2021年12月25日土曜日

2021年公開映画ベスト

今年はあんまり見れなかったので5本まで。

 
 1. アイダよ、何処へ?
 2. パワー・オブ・ザ・ドッグ
 3. 水を抱く女
 4. プロミシング・ヤング・ウーマン
 5. 約束の宇宙
次点:17歳の瞳に映る世界
次々点:この世界に残されて


主演男優賞:フランツ・ロゴフスキ(水を抱く女)
主演女優賞:キャリー・マリガン(プロミシング・ヤング・ウーマン)
助演男優賞:レイモンド・ティリー(アイダよ、何処へ?)
      中島歩(いとみち、偶然と想像 第一話
助演女優賞:霧島れいか(ドライブ・マイ・カー

特別賞:SLEEP マックス・リヒターからの招待


旧作では久しぶりにアントニオーニを見直した。『情事』が破格の名作であった。あと、『赤い砂漠』も素晴らしい。色彩で心理を表現、というとバカみたいだが、しかしこの映像表現には痺れるしかない。
映画館ではブレッソン『バルタザールどこへ行く』、ロメール『昼下がりの情事』が忘れがたい。

2021年12月20日月曜日

偶然と想像

 監督:濱口竜介

『ドライブ・マイ・カー』で思ったように、やはりこの人の映画って、人間ばかりが目立っていて、周辺の小道具とか装置に全然興味が持てない。ぶっちゃけホン・サンスは好きではないものの、何となく食い物とか、窓枠とか、そういうのが頭に残ったりする。本作で真っ先に比較したくなる(が、ぶっちゃけ全く違うと思う)ロメールにしても、例えば『美しき結婚』でベアトリス・ロマンがあーだこーだ言ってるときに目に映るのはアリエル・ドンバールが手掛けるアート作品だったりする。
なので、いくら良くできたお話でも、観念的な印象をぬぐえず、映画としての体温を感じない。というかこれなら、スクリーン見なくていいじゃん(白状すると何度か視線が滑って劇場の非常口のマークを見てしまった)。

あるいは映画において偶然というのはそもそも、モノの予想もつかぬ動きによって人間が衝突する、というものではなかったか。ということを総論として思った。

ただ全体として、相手のコンフォートゾーンに土足で侵入する横暴ぶりと、一歩踏みとどまって引く男気の両面をうまく見せていると思う。それと、こいつが主役と見せかけて、あ、あなたが引っ張るのね、という意外性の出し方も上手。

さて、

第一話。
『いとみち』にも出ていた中島歩の芸達者ぶりというか、受けの演技が素晴らしい。
このエピソードのキャラ設定が一番ロメールっぽい。(『パリのランデブー』の第一話だね)
古川琴音が最後に見せる「男気」が良いじゃないか。実はこのエピソードが一番楽しめた。
ただ、中島のオフィスは空間としてあまり面白みがないのと、声がやたら響くように設計されているのだけど、なんせセリフがめちゃめちゃ多いんで、だんだんこの音響が煩くなってくる。


第二話。これ、最低。全然面白くもないし、5年後とかどうでもいいよ。
言語化可能な領域の外に出る力とかさ、うるさいって。刺さる人には刺さるのだろうが、私には何も関係がない。これなら宮台真司のデイキャッチャーズボイスでも聴いてた方がマシよ。内側からの切り返しもこれ見よがしで嫌だったね。


第三話。10年前の震災のとき、ちょうど『ヒアアフター』が公開されていたことを思い出した。ヒアアフターの主題をより捻りを効かせて、得意分野に持ち込んだような見事なエピソードだ。偶然の再会のシーンがツァイ・ミンリャンの『河』を思わせる。
花壇から仙台駅までよく歩きますね。あと、定禅寺通りのあそこは道じゃない!(笑 それはいいですが、せめてあそこの銅像とか映せばいいのに!(笑))
河合青葉が息子が好きなフィギュアに全然興味が持てないとのことだが、なるほど濱口も興味がなさそうである。知らんけど。

第三話はヒアアフターを思い出しつつ、ペッツォルトの『あの日のように抱きしめて』も思わせる。というか、濱口とペッツォルトのテーマには共通点が多い。自分の好みとしては断然ペッツォルトだが。

全話とも、あまり時間の変化がない。
いろいろ話し合って、気づいたら夜だなぁ、とか、歩き回って気づいたら朝だなぁ、とか、そういう時間の推移がないのが残念、というか致命的な気もする(観念的な印象ってこういうところからも来る)。

ちょっと言い過ぎた。いや、もうすでに「世界のハマグチ」なので何言ってもいいだろ的浅ましさで書いたのだが、これだけ(無名ではないが)「非有名俳優」を集めてそれぞれに個性的なパフォーマンスをひきだしている事については拍手。日本にはまだまだこれだけ魅力的な俳優がいるぞと、そういう事を教えてくれるという意味で、大変貴重で重要な作品であることは間違いない。まぁちと好みが・・・(苦笑)




2021年12月16日木曜日

パワー・オブ・ザ・ドッグ

(だいぶネタバレ) 
監督:ジェーン・カンピオン

これほどギリギリでおチンチンを見せない映画も珍しいのではないか。
圧倒的強度でおチンチンを撮ってみせた『ペイン・アンド・グローリー』とは逆の味わいである。
というのはさておき、、

100点満点である。
マチズモと去勢不安の精神分析的な読みをされる方もきっといらっしゃるだろうが、まぁそれは良い。
とにもかくにも第一級の物語映画である。これは映画史に残るのではないか。
ストーリーテリングとはこうするのだと、一から教えてもらうような、幼稚園の先生に絵本を読み聞かせてもらうようなワクワク感を最後まで堪能した(たっぷり毒の効いたお話であるが)。
例えば冒頭、馬で移動中のB・カンバーバッチとジェシー・プレモンスの対話。カンバーバッチが何を言っても無反応なプレモンスに対し、カンバーバッチはすっと馬を前に出して、後ろを振り返り、ぎろっとプレモンスの方を睨む(もちろん仰角ショットで)。
あるいは、K・ダンスト演じるローラと息子(コディ・スミット・マクフィー)とのやり取り。彼が手作りした写真集や紙の花を愛おしむ様子を見せつつ、直後に、フライドチキン用に鶏を調達すること、今夜は床で寝てもらうことを、いささか苛立たしそうに息子に告げる。
少し飛ばそう。J・プレモンスがK・ダンストのレストランを再度訪れる場面。ダンストは忙しさと騒がしい客にいら立っており、プレモンスとしてはタイミング悪く訪問してしまい、バツが悪い。しかしそこでプレモンスが機転を利かせて、見事に客を静かにさせる。それをドア越しに見て「やるじゃない」とばかりに微笑むK・ダンストのアップショット(※)。


もう少し先のシーン。K・ダンストとプレモンスの夫婦が、幸福な朝を迎える。プレモンスは、サプライズがあるから待っててとダンストに告げて外出する。するとその後のシーンで、プレモンスと農場の人間達がピアノを運んでくる。ダンストにとってそれは思いがけぬプレゼントだが、彼女に笑顔はなく、むしろ困り果てた様子である。

さらに飛ばす。カンバーバッチが秘密の場所でブロンコ・ヘンリーのサインの入った生地を身体に滑らせて恍惚としているシーン。このあと彼は川に飛び込み、日光を浴びながら自身の体に水をかけているが、ふと後ろを振り返ると、C・S・マクフィーがこちらを見ている。不覚をとられたカンバーバッチは、興奮して怒鳴り散らしながらマクフィーを追いかける。
あるいは、プレモンスがカンバーバッチに風呂に入るよう告げるシーン。
あるいは、詳しくは語らないがウサギをめぐるシーン(※2)。

上記したシーンのいずれも、シーンの最初と最後で、その空間が大いに変化している。ポジティブに思われた関係性や人物の内面世界に、鋭く亀裂が走り、人物の感情は高ぶり、空気や関係性が変化し、しかもそのままサッとシーンを終わらせてしまうのである。断片的なエピソードを、常に不和と唐突さを以て、いわば傷をつけたままサッと終わらせる事で、観客は思わず次の展開を固唾をのんで見守ることになるだろう。まさにこれこそが一流のストーリーテリングであり、脚本だけにも編集だけにも還元できない、映画の話法である。
こうして、あえて切断させながらエピソードを積み重ねていくことで、次第にこのニュージーランド=モンタナ(!)の広大な空間が、様々な感情が激しく入り乱れる意味空間となっていく。
その中で、K・ダンストは、先住民の手袋をつけたまま全く見事に気を失うだろう。
カンバーバッチとマクフィーは、善悪を超越した刹那的戯れを演じることだろう。
初めて肌を接触させる二人の周囲を回るカメラワークは、何度同じようにぐるぐるカメラを回してもC・ノーランやトニー・スコットには決して到達できぬ達成を見せている。
そこには扱う階級は違えど、そう、まるでジョセフ・ロージーの最良の作品のような、濃密で毒々しい、陶酔すべき時間が流れている。
そして呆気ない幕切れを飾る、簡潔で美しいラストショット。これが2021年の映画か?
まるでハリウッド黄金期だ!(一見ハッピーエンディングだが、ニコラス・レイの『孤独な場所で』さえ思わせる決定的な分断線が引かれている。)
決して派手な事は起きない130分だが、人間の本能を刺激して止まない、あっという間の130分である。


