2021年3月5日金曜日

第一容疑者 EP1

  1991年に放送されたイギリスの2時間ものの刑事ドラマ。その後、何回か放送され、今に至るまで10個ぐらいのエピソードがある。今回はその第一話。
  ヘレン・ミレン演じるジェーン・テニスンは、圧倒的男社会である警察組織において、警部という肩書でありながら、任されるのは書類仕事ばかりで、重大な刑事事件はすべて男性の刑事達が任される。それが、とある事件の担当刑事が心臓発作で急死したのをきっかけにテニスンが事件を担当することになるが、事件の捜査だけでなく、女性の元で働くことが全く容認できぬ野郎ども達の嫌味や妬みとも戦うというもの。
 これがものすごくシックな作りで、渋くて渋くて、あまりの渋さに痺れる素晴らしい刑事ドラマである。おそらく当時としては先見的な題材であっただろうが、フォルムはまるで70年代アメリカ映画、あるいはシドニー・ルメットの刑事映画のような、必要最低限の説明にとどめながら、人物の仕草、視線のアクションで物語をどんどん進めていくそれ。無意味なBGMもなく、誇張されたクローズアップもない(自然なカメラワークのなかで寄っていくショットは多い)。ヘレン・ミレンがタバコをふかすショットだけですでに大満足だが、とにかく演出が素晴らしい。

とりわけ驚かされたのが、被疑者の家を、向かいの家の窓から刑事達がカメラで偵察していると、使用人(?)が間違えて明かりをつけてしまって、ちょうど玄関のドアを開けた妻にバレてしまう、という件の演出。
凡庸な作り手であれば
「妻が玄関のドアを開けて夫を中に入れる⇒使用人が明かりをつける⇒刑事達が慌てて明かりを消させる⇒刑事達が振り向くと妻がこちらを見ている」といった処理になるであろう。もしかしたら妻が気づく場面は、改めて被疑者の家の中にカメラを置いて撮るかもしれない。
しかし本作では、まず被疑者の妻がドアを開けるシーンを撮り、そのまま妻が何かに気づいてふと顔を上げるショットを撮り、するとカットが割られて、慌てて明かりを消させる刑事の姿を妻の視線ショットで映す(つまり観客も妻もここで初めて何が起きたかを知る)、という処理をしている。まず使用人が間違えて明かりをつけてしまう、というショットがない。我々が目にするのは、明かりをつけたあとに慌てて消す場面だけである。こんな「不親切」で「映画的な」処理があろうか。

あらゆる決定的なシーンに一切の誇張もタメもない。大体において、最初に事件を担当することになる男の刑事が、上司との話し合い中に突然心臓発作で倒れて死んでしまう場面にしても、急に倒れて、救急車で運ばれ(ここで出勤したヘレン・ミレンと交錯する)、次のショットでは部下が彼の死を報告する、という早業である。

個人的には、映画におけるショットの「経済的な処理」というお題目が好きではない。何だその経済性というのは、と思う。
が、無数の経済的なショットで構成されたこの『第一容疑者 第一話』には、経済性(=映画はこれで良いのだ、的な快楽)だけではない、何かが宿っている。それは経済性のおかげで実現した何かなのだが、ドライでシックで「経済的な」眼差しが、物語とどこかで共鳴することで、突然豊かさを帯び始める。
上述した偵察のシーンにしても、古典的には「見る側」である刑事達のサスペンスとして処理されるべき筋書きだが、「見られる側」である妻の視点に素早く転換するその手際が、女性が男性に見られる、というこの世界の構造を静かに暴いているともいえる。

これは一気見してはいけないドラマだ。
一話一話、ゆっくり咀嚼しながら、時間をかけて見るべし。

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