2014年3月2日日曜日

人のセックスを笑うな

これもどうもなー。90分でやめたのでそこまで。
とても良いシーンはすこぶる良いのだが、ダメなシーンはとことんダメ、という映画であって、別にそんな映画は無数にあるわけだが、しかしダメなシーンだらけでも全体的に許してしまう、あるいはそれらも含めてもはや素晴らしいような映画と、ダメなシーンのダメさゆえに全体的に許せないという映画があるような気がするが、これは見る側の気分の問題だろうか。よくわからない。

オープニングの永作博美と松山ケンイチの出会い方。ヒッチハイクをしている永作が、通り過ぎたトラックを追いかける。まずはじめに『ニシノユキヒコ』の坂にも似ている、傾斜の急な坂で、永作が靴を蹴飛ばしたりして通り過ぎる車を止めようとしているのをロングショットで見せる。画面を猫が通り過ぎ、一台のトラックがやってくると、カメラは永作がトラックを視線で追いかける表情をバストショットでとらえる。そこでカットが割られ、今度はカメラが永作の背後に回る。トラックとその先にあるトンネルが、永作との美しい縦の構図で捉えられ、そのままトラックはトンネルの中へと消えていく。何やら、黒沢映画にも似たただならぬ予感がする絶妙なショットである。この女はいったい何をしているのか、ここまで何の説明もないままである。

さらにカットして、今度はトンネルを抜けたトラックを映し、背後から永作が猛ダッシュでやってくる。道の構造上、トンネルを抜けてから、トラックのところに来るまで永作の走る姿が見えないのだが、その時間が思いのほか長い。ずいぶん長距離を走らせるものである。当然永作はぜえぜえと息を荒げ、そこでようやく彼女が終電を逃して帰りあぐねていることを告白する。トラックに乗った三人は快く永作をトラックの積荷台に乗るように言うと、永作は猛ダッシュの疲れのせいで(それが真実かはわからぬが!)頭から突っ込んでしまう。それを見た助手席の松山があわてて積荷に乗る。
なんと周到な演出、手続きの踏み方だろうか。トンネルの手前の妙な緊張感(当然この映画がホラーでもサスペンスでもないことぐらいは知っているわけだが)と、トンネルの向こうでのバカバカしい顛末。
さらにその次のショットでやや俯瞰気味に積荷に並んで座る二人を捉えたショットでトラックが走りだす様をきわめて幸福に描いている。
永作が頭から積荷に突っ込むという笑いと、しかしそれがあるからこそ松山がごくごく自然に永作と同席する。この映画が永作と松山のラブストーリーであることを知っているからこそ、この周到かつ呆気ない、あるいはこの呆気なさこそが周到さの証だ、と言わんばかりのこの展開に思わず「やられた!」と思わずにはいられないだろう。

あるいは永作が松山に服を脱ぐように要求するシーンの、あの永作の赤いセーターはどうだ。それまでごくごく穏やかな赤としておさまっていたセーターが、突然ヴィヴィッドな赤として画面上でスパークし始める。

あるいは松山が永作を強引に教室に引きずり込むシーン。廊下を歩く永作が突然引きずり込まれるのをロングショットでとらえたカメラは、当然教室の中に入って二人の”ローリング抱擁”を横移動でシャープに捉えてみせるわけだが、ここが素晴らしいのはロングショットを引きずりこまれた後の一瞬だけ持続させることで、永作の持っていた書類がグレイスフルに落下する様を捉えているからだ。

こうして多くのシーンが小道具と照明とカッティングによってきわめて印象深く、映画的にスパーク!している。

ああ、しかしなんと凡庸なショットの数々。フィックスショットがあまりにも長い。それらは人物たちの「リアル」で、「自然」で、「くすぐったくなるような」、要するに「ニシノユキヒコ的な」やり取りを捉えるわけだが、いや、いいよそういうの。間の抜けたフィックスショットとはこれだ。
一瞬の持続が笑いや余韻としてスパークすることはいくらでもある。それは例えば『ストロベリーショートケイクス』の多くの持続であるし、『いとおしき隣人』のほとんどのフィックスショットだ。

家に招き入れてくれたのが永作の夫であったことを知るシーン。ここでは詳細は省くが、永作が遅れて画面に登場し、次に夫がいったん席を外し、そこで初めて真相が判明し、その真相に松山が驚いて固まっているところに夫が帰ってきて、何食わぬ顔で新聞を読み始める。この持続は面白い。笑える。クレイジーでユーモラスだ。


この映画で悪いのはアオイユウである。
温水洋一の講義中に松山が忍足修吾に永作との関係を耳打ちして、忍足が思わず「え!」と叫んでしまい、教室中の生徒が後ろを振り返るという定番といえば定番だが、その画面のダイナミックなユーモアゆえにとても面白いシーンがあるが、―温水洋一をアップで使って笑いを撮ろうとする映画は嫌い。画面の奥で存在感なくしゃべっている(それゆえに存在感が増す)ぐらいがちょうどいい。これは井口監督の冴えたバランス感覚と言うべき― ほかの生徒が前を向き直したあと、その中でアオイユウが一人松山の方を見つめ続けているのが捉えられ、わざわざカメラは彼女に寄りさえするわけだが、その寄りのショットも素晴らしい。(ついでに言えばそのあと玄関口を永作が通りかかり、温水が実は同級生なんだとか言ってるのをよそに松山がスーッと画面左側へと歩いていくショットも、鏡に反射した木々のインプレッシブな存在感が心地よく、とても良い。)

しかしそうまでして丁重に演出されているアオイユウの役柄はいったい何なのだ。松山のことが好きなのはわかった。松山を見つめること。見つめるという映画ならではのセンチメンタルでどこかしらストイックな愛情表現。
あるいは永作と松山が二人で歩いているのを階段から見てしまうショット。「そうかアオイユウとは、ひたすら見る人なのか、、、」と、何だか偉そうな映画批評家にでもなったような気分にさせてくれる、、、と思ったら、どうもそうではないらしい。

映画は明らかに彼女を物語の中に絡めようとしている。そのエビデンスとして(?)、「わたし学校やめる」とかいうウジウジトークを二回も展開する。あるいは松山と観覧車に乗る。乗ってなんか会話している。永作とお茶をする。お茶してなんかしゃべっている。それらすべてのトークがアホみたいにつまらない。こういう会話劇を展開するなら、それ相応のキャラクタりゼーションが要求されるべきだろう。しかし映画が描くアオイユウはひたすら「ふっつー」の、よく言えばリアルな、悪く言えばどーでもいい人物だ。そんなやつが「学校やめる~」とかぼやいたところで、So what?である。
んなもん見るために映画見とらんわ、と言いたくなるが言わない。しかしこれはつまらない。
というかクリティカルにつまらない。そしてそこがこの映画の許しがたい、というか見るに堪えない最大の理由だ。アオイユウが出てくるたびに、ああ、映画が失速した、これじゃ牛歩だ。バカモノ、、、とため息が出てくる。




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