(※) このシーンは、不和によって亀裂が走る、の正反対だが、いずれにしても、関係性を変化させる出来事によって、ぐっと感情が高まるタイミングで、潔くそのシーンを終えてしまう、その手さばきの素晴らしさは共通している。

(※2) ここもあえて、トーマシン・マッケンジー演じる使用人が意気揚々と人参を持っていく展開によってショックを高めていることに注目したい。


文脈的に書くところがなかったのだが、ダンストがプレモンスに即興でダンスを教える場面は何という美しさだろう(一人じゃないって、素敵な事ね~♪)。


備忘録
・山の形状が吠える犬に見えるというのだが、わからなかった。なかなか面白い視覚の表現で、主役二人と観客の間に一線が引かれる。
・動物の表現。うさぎは2回出てきて2回とも殺される。カンバーバッチが馬を「この雌馬!」と言って厩舎から追い出すシーンがある。牛の去勢シーンがある。
・カンバーバッチの役は実はラテン語を喋る教養人という設定。知事夫妻の教養マウントにK・ダンストが固まってしまうシーンなどのいやらしさ。


2021年11月20日土曜日

『ビースト』と『あるいは裏切りという名の犬』

 フランスで元警官という経歴を持つオリヴィエ・マルシャンが監督した『あるいは裏切りという名の犬』を、リメイクした韓国映画が『ビースト』である。
ふたつ合わせて、『ビースト、あるいは裏切りという名の犬』とオリヴェイラの映画みたいになるな、というのは置いといて。

『ビースト』を劇場で見て、その後DVDで『裏切り~』を見たが、後者から触れたい。

ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューという、ソース顔二人の共演映画なのだが、これが非常に良く出来ていて驚いた。マルシャンの映画はその後も意味不明な邦題シリーズの犠牲になっていて、最近は日本では劇場未公開で配信スルーという状態のようだから、必ずしも固定ファンの獲得に成功していないのかもしれぬ。しかしこの映画はかなりタイトにまとまっていて、リアリズムの追求がある種の洗練、簡潔性の美学に高められていると言って良いのではないか。
オープニングで警視庁の看板を外す男達を見せておいて、実はこれは引退する刑事への贈り物だったというジョークを流しつつ、並行モンタージュで護送車襲撃を描く。襲撃のシーンが非常にうまく出来ていて、それほど決め過ぎないロングショットに、各ポジションの必要不十分なミドルショットを合わせ、現金収奪が完了すると、襲撃された白のワゴンの前後に停めた黒のワゴンが同時に走り出して去っていく、というロングショットで締める。
この強奪犯が絡むシーンは、あとでドパルデューの単独行動が悲劇に終わる場面になるが、ここでの銃撃戦も、かなり豪快ながら尺はそれほど長くなく、とにかくコンパクトなのが良い。
終盤にオートゥイユが出所してから、元同僚に会いに行くシーンなどがいささか性急な処理になっていて、ここが少し勿体ないと思った。特に元麻薬捜査官で、ドパルデューに幻滅して地方の分署に異動した女性警官との再会が、単なる情報処理になってしまっている。個人的には、一線を退いた刑事同士の再会、というのは最も映画的でエモーショナルなそれだと思うので、これはちと残念。思うに、この女性警官とドパルデューのシーンを全て省き、彼女の現役時代の幻滅を、オートゥイユとの再会後に語らせれば良かったと思うのだがどうか。
ラストの捻りも良かったです。

で、『ビースト』なのだが、お話の大枠は共通している。
新入りの女性警官の存在、”アリバイ”提供と引き換えに殺人を黙認するという展開、成果を求めて単独行動に出てしまう刑事、窓を突き破っての転落、バーのマダム、そのマダムへの暴行の復讐、など。
相違点として、細かい話で言えば、メインとなる事件が護送車襲撃から猟奇殺人になっているところがいかにも韓国映画だ。
しかしもっと本質的な、ある意味この物語に対する視座を反映している違いがあって、フランス版では、オートゥイユ演じる刑事がかなり同情的に描かれており、ドパルデュー演じるは「悪役」として描かれている。当然、オートゥイユも結構無茶苦茶やっているのだが、娘とのエピソードなんかもあって、だいぶ甘い。そんな「善人」であるオートゥイユが組織からはじかれ、ドパルデュー演じる「悪人」が組織のトップに立ってしまう、というこのシステムの非情なる論理を見せることで、観る者をいらだたせ、オートゥイユ演じる刑事に肩入れさせるのがフランス版である。
韓国版は、オートゥイユ演じる刑事の無茶苦茶ぶりをむしろ掘り下げることで、個人の内部にある善と悪、その混沌ぶりを徹底的に曝け出すことによって、観客をどちらにも肩入れさせない物語を作ろうと意図しているように見える。
その結果、刑事が”殺人の黙認”を隠ぺいしようとするという新しいエピソードをつくっている。実際に展開されるサスペンス(銃弾の取り換え工作、元妻とのアイコンタクト、死体がこちらを見ているという幻覚)もそこそこの完成度となっているが、元々なかったエピソードを新たに仕込んできた事を踏まえると、総じて見事な脚色と言わざるを得ない。

フランス版が、システムと個人の相克、そして法外の領域における決着、という『ダーティハリー』から綿々と続く正統派的主題を扱っているとすれば、韓国版は、個人において善悪の境界があいまいとなっていき、それがやがて狂気へと発展していく、その末路を露悪的に描こうとする。そしてその他の韓国映画を踏まえれば、これはこれで定番の主題と言って良いだろう。しかしある意味リメイクでそれをやっちゃう韓国映画界の勢いとでも言うか、そういうものを改めて感じた次第。

撮影や演出の簡潔ぶり、ショットの過不足のなさにおいては圧倒的にフランス版を買うし、韓国版のやたら多い過剰なクローズアップもやや安直な手法と思うのだが、しかし同じ題材に対するはっきりと異なるアプローチを経験できるという意味では両方とも見ることを推奨したい。


2021年11月1日月曜日

抱きしめたい ―真実の物語―

 指摘すべき細部はみんなのシネマレビューで、ユーカラさんがすべて書いてしまっている。 

大変感心させられた。すべての間合いが程よい。メリーゴーランドは別として、その他、基本的にあんまり盛り上がらないのだが、しかしこんな感じで日常は流れていくんだよな、と思わせる。北川景子が錦戸が浮気していると誤解するも、それが一瞬で解消してしまう流れ(ここの北川景子のパフォーマンスが素晴らしい)。浜辺でおんぶしながら歩くショットが美しく(雲が良い)、時間の流れも良い。

結論が180度が変わる過程を省略して、「次の瞬間には別の行動をとっている」という脚本の徹底が、シネフィル塩田監督らしさか。

終盤の錦戸のモノローグにも泣かされた。
出逢い、幸福、突然の別れ。それを残された者がその意味をずっと考えながら残りを生きていく、ということ。「考え続けていれば、ずっとそばにいてくれる気がする」という意味のモノローグに、死別という経験の重みと切なさを思う。

通俗道徳の洗練された賛歌として見事な出来栄えだが、やっぱり会話がつまらないと思う。アイスの話とか、カレーがうまいとか、いいんだよそんなの!(謎ギレ)



2021年10月24日日曜日

ノーマンズランド

 ダニス・タノヴィッチの長編デビュー作。なるほど、ボスニア紛争を題材としながら、見事に洗練された寓話として描いている。
冒頭の霧の描写から、夜が明けて、いきなり銃撃戦が始まり緊張感が高まるが、それ以降はむしろとぼけた展開で笑いを誘う。
タノヴィッチが凄いのは、笑える展開を繰り広げながら、それがじわじわと「笑えなく」なっていく様子すら描く点だ。
気絶している間に、自分の背中の下に地雷を仕掛けられてしまった男は、最初はむしろ笑いを誘う存在である。彼がタバコを吸って咳をすると、相方が慌てて彼の背中が浮かないように押さえつけるという描写が好例だ。ところが、終盤にだんだんと雲行きが怪しくなってくる。その雲行きの怪しくなり方、身もふたもなく、「はい、無理」となってしまうこの不条理さ。
当然、こうした不条理劇には様々な意味を読み取ることができるだろう。国連の援助や仲介の無力さを読み取ることもできるし、もっと大きく、神の沈黙、とまで言えるかもしれない。
まるで60年代の西部劇のようなタッチで、雄弁にボスニアの現実を語る手腕。
日本には『サラエボの銃声』以降輸入されていないが、IMDBを見ると、近年も新作を発表し続けているようだ。タノヴィッチをもっと!

