる効果があるように思えて気に入っている。手自体の"意志"というか。
一応『サンライズ』でも、藁を用意する夫の手のアップがある。
ま、どうでもいい。とにかくこれはやっぱり当たり前のようにめちゃくちゃ傑作。
ジャネット・ゲイナーが見つからなくても泣けないが、見つかると泣ける。つまりゲイナーの姿、笑顔、存在そのものがこの映画では神秘的なまでに泣けてしまう。
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