追記:終盤、塹壕からの撤退が決まったあとに、ジャーナリストが車に乗り、車の窓に撤退する国連軍兵士の姿が映る。窓の反射を使った撮影は映画の常套手段だが、単なる美的な印象以上の、やり切れぬ情感を残す素晴らしいショットだ。

2021年10月22日金曜日

カティンの森

 劇場公開時以来、久々、3回目の鑑賞。
やはり家で見ても音響が微妙なので、オープニングの緊迫感なんかが公開時よりも印象としては薄れてしまったが、しかし全編見事な撮影、構成、ストーリーテリングだ。
アンジェイ・ワイダは、IMDBなんかを見てみると作品数がかなり膨大で、日本で見れる作品というのはDVDなどを合わせても一部に過ぎないのだが、年代ごとに作風がずいぶん異なる印象を受ける。
個人的にはやはり『灰とダイヤモンド』の陰影表現の徹底ぶり、ツィブルスキの情熱的な芝居に心を掴まれるのだが、60-70年代のいくつかの作品は、『灰とダイヤモンド』とはかなり作風が異なっている。『約束の大地』、『ダントン』、『戦いのあとの風景』などは、大胆なカメラ移動やズームを多用し、少々露骨なセリフに依存したそれで、良く言ってエネルギッシュ、しかしどこか粗雑な面も否めないと感じる。当時のポーランド情勢も影響しているのかもしれないが、A・ムンクやザヌーシ、ブガイスキらに比べると少々見劣りする。

だがこの『カティンの森』以降、遺作となった『残像』までのおよそ10年に及ぶ晩年の作品こそが、ワイダのワイダたる所以を一挙に示したと思う。これらの作品は、上記の荒々しいカメラワークに頼った演出ではなく、むしろ厳格なフィックス・ショットとS・ルメットばりのカッティング・イン・アクション、誇り高き女性像などが際立った傑作ばかりである。90年に撮られた『コルチャック先生』に、すでにその片鱗は見えていたものの、70-80年代からゼロ年代にかけてのワイダの遂げた飛躍にはすさまじいものがある。(90年代後半からパヴェウ・エデルマンが撮影を担っていることがほとんどなので、このあたりが転機なのかもしれない)

さて、『カティンの森』であるが、ここで21世紀の3大ジェノサイド映画を決めてしまおうと思う。先日見た『アイダよ、何処へ?』(スレブレニツァの虐殺)、アトム・エゴヤンの『アララトの聖母』(アルメニア人虐殺)、そしてこの『カティンの森』である。

『アイダよ、何処へ?』が、とにかくアイダという一人称の視点を忠実にフォローしながら、虐殺そのものについては直接的な描写を排することで、大文字の歴史と個人史の交錯をスリリングに描いたとすれば、『アララトの聖母』は歴史を語る行為を徹底して相対化してみせたポストモダン映画であった。
『カティンの森』はそのちょうど中間のような映画であると言える。
少佐の妻がナチスドイツの記録映像を見せられ、カティン事件を知る。
その映像では、ナチスとポーランドの調査委員会の調査の様子に、ソ連の極悪非道を暴露するナレーションがかぶさっている。彼女はこれによりソ連の犯行を確信する(作り手のスタンスももちろんこちらである)。
一方で中盤には、ソ連が作ったプロパガンダ映像において、先ほどの映像と瓜二つな、ソ連とポーランドの調査委員会による調査の様子が映される。ナレーションは、ナチスの仕業として糾弾している。
歴史は勝者によって創られるように、ナチスの犯行という主張が既成事実化していくのである。
その意味で、『アララト』ほど挑発的ではないが、ワイダがここで、映像がもつ邪悪な力を主題化していることは間違いないだろう。

その一方、虐殺後、あるいは終戦後の後味の悪さ、人生の苦みを描いた点では、『アイダよ、何処へ?』に先駆けるそれとなっている。
上記のように、勝者ソ連によってカティン事件が嘘で塗り固められていく様を、それに抵抗しようとして挫折する人々を描くことで表現しているにとどまらず、終戦後に再会する人達の微妙な感情のすれ違いを見事に描いているのが素晴らしい。
主人公のアンナは、終戦後も、夫の帰りを待ち続け、娘には呆れられてしまっている。先に夫の死を知ったアンナの義母とも、感情的に対立していく。(義母を演じたマヤ・コモロフスカの何とも苦々しい表情が素晴らしい。)
少佐の妻と、元家政婦で今や市長の妻となった女性との苦々しい再会の描写も、慎ましくも厳しい印象を残す。
カティンで死んだ兄の墓碑をつくる妹(マグダレーナ・チエレツカ)と美術大学総長として共産党に忠実な姉(アグニェスカ・グリンスカ)の対立。
そして、束の間の若い男女の出会いと永遠の別れ(これぞワイダ印!)。

終戦がダイレクトに喜びにつながらず、新たな対立を生むに過ぎないという陰鬱な現実こそは、まさしく『アイダよ、何処へ?』が描き出したものであるし、ワイダが(そのスタイルには様々な変化があれど)50年代から一貫して取り組んできた主題だと言える。
クラクフの静かな公園、霧、そして雪。これほど美しく、華麗で、しかし徹底的な厳しさに満ちた歴史映画はなかなか見れるものではない。やはり、ワイダの最高傑作だ。





2021年10月14日木曜日

アイダよ、何処へ Quo Vadis, Aida


ファーストショットが良い。アイダを含む一家がソファに座っているのを横移動で捉える。
弟→父→兄と順番に画面に映り、みな画面右側を凝視している。カットが割られると、彼らの視線の先にアイダが座っている。アイダだけが画面左向きに座っている。これが物語上のどういうシーンなのかは明かされないが、事の顛末を事前に予見するようでもあるし、しかしそこまで明確でもない。むしろショット自体の緊張感、終盤まで流れることのないサントラの重厚さが印象的だ。
何度か殺戮の場面があるが、銃弾に倒れた女性の遺体を背後から捉えたショット以外、この映画では人が銃弾に倒れるというシーンがない。終盤のジェノサイドのシーンも、画面外に銃声を響かせるにとどまる。現実としてスレブレニツァの虐殺の犠牲者の遺体は見つかっていないものが多いというのだが、本作でも彼らの痕跡は骨と靴とわずかな衣服のみである。家族が銃弾に倒れて涙を流すとか、そういった描写は一切なく、決定的なことは我々の視野の外で起き、我々は残された人々を見守ることしかできない。
それがこの作り手にとっての、ボスニア紛争なのだろう。
無慈悲な虐殺のあとも、その決定的な痕跡を欠いたまま、苦い現実がひたすら続いていくのだ。

教師に復帰したアイダに笑顔はない。あるいは自宅で息子が呼ぶ声が聞こえても、特に動転することもない(この描写には驚かされる)。そこに安直な癒しや回復は描かれない。
アイダの回想で描かれるパーティでの、無表情に踊る人々の顔を捉えたショット(まるで幽霊のようである)に呼応するように、子供たちのアップショットがラストに続く。これも当然ながら、単純な希望とは呼べない何かだ。希望とも絶望とも言い難い、言語を超えた現実のなかで、しかしそれでも人は生きるのだ。この禁欲的な画面設計には感動する。(編集はパヴェリコフスキ作品を扱ってきたポーランド人,ヤロスワフ・カミンスキだ。彼に関連して監督がインタビューで、ウッチ映画大学の生徒も大半が、スレブレニツァの虐殺を知らなかったという話をしていた。)


とうとうアイダと家族が引き離される場面の、一連のショットが素晴らしい。ヤスナ・ジュリチッチのあの芝居を引き出し、撮影者があの映像を捉えたことで、この映画は完全に勝利している。
フランケン少佐を演じたレイモンド・ティリーも名演。
自分が所属する組織と家族の間で板挟みになった主人公が右往左往し続けるサスペンス映画として、同じくボスニアで撮られた傑作『サラエヴォの銃声』とともに記憶すべき名編。


2021年9月30日木曜日

死への逃避行

 通算3回目の鑑賞になるが、見れば見るほどハチャメチャな映画である。
もちろん、「見るー見られる」の関係性を主軸に様々な感情を交錯させるやり方は、ミレールが一貫して得意としたそれだが、この倒錯ぶり、この展開の突き抜けぶりは、彼のフィルモグラフィのなかでも出色である。
とりわけステファーヌ・オードラン演じる奇矯な女が絡むエピソードや、ヒッチハイクで知り合った不良少女との束の間の逃避行劇などは、無くてもいいようなサイドエピソードだし、実際よくわからない(笑) しかし、例えば後者のエピソードで、ふたりが銀行強盗をはたらく場面で、ミシェル・セローが人質としてその他大勢と一緒に床に座らされているあたりの描写の可笑しさはどうか。モーテルでのいきなりの発砲も割と意味不明だし、検問破りのシーンもその後、事態がいったん落ち着くことを考えると、なくても良い。むしろこのシーンをみるとそろそろクライマックスかと思うのだが、そうでもない。もう一個ホテルを経由することになる。

もしかすると、ミレールとしては、「見る - 見られる」の映画的モチーフや、虚構と現実をめぐる思わせぶりなストーリーなど、ちょっと凝り過ぎなところが気になって、あえてこういうあっても無くても良いような謎エピソードを入れたのかもしれない。実際、前者の映画的!なモチーフに終始するだけでは、この笑っちゃうような読後感は生まれないだろう。

もちろん、見る - 見られるの主題は、抜群の効果を発している。特にプールサイドでの殺人場面や、盲目の画商がバスにひかれるシーンのカット処理のスピード感が良い。こういう大事なシーンを外さないからこそ、全体として見事な緩急が生まれているのだ。
あとは空港のシーンではアジャーニがカメラ側を見るショットとセローがカメラ側を見るショットをわざとカットバックでつないでいるが、実は見ている方向が違うというトリッキーなことをやってもいるが、こういうのも良い。

2021年9月26日日曜日

ある結婚の風景

 監督:イングマール・ベルイマン

だいぶ久しぶりにベルイマンを見た。数年前に何本かまとめて見たのだが、本作は未見だった。自分にとっては『叫びとささやき』がワンオブベストだが、この作品はその後に撮られた作品だ。第2話までは抑制のとれた、夫婦のちょっとしたすれ違いをさりげなく描いているが、第3話で一気にボルテージが上がる。
『ドライブ・マイ・カー』のレビューで、これならエステル・ペレルのレクチャーを聞いた方がマシだと書いたのだが、この作品で展開される夫婦の受難は、本当にそのまんまエステル・ペレルの『不倫と結婚』に書いてある※。
ユーハンが求めているのはポーラそのものではなく、ポーラに出会って生まれた新しい自分の姿なのだ。ユーハンはマリアンにかなり明け透けにすべてをぶちまけ、4年前から君にはイライラしていたとまで言って憎しみをぶつけ、そのまま出て行ってしまう。しかもマリアンがショックのあまり友人にそのことを話すと、何と友人達はユーハンの浮気を知っていたという(これも『不倫と結婚』に出てくるエピソードだ)。
第4話では久しぶりに夫婦が家で再会する。ユーハンはアメリカの大学への転任が決まっており、ポーラとの愛以上に自分の人生の悟りを得意げに語る。曰く、人間はどうやったって孤独なんだと。マリアンはマリアンで、当初のショックからはわずかに立ち直りの兆しが出ていて、新しい彼氏がいて、またセラピーにも通っている。セラピーで日記や考え記録することを勧められ、その内容をユーハンに語り聞かせるが、ユーハンは眠ってしまう。マリアンはいつも誰かのために自分の感情を殺していたという気付きを得つつあるが、ここではまだ過去の傷から完全に立ち直れてはいないし、お互いにピリピリしていてコミュニケーションも刺々しい。
第5話になると立場が逆転している。マリアンはかなりの程度立ち直り、一方のユーハンはポーラとの生活に疲れ、アメリカ行きもなくなり、人生のどん底にいるようである。
ユーハンのこの転落ぶりは身につまされる。平穏なる結婚生活に息苦しさを覚え、ポーラという新しい愛人に出会うことで、新しい自分を発見、ついでにアメリカ転身まで決まっていたが、それらすべて崩れ、妻も愛人も名誉も失い、孤独な大学教授として鬱屈をためこんでしまっているのだ。
そしてその自分の人生への失望が爆発し、マリアンとユーハンは壮絶な喧嘩をしてしまう。
ここは見ていて辛い。帰ろうとするマリアンを部屋に閉じ込めて、挙句手を出してしまい、惨めに泣いてしまう。

この作品の主題の一つとして、「お互いの感情をすべて曝け出す」ということがあると思う。しかしそれが本当に良いことなのか、というと、この作品を見ても確信が持てない。
もはや本音なのか何なのかもわからない、行き場のない憎悪を剥き出しにすることが、危機を乗り越えるために、人間として成長するために必要なのだろうか。
第6話は一転して穏やかな流れが支配する。まずマリアンが母と会う。母は読書の途中で眠ってしまって、マリアンがやってきて起きる。この描写が穏やかそのものだ。
マリアンと母の会話では、母がほとんどの感情を隠したまま、夫が亡くなってしまったということが語られる。そのため、夫が亡くなっても、全く寂しくないのだと言うのだ。これはマリアンが辿っていたかもしれない妻像でもあるだろう。マリアンは、ある意味ではユーハンの不貞の「おかげで」、自分の感情を曝け出し、自分の殻を脱ぎ捨てることができたのかもしれない。しかしそれでも、マリアンの母よりマリアンがそれだけ幸福なのか、それはわからない。観客の判断にゆだねられる。ここには時代の変化、フェミニズムとの関係など、様々な視座があるように思う。
最後、ユーハンとマリアンが別荘で一夜を共にする。マリアンがユーハンを見つめて、「こんなに優しいのは久しぶり。大好きよ」と涙を流して伝えるシーンには思わず泣かされる。一難去っての、平穏。ユーハンが言うように、「お互い愛し合っているけど、やり方がまずいだけ」だった二人が、お互いにとって適切な距離感を見つけ、その束の間の幸福に身を浸して、作品は完結する。


※HBOでジェシカ・チャスティンとオスカー・アイザック共演でリメイクされるらしいのだが、なんとその監修にエステル・ペレルが入っている。

2021年9月20日月曜日

仙台短編映画祭2021 新しい才能に出会う

 『ニヒル』
岐阜で撮られた11分の作品。開始から、こじらせた女子大生のサディスティックなモノローグが続くが、残念ながらその内容にはあまり興味がわかない。しかしながら、彼女が自転車を走らせるのをフォローしたカメラが、画面奥でジョギングをする中年男性を捉え、パニングしながらそちらをフォローするショットが、妙に白々しい不思議な雰囲気を持っていて印象的であった。しばらく後のシーンで、この男と河原で遭遇し(高校時代の数学教師という設定)、彼がややニヤけた顔で背泳ぎの練習をする様子を主人公が目撃する。
この見る-見られるの関係をサルトルを引用して強調するというアクセントがあるが、二人を捉えたロングショットがなかなか堂に入っていて、画面右側が橋、左が川、というイメージ。もう少し左側の川が、あるいは遠くの景色が良ければ、アントニオーニ的になったかもしれない。ちょっと惜しい。


『SHIBUYA, Tokyo, 16:30』
ズビャギンツェフが好きだという大冨いずみ監督は、すでに長編作品も撮っている実力者。
自転車を止めて鍵をかけて降りる場面のアクションつなぎを見れば、優れた作家であることがすぐにわかる。そしてそこから続く、明確な権力勾配を背景にした室内劇は、確かにズビャギンツェフの『裁かれるは善人のみ』を思わせる空間造形、そして人物のアクションである。
映画プロデューサーを演じる俳優が嘘みたいに上手なのと、視点ショットによる距離感の創出がワールドクラスで、思わず身を乗り出して見た。
照明と色彩にも演出が行き届いており、ブラインドからさす西日にブラウンのニットがよく映えていた。
その辺のメジャーな映画監督よりもはるかに実力がある。素晴らしい。
ソファから立ち上がって、テーブルに足をぶつけてしまう、という繊細なアクションも見事だ。
他のスタッフが入ってきてから、ラストに至る帰結が、やや弱い。もうひと捻りあればアカデミー短編映画賞も夢ではなかった。

『誰のための日』
このような自主製作映画で、このような宴会シーンを造型できてしまう。これもまた、そこらへんのメジャー映画よりも堂に入っている。また、この宴会シーンで、それぞれの親戚の具体的な関係を説明しないのも潔い脚本と言える。
メインパートの喧嘩シーンは、逆に少しクリシェにはまっている印象を受けた。
いや、喧嘩とはこんなものなのだが、しかしこんなものである喧嘩をただ見せられても困るので、やはりどこかのタイミングで意外なアクションを入れてほしかった。
ラストの自販機のシーンは、なぜか自販機の前だけ道路が沈んでいて、映画的な高低差が生まれていた。ロングショットで終わるのも正解。

ということで、久しぶりに参加した映画祭、素晴らしかった。
ただし、トークで登壇した相田冬二、多くの尺を自分の映画論や解釈の話に割いていたが、さすがに作り手の人達がかわいそうになった。こういう気付いたら自分ばっかり喋っている映画評論家って、いるんだよな。大体、「実際物語とかセリフはどうでもよくて、もっと細部のちょっとした描写が大切ですよね」とか、シネフィル崩れみたいな事を言っていたが、いやそれ同意はするけど、作り手の前で言うことじゃないだろう。あんたの意見を押し付ける場じゃないんだよ。
しかも、2作目は間違いなくジェンダーの問題がメインテーマであるにもかかわらず、「私はそこにこだわらずあくまで映画として見たい」という謎のエクスキューズを置いていたが、お前がずっとベラベラ喋ってる状況それ自体が「男社会」の縮図であることに気付かないのだろうか。
観客からは、3作品とも女性の生きづらさを扱っていながら、抵抗よりも鬱屈と諦念が表出されているのが気になった、という意見(引用不正確)があり、相田氏の全ての発言よりも意義のある発言であったし、これを各作家がどう受け止めるかが割と重要だと思った。
あえて指摘すれば1作目と3作目にはこの"批判"(というと言い過ぎだと思うが)があたるかもしれない。映画の構造として、「色々あったけど、とりあえずハッピーエンド」みたいな「おさまりの良さ」が、むしろ野心を欠いたものと映るかもしれない。




オリエント急行殺人事件(1974年)

 監督:シドニー・ルメット

1回目見た時は、ただひたすらイングリッド・バーグマンの芝居に見惚れて、あとは普通かな、と思った。あと、アルバート・フィニーのポワロのせいで(?)あまり集中できなかった。
ところが、大変恥ずかしながら、バーグマンの尋問シーンがワンショットで撮られていることを後で知り、慌てて見直した。そうすると、確かにバーグマンのシーンはワンショットで撮られており、しかも途中でアルバート・フィニーの背中をぐるりと回って彼女のクローズアップに移行するようなカメラワークもあって、実に見事なそれであった。そしてよくよく見ると、この映画は意外にもショットが少ないではないか。セリフこそ膨大であり、また途中で過去の回想を細かくインサートするので気付かなかった。全然見れていなかったと反省。
あとはアクションつなぎがいくつかやられてて、ほとんど完璧。お手本のようなそれ。
特にヴァネッサ・レッドグレーヴの尋問に見かねて、ショーン・コネリーが制止するジャン・ピエール・カッセルを殴って入ってくる場面のアクションつなぎがこれ以上ないスムーズさ。
これぞというワンショットはないが(何なら冒頭の船が一番美しい)、ショットのつなぎが全然気にならない、これぞ名職人の技、という感じ。
見直してみるとアルバート・フィニーのポワロにもだんだん愛着がわいてくるから不思議だ(笑)
とはいえ、とにかくこの映画はバーグマンだ。この小さな役でこれほどの印象を残せる(しかも全く嫌味がない)女優など後にも先にもバーグマンだけだ。バーグマンがこの世界に生まれて本当によかった。

2021年9月17日金曜日

動く標的

 ポール・ニューマンの探偵映画。
ローレン・バコール、ジャネット・リー共演というわけで期待させるのだが、お二人とも友情出演みたいなレベルで、この扱いは残念。
お話も大して面白くもなく、悪役もめっちゃ弱いのだが、にもかかわらず捨てがたい魅力がある一本。1960年代というハリウッドの低迷期に作られたこの犯罪映画は、まさにその低迷ぶりを象徴するような人物が出てきて、この斜陽感、没落感が、今見ると不思議な味わいなのだ。

特に、かつてのスター女優で、今は中年太りのおばさんとなってしまった女性を、シェリー・ウィンタースが怪演してみせるのだが、彼女のベロンベロンになっていびきをかく醜態ぶりが楽しいのだ。そういえばポセイドン・アドベンチャーでもデブをいじられていた(笑)
このあたり、『何がジェーンに起こったか』を彷彿とさせるような人物である。怪しい新興宗教まがいの施設も出てきて、まさに60年代という感じだ。
ラストが潔くて好感。

2021年9月11日土曜日

ゴッド・セイブ・アス マドリード殺人事件

あの傑作『おもかげ』を撮ったロドリゴ・ソロゴイェンが2016年に撮った作品。
これまた見事な面白さ。この人は、人間のタガが外れる気まずさ、怖さを描くのが巧いんだ。肉体的な暴力は瞬間的だが、決して消えることのない暴力性がべったりとまとわりついているのがわかる。同僚をボコボコにする刑事に、女の扱いに慣れていない吃音持ちの刑事のタッグが魅力的。特に後者のリオネル・メッシのような佇まい。遺体のポーズを真似ることから事件の捜査を開始していくポリシーがまず面白い。捜査の過程も知性と直観のバランス感覚が素晴らしい。犯人の造型も見事に怖い。ネックレスやオレンジといった細部の扱いも良いが、唯一ある追走シーンがまた凄いテンションだ。暴力的な刑事と吃音を抱える刑事が、一気にボルテージを上げて犯人を追いかけるそのギアのかかりっぷりがたまらない。映画はこうでないと!

ラストシークエンスも素晴らしい。豪雨と車の組み合わせは、『おもかげ』でもやっていたね。

あえていびつなショット構成を狙っていると思うが、ちょっとこれに目が慣れるのに時間がかかった。が、後半はむしろとても安定したショット構成になっていたと思う。
ロドリゴ・ソロゴイェン、本物ですね。

2021年9月9日木曜日

ドライブ・マイ・カー

 フィクションとリアリティの行き来が全くうまく行っていないのではないか。「チェーホフは恐ろしい」という科白に比して、演者がフィクションに巻き込まれていくダイナミズムがこの映画にはなく、この映画における「演劇」や「フィクション」や「過去のトラウマ」はすべて機能的な記号として首尾よく配置されているだけのようにしか思えない。
まぁラストの手話の呼吸、間合いなんかは「お見事」なのだが、なぜ最後に拍手を入れたのかわからなかった。あのままフェードアウトしてエンドクレジットじゃダメなのか。

霧島れいかの官能性は『寝ても覚めても』と同じ監督が撮ったとは思えないそれで感嘆するし、赤い車が走っていく様を捉えた俯瞰ショット、水面を映したショット(特にフェリーでシーンはアントニオーニの『情事』やゴダールの『ソシアリズム』を彷彿とさせる)、島の旅館で原稿を練る西島の後ろ姿を捉えたショット、タバコを上に上げるショット、オーディションでの岡田将生を捉える横移動、岡田将生が隠し撮りする相手を追いかけて画面から消え、しばらくして戻ってくるあの時間の使い方、、、

と、良いところをあげればキリがない。しかしだ、濱口竜介は明らかに、そんな「映画的ですね!」という感想を拒否しようとしている。もう画面の時代は終わった、運動の時代は終わりですよと言わんばかりに、過去のトラウマを何度もセリフとして表出させ、西島や岡田の反省の弁を延々と説明するその確信犯的な演出はどうか。
どうか、と言っといて何だが、私はこんな映画は嫌いだ。
見ている間、濱口竜介はなんて図々しい監督だろうと思った。岡田将生が西島らを評して、「細かすぎて伝わらないものを表現している」というセリフを吐く、この作家の自意識の肥大はどうしたことか。ほとんどゴダールレベルの図々しさだ。しかしここにゴダールのような倫理があるだろうか。
私には何やらとんでもなく高いところから説教されているようにしか思えず、しかしこれならエステル・ペレルの不倫についての講義を聴いていた方がよっぽどマシではないか。
「辛いことはいっぱいあるけど、亡くなった人の分まで頑張って生きていかないとね」からのあのエピローグには怒り心頭である。

カンヌの審査員達も、本当は全然ダメだと思ってるけど、批評家大絶賛だから仕方なく脚本賞だけあげた、というのが本当のところじゃないのか。

とても誠実な映画、とか、傑作、とか、そんな受容の仕方で本当に良いのか。
いま思えばあの映画が全てを変えた、という記念碑的ポジションになるか、きれいさっぱり忘れ去られるか、それは歴史が判断することだろう。

(追記)
そういえば、濱口の映画では、モノの動きが画面を活気づけるということがほとんどなく、「人」しか出てこない。
西島が楽屋で服を放ったとき、ドサッと着地した服の柄や色を誰が覚えているだろうか。岡田将生の着ている服は日本映画には珍しいぐらいにオシャレで注意を惹くが、しかし彼は決してそれを脱いだりすることはなく、ファッションショーの域を出ない。三浦透子の帽子はどこへ行ったか。西島が飲むコーヒーはついぞ画面に現れない。ピストルのフォルムもまるで思い出せない。とりわけ腹立たしいのは、三浦が雪の中投げる花の処理だ。
モノがほとんど止まった世界で、人間だけが自分をさらけ出している。それが退屈なのかもしれない。



2021年9月3日金曜日

レリック 遺物

 監督:ナタリー・エリカ・ジェームス

オーストラリア製のホラー映画。
家をめぐるオーソドックスなホラーに、祖母、母、娘の女三世代の物語を混ぜたストーリー。
俯瞰ショットとか、さびれたテニスコートのネットのショットがなかなか堂に入っていて、また、祖母の登場シーンがなかなか雰囲気があって良い。
ホラーそのものは「家モノ」と言ってよい、オーソドックスなそれだが、そこに認知症の祖母のケアをどうするか、という要素を入れ込むことで、祖母への視線に捻りが生まれるのが上手。
認知症の主観的経験をスリラーテイストにしたのが『ファーザー』なら、こっちはその逆をやったような位置づけか。
前日に指輪をくれたはずの祖母が、指輪を盗まれたと思って力づくで取り返そうとする場面には唸った(その直前の娘が床に座って、祖母がソファに腰掛けているショットがグッド!)。

ただ、最後が尻すぼみ。相当いろんな伏線を張っていた気がするのだが、割と未消化に終わっている。と、シナリオにケチをつけたくなるのは、実は見せ方があまり巧くないからでもある。部屋が実はめちゃめちゃ広くて奥まで迷い込んで戻れなくなる、という展開は盛り上がるのだが、しかしその脱出過程はずいぶん単調。
未消化なまま終わるのも一つの作戦なのかもしれないが、もうちょっと膨らませてほしかった。


2021年9月1日水曜日

リミッツ・オブ・コントロール

 ジャームッシュについては自分は完全に初心者で、数年前に『ダウン・バイ・ロー』や『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見て、面白いなと思いつつ、生意気ながら自分好みではないな、と思っていた。
正直、新作も結構スルーしていた(←失格)が、『パターソン』は文句なしに素晴らしいと思った。が、それも含めて、なんかズルいな、こちらとしては全然付け入るスキがないなぁ、と感じていた。

しかし先日、レトロスペクティヴで『ゴースト・ドッグ』を見たら、オールタイムベスト級の面白さで、これは大変気に入ったし、この映画のイザック・ド・バンコレが主演なのであれば見るしかないと、DVDを借りて見た。

スーツがオシャレ、ホテルや美術館の空間、オープンカフェの店員とのやり取りの面白さなど、極めて表層的に楽しめる映画でもあり、同時に映画作家への目配せもある(ティルダ・スウィントンがウェルズやヒッチコックの映画を語る)。
たしかにブレッソンであり、ヒッチコックだが、しかし大真面目にこれらの作家を模倣しているという感じでもない。物語もひたすら「ハッタリ」を続ける映画であって、むしろ映画とはハッタリを如何に続けられるかの勝負だという宣言のように感じた。実際、見事に続け切っている。
神出鬼没のヌード女性(パス・デ・ラ・ウエルタ)の存在感が素晴らしい。映画のモチーフは極めて虚無的であるが、彼女の「遺体」に向けられた視線には熱がこもっていた。



2021年7月22日木曜日

17歳の瞳に映る世界

 監督:イライザ・ヒットマン

これを見て、それなりに映画を見ている人は、『4ヵ月、3週と2日』を思い出さずにはいられないだろう。この映画では18週という設定なので、4,1,1ぐらいということになる。(この週数をめぐってもちょっとしたトラブルがあるが。)

『4ヵ月、3週と2日』の舞台は、冷戦時代の、中絶が違法となっているルーマニアであったのに対し、本作は中絶が合法の自由の国アメリカである。中絶を遂行するまでの旅路、交渉のプロセスは、4,3,2では圧倒的厳しさが支配していたのに対し、本作はいくらかソフトな、しかし相変わらず困難な旅路である。息もつかせぬ活劇として撮られた『4,3,2』に比べて、あえてゆとりを持たせた、ときにルーズに過ぎる撮影スタイルが選択された本作は、冷戦に「勝利」した我々西側は、本当に良い社会になったのだろうか、という問いかけのようにも感じられる映画である。原題となっている「Never, rarely, sometimes, always」の反復が、まさに我々に向けられている(固定されたバストショットでシドニー・フラニガンを捉え続けるカメラは、凝視という攻撃性を自ら露呈しつつ、観客にとっての鏡の機能を有しているだろう)。

ところで、男性描写についてはどうか。
『4,3,2』では、堕胎を執行する産婦人科医が、圧倒的抑圧者として画面に君臨していたことが思い出される。しかしながら、これは『4,3,2』のレビューでも書いたが、あの産婦人科医は、同時に大変なプロフェッショナルで、彼は施術を終えたあと、確かに施術を受けた女性の体に優しく手を置き、「ケアのまなざし」を見せるのである。これは、だからこの男にも良心があるということではない。そうではなく、彼、あるいは医師が発揮する「ケア」が、いかに暴力と、家父長的抑圧と表裏一体の関係にあるか、ということをこれ以上ない強度で暴いているのである。このたった一つの描写でそれを暴いたクリスチャン・ムンジウが、その後宗教的抑圧を描き(『汚れなき祈り』)、次に娘のために汚職を働く父を描いた(『エリザのために』)ことは必然である。
それに比べると、本作の男性、特に4,3,2,における産婦人科医的なポジションにある若い青年(テオドール・ペルラン)は、それほどの強度をもった存在ではない。ストーリーラインの近接性から比較したくなる誘惑があるが、このあたりの描写は直接の比較をするべきではないかもしれない。むしろこの、おそらくはあまりモテない、歌も下手な、金を貸す代わりにキスをせがむ青年に代表される、男達の凡庸さこそが、本作の面白さかもしれない。

ところで、ニューヨークの街並みを捉えたショットは少ないものの、16mmフィルムで撮られた作品としても覚えておきたい。(撮影は『幸福なラザロ』のヘレネ・ルヴァール、なるほど!!)


それと、4,3,2との比較でばかり書いてしまったせいで触れられなかったが、主役2人の旅路を、ほとんど2人に会話させずに描くという試みも素晴らしい。もちろんクライマックスで手を取り合う描写への演出上の伏線という意味もあるにはあるが、それでもお互いロクに口もきかずに不機嫌な顔をして困難な旅に出る二人の姿には感銘を受ける。

2021年6月2日水曜日

私の秘密の花

 監督:ペドロ・アルモドバル

久々にDVDで見たが、個人的にはアルモドバルの最高作はこれ。
後に『ジュリエッタ』でも再現される、愛の挫折とその癒しの物語。一方通行の愛を痛々しくもユーモラスに演じるマリサ・パレデスが本当に素晴らしい。彼女が夫に捨てられたあとの一連の描写。睡眠薬を大量服用し、ベッドに寝そべった彼女を捉えた美しい俯瞰ショット。そこからカフェで、テレビから流れる失恋を歌った唄に涙し、外に出ると白衣を着た医学生達が元気よくデモに興じている。そこにエル・パイスの編集者が現れ、彼女を抱きとめる。抱擁する二人を俯瞰で捉えたカメラは、ゆっくりティルトアップして、紙吹雪が舞う空を映す。そこにかかるメランコリックな歌。何と言うエモーションの連鎖。ここには映画にしか表現できない情感がたっぷり詰まっている。

アルモドバルにおいては、常に現実と虚構の関係が重大なモチーフとなる。それは時にフェティシズム的な描写に堕するリスクをもっているが、この映画では様々な"フィクション"が良く機能している。臓器移植のシミュレーション、小説、フラメンコ、様々な映画に自分たちの境遇を重ね合わせるセリフの数々。あるいは帰ってきた夫に対して、まるで夢を見る少女のようにべたべたとくっつくマリサ・パレデス。人々は時にフィクションに溺れ、そして現実を突きつけられ、生きることの困難を前に崩れてしまうが、同時にフィクションによってのみ表現可能な生の輝きに満たされ、つかの間の癒しを与えられる。その余韻。
「人生はときに矛盾していて、時に公平でもある」とつぶやくマリサ・パレデスの姿に泣く。


2021年4月25日日曜日

水を抱く女

 監督:クリスチャン・ペッツォルト

 ペッツォルトが、『未来を乗り換えた男』の主演ペアでもう一本撮った作品。そういえば『東ベルリンから来た女』→『あの日のように抱きしめて』でも同じカップルを使っていた。その時自分のなかでホットな役者を連続して使いたくなる人なのだろうか。

 本作は前作に比べると、かなり規模が小さく、90分のコンパクトな作品だ。前作が男女のラブロマンスを主軸としつつも、複数の印象的なサイドエピソードによってかなり多面的な作品に仕上がっていたのに対して、本作はストレートに二人のプラトニックなロマンスを魅惑的に描いた作品と言える。

 面白いのは、ウンディーネは超人的な存在であると同時に、かなり普通の人間として描かれている点だ。そしてウンディーネの視点から見た、相手のクリストフにも、どこか超越的な側面がある。例えば最初に二人が出会う場面では、観客にもわかるように、水槽のなかの潜水服を来た人間がクリストフの分身であることが示される。なので、ウンディーネという超人と人間世界の単純な二項対立ではなく、ウンディーネもまた人間的な側面をもち、クリストフもまた超越的な部分をもっているのである。
 それにしても、水槽が壊れ、水がバサーっとかかるシーンの古典的な手触りには驚嘆した(ペッツォルトは相当なシネフィル)。

 入水のシーンがあまり劇的ではないのが少し残念であった。
 あるいは、上述のカフェでの水槽のシーンのようなファンタジックな描写が、中盤以降は水中に限定されてしまうのが、個人的には物足りない。もっと陸上でもおかしな出来事がいっぱい起きてほしかった(ワインの染みも後付け感が)。
 とはいえ、全体としてものすごく完成度の高い大人のダーク・ファンタジーで、ペッツォルトの力量が存分に発揮されている。二人で肩を寄せ合って歩いている映像、ああいうのは日本で絶対撮れないだろうな、、と。


2021年3月29日月曜日

第一容疑者 EP5 インナーサークル

 監督は初の女性起用で、サラ・ピア・アンダーソン。カメラは3話目からのデヴィッド・オッド。
 振り返ってみると、1話目から捜査チームに誰かしら不協和音的な存在がいて、事件の題材を反映した存在を背負っていることが多い。最初はヘレン・ミレン自身がそうなのだが、2話目の黒人巡査、3話目はゲイの刑事、4話目が虐待された過去をもつ刑事。1話目は娼婦を狙った連続殺人と抑圧的な夫に耐える妻もフィーチャーされた。2話目は人種差別が題材、3話目はドラアグ・クイーンの世界に関わる殺人事件、4話目が幼児の殺人事件。
つまり、毎回何らかのマイノリティ集団がかかわっており、そして実は少なからぬ関係のある人物が捜査チームにもいて、決して自分たちと関係のない「よそ」の話ではない、という図式が強調されるように脚本が書かれている。
 今回もそうした構造を引き継いでいるといえる。今回の「異質な」存在が、ソフィー・スタントン演じる、クロムウェル刑事である。
 捜査の領域が、深刻な薬物汚染をかかえる、かなり治安の悪い団地へと向かうのだが、実は終盤に、クロムウェル刑事が、かつて薬物依存で更生施設にいた経験をもっているということが判明する。その判明するシーンの演出が素晴らしいので記しておきたい。

 未成年の女性を尋問するシーン。当初、ヘレン・ミレンが主導的に尋問を進めていたが、被疑者の横で様子をみていたソフィ―・スタントンが、被疑者の向いに立つ。カメラはヘレン・ミレンを映したショットのまま持続し、スタントンが画面左からフレームインしてくる。ヘレン・ミレンとスタントンが横に並ぶかたちになるのだが、窓からの陽光により、微妙に違った光が二人にあたっている。この画面のまま、スタントンがかなりagressiveな態度で被疑者が更生施設出身であることを指摘し、自分もそうだと打ち明け、私たちはクズなんだから、シロならちゃんとシロと言われないと犯人されちゃうんだよ、と発破をかける。それを斜め後ろから驚いた様子で見るヘレン・ミレンの視線。そこでカットが割られ、尋問後、化粧室の場面に転換する。そこでスタントンが鏡の前に立ち、奥にヘレン・ミレンが立っている。二人はそもそも、中盤まで、どちらかというと感情的に対立し合う関係だったのだが、スタントンが自分の出自を明かした直後のこのシーンで、二人の関係が改善するのがわかる。やってることは、単にフィックスショットを少し持続させ、なおかつ照明に気を遣って構図を整える、できれば鏡も駆使して、というごく基本的で単純な演出なのだが、そのシンプルな展開が胸を打つ。あるいは、ソフィ―・スタントンの気持ちの良い威勢のよさが非常に際立つ。

 お話全体はさほど面白くないのだが、シリーズ屈指の満足感で、これは一押し。


 

2021年3月17日水曜日

第一容疑者 EP4 消えた幼児

 出ました、ジョン・マッデン。近作の『女神の見えざる手』は素晴らしい娯楽映画だったが、その前に撮っていた『ペイドバック』も面白かった。この『ペイドバック』がヘレン・ミレン主演だったのだ。
前EPと撮影監督が同じだが、明らかにルックスが違う。そもそも画面サイズがスタンダードになっているのだが、それは置くとしても、コントラストがより強調された照明、逆光を多用した人物の切り取りが横溢している。あえて俗っぽく言えば、これまでのエピソードで最も”シネマティック”かもしれない。
遺体発見時の川べりを捉えたクレーンショットや、ガラスの反射の使い方、会議室でのカッティング処理の充実ぶりは評価できるだろう。

物語はまたしてもペドフィル系なのだが(さすがに似たような題材を扱いすぎなのではないか)、今回はペドフィリアの心理的闇にも焦点が当たる点で、これまでと様相が異なる。より心理的で、組織の描写よりは個々人の描写が重視されている。その事をどう評価するかは分かれると思うが、シリーズものの宿命ともいえる。ちょっと心理的すぎると思うが。

容疑者として浮上する男が本当に犯人なのかという点と、彼の治療医の職業倫理、それから暴走する警部補の隠された過去(これなんかも、EP2のアフリカ系巡査の話と図式は同じで新味はない)などがフィーチャーされるのだが、結末に意外性がある。このあたりの真相の提示の仕方に過剰な演出がないのがいい。


以下、完全にネタバレだが、
ヘレン・ミレンが中絶手術を終えるところから始まり、ラストは実は幼児殺害の犯人が母親であることが判明する(ここが極めて自然な流れで、あまりタメをつくらずに、母親が独白し始める、というあたりの処理が良い)。母親は、子供に人生を奪われた、と言い放つ。泣き止まない子供のせいで生活もできず、仕事もできない。子供なんてちっとも良くない、と泣きながら言い放つ。それでとうとう母親は子供を殺してしまうわけだが、ヘレン・ミレンはあくまで彼女に同情的にふるまう。それはヘレン・ミレンもまた、仕事のために「中絶」を行ったからだ。幼児の遺体を見たあと、涙を禁じ得ないヘレン・ミレンの姿は、自身が殺した我が子の遺体を見て涙を流す母親と同じなのだ。
こうしたモチーフは偶然にも『女神の見えざる手』のスローンの存在にも通底する。加害者を追うことで、自らの加害性をも自覚し、傷ついていくヒロイン。マッデンの得意分野という感じか。



2021年3月14日日曜日

第一容疑者 EP3

 監督はデヴィッド・ドル―リーに変更。脚本にはリンダ・ラ・プランテが復帰。
前回、殺人課をやめたテニスンが、今度は風紀課に転属。そこで売春の一掃計画を任されるが、ちょうど売春関連の殺人事件が起きて、そちらの捜査がメインになっていく。
題材や真相、背景の組織的隠ぺい体制については、EP1とEP2を足して2で割ったような感じで、あまり新鮮味がない。
また、冒頭から情緒的な音楽が流れ、並行モンタージュによるドラマチックな雰囲気の醸成が企図されているようにみえる。ざっくり言えば、ここにきてだいぶ通俗化してしまった感は否めない。逆にヘレン・ミレンの役付けもより親しみが増してきたとも言え、着ている服も暖色系のスポーティなものが増えた。
ショットとしての見どころはあまりない(撮影監督も変わっている)。一方で、各配役の表情やお互いの関係性は単純さを拒否し、本EPの見どころになっている。
特にEP1でヘレン・ミレンにチームから外されたトム・ベルが、毎回微笑を浮かべるので、何を考えているのかがわからない、というのがスリリングだ。
カミングアウトする刑事、HIVの子供に手を噛まれ不安を抱える刑事、その他やたらサイドエピソードが出てくるが、それほどしっかり決着をつけないままにしておくのも、このシリーズの良さかもしれない。


2021年3月11日木曜日

第一容疑者 EP2

  監督はクリストファー・メノールからジョン・ストリックランドに変更され、またエピソード1の脚本を担当したリンダ・ラ・プランテはStoryLineのクレジットになり、脚本にはアラン・キュビットがクレジットされている。
ヘレン・ミレン演じるテニスンが、男性優位の警察組織で孤軍奮闘するというエピソード1を経て、人種問題にフォーカスをあてているという物語上の要請も、これらクレジット変更に関係しているのであろう。タバコを吸う姿があんなに決まっていたヘレン・ミレンが禁煙しているという設定も、新しいものをつくろうという意気込みを感じる。

 冒頭から模擬尋問が始まる。ヘレン・ミレンはすっかり優秀な女性警部という感じで受け入れられており、それはエレベーターにおけるヘレン・ミレンの余裕のある表情からもうかがえる(エピソード1では、エレベーターで長身の男性に囲まれ窮屈そうにする様子が何度か描かれていた)。
 
 さて、物語上の力点は、人種問題におかれているのだが、これがなかなか複雑にして一筋縄ではいかない。まずヘレン・ミレンが冒頭で黒人の巡査と一夜の関係を持ってしまうことが全編において話を拗らせる要因となるのだが、そのヘレン・ミレンにしても、人種的平等の観点からいって相当危うい。オズワルド巡査に対しての「黒人だからって特別扱いされたい?」というセリフは、エピソード1で自身が直面したジェンダー不平等の問題を自ら再現してしまっているし、対するオズワルド巡査もまた、終盤で自ら「自分はココナッツなのかもしれない」と回顧するように、アイデンティティを理由にしたくないという信念が空回りして、アフリカ系の少年に対して過剰なまでに暴力的な態度をとってしまう。あるいはそもそもオズワルドがチームに加入した理由自体が、警察組織の政治的な配慮である(このあたりは最近のJOCの体たらくを思わせる)。

オズワルドに威圧的尋問をされて錯乱状態に陥る少年が、"I can't breathe"と叫ぶのが印象的だ。

 エピソード1が、同一画面に複数の人物が出たり入ったりする演出が多用されていたのに対して、本作の演出上の特徴は、画面の奥行をより意識した設計だろう(※)。例えば白骨遺体が発見され、その周辺に刑事達が聞き込みを行うシーンでは、手前と奥の家それぞれに車が止まって、刑事達が降りてやってくる。ピントは手前の刑事にあてられるが、奥の家に行った刑事が、そこで強引に住人を連行しようとして住人が大声を出す。それを見て、手前の刑事も慌ててそちらに走っていく、というような演出がとられる。手前がブロンドの若い刑事で、奥が長身のレイシズムを隠さない刑事である。

 このコンビが中盤に、数年前の地元コンサートについてスタジオに聞き込みに行くシーンでも、やはり同様に、奥のレコーディング室で言い合いの喧嘩が始まるというショットになっている。
 画面の手前、奥、という関係性で、本EPで最も印象的な演出は、白骨遺体の情報から粘土で復元した像を、現場の隣の家族が見に来る場面。そこで息子のトニーが明らかにその像を見て取り乱し、母親に支えられながら椅子に座るのだが、ここでカメラは、この粘土像を手前に舐めながら、取り乱すトニーをピンボケで映す。ここではこの粘土像が、その空間を強力に支配していると言える。

終わってみれば、なかなか手の込んだ筋立てで、伏線がものの見事に回収されていくわけだが、素晴らしいのが、回想の再現シーンが一切ない点。
人物達の回想や独白によって語られる内容は結構複雑なのだが、演出はあくまで独白する者、それを聞く者の姿を捉えることに専念する。これがこのドラマを非常にクラシカルで締まりのあるものにしている重要なポイントだろう。

※  同一画面上で複数の人物が出たり入ったりする演出では、運命的な出来事の連鎖が強調されるだろう(例えばテニスンの前任者が心臓発作で他界、テニスンに出番がまわってくる、というように)。 




2021年3月7日日曜日

第一容疑者 EP1 後編

 後編は、面通しの場面から始まる。
ヘレンミレンが持つタバコの煙、その奥で事態を見るトム・ベル。面通しでは結局思惑通りに行かない。そうとわかった瞬間に、トム・ベルがさっさと部屋をあとにするのを画面奥に捉えたショットで処理。冒頭から痺れるような展開である。

 後編の見せ場は刑事課総出で容疑者マーローを追い詰める尾行シーンだろう。マーローがカフェに入っていったタイミングで、自転車で尾行していた刑事とタクシーに乗った刑事が交代する場面をはじめとする小気味良い演出。

 あるいは男性社会で戦う女性たちの連帯も見え隠れする。
オールダムの娼婦たちとのやり取り、ヘレン・ミレンとゾーイ・ワナメイカーの単純には済まない緊張感のある関係性。
感心したのが、ヘレン・ミレンがマーローを尋問している間、部屋でほかの男性刑事たちが待機している場面。刑事達は、「あの変態野郎め」と口々にマーローを罵る言葉を吐き合っては、お互いの「良識」をアピールするのだ。実際には、情報屋と関係を持っていた刑事の存在や、当初のヘレン・ミレンの抜擢に反対していた刑事などの存在を考えれば、この描写が実に皮肉をもって描かれていることは明白だ。男性のホモソーシャルなグループが、平常時に女性蔑視的な態度を隠さない割に、何かあると途端に女性の味方になる、あるいは加害男性を憎む、という傾向をうまくとらえている。

2021年3月5日金曜日

第一容疑者 EP1

  1991年に放送されたイギリスの2時間ものの刑事ドラマ。その後、何回か放送され、今に至るまで10個ぐらいのエピソードがある。今回はその第一話。
  ヘレン・ミレン演じるジェーン・テニスンは、圧倒的男社会である警察組織において、警部という肩書でありながら、任されるのは書類仕事ばかりで、重大な刑事事件はすべて男性の刑事達が任される。それが、とある事件の担当刑事が心臓発作で急死したのをきっかけにテニスンが事件を担当することになるが、事件の捜査だけでなく、女性の元で働くことが全く容認できぬ野郎ども達の嫌味や妬みとも戦うというもの。
 これがものすごくシックな作りで、渋くて渋くて、あまりの渋さに痺れる素晴らしい刑事ドラマである。おそらく当時としては先見的な題材であっただろうが、フォルムはまるで70年代アメリカ映画、あるいはシドニー・ルメットの刑事映画のような、必要最低限の説明にとどめながら、人物の仕草、視線のアクションで物語をどんどん進めていくそれ。無意味なBGMもなく、誇張されたクローズアップもない(自然なカメラワークのなかで寄っていくショットは多い)。ヘレン・ミレンがタバコをふかすショットだけですでに大満足だが、とにかく演出が素晴らしい。

とりわけ驚かされたのが、被疑者の家を、向かいの家の窓から刑事達がカメラで偵察していると、使用人(?)が間違えて明かりをつけてしまって、ちょうど玄関のドアを開けた妻にバレてしまう、という件の演出。
凡庸な作り手であれば
「妻が玄関のドアを開けて夫を中に入れる⇒使用人が明かりをつける⇒刑事達が慌てて明かりを消させる⇒刑事達が振り向くと妻がこちらを見ている」といった処理になるであろう。もしかしたら妻が気づく場面は、改めて被疑者の家の中にカメラを置いて撮るかもしれない。
しかし本作では、まず被疑者の妻がドアを開けるシーンを撮り、そのまま妻が何かに気づいてふと顔を上げるショットを撮り、するとカットが割られて、慌てて明かりを消させる刑事の姿を妻の視線ショットで映す(つまり観客も妻もここで初めて何が起きたかを知る)、という処理をしている。まず使用人が間違えて明かりをつけてしまう、というショットがない。我々が目にするのは、明かりをつけたあとに慌てて消す場面だけである。こんな「不親切」で「映画的な」処理があろうか。

あらゆる決定的なシーンに一切の誇張もタメもない。大体において、最初に事件を担当することになる男の刑事が、上司との話し合い中に突然心臓発作で倒れて死んでしまう場面にしても、急に倒れて、救急車で運ばれ(ここで出勤したヘレン・ミレンと交錯する)、次のショットでは部下が彼の死を報告する、という早業である。

個人的には、映画におけるショットの「経済的な処理」というお題目が好きではない。何だその経済性というのは、と思う。
が、無数の経済的なショットで構成されたこの『第一容疑者 第一話』には、経済性(=映画はこれで良いのだ、的な快楽)だけではない、何かが宿っている。それは経済性のおかげで実現した何かなのだが、ドライでシックで「経済的な」眼差しが、物語とどこかで共鳴することで、突然豊かさを帯び始める。
上述した偵察のシーンにしても、古典的には「見る側」である刑事達のサスペンスとして処理されるべき筋書きだが、「見られる側」である妻の視点に素早く転換するその手際が、女性が男性に見られる、というこの世界の構造を静かに暴いているともいえる。

これは一気見してはいけないドラマだ。
一話一話、ゆっくり咀嚼しながら、時間をかけて見るべし。