2021年9月20日月曜日

仙台短編映画祭2021 新しい才能に出会う

 『ニヒル』
岐阜で撮られた11分の作品。開始から、こじらせた女子大生のサディスティックなモノローグが続くが、残念ながらその内容にはあまり興味がわかない。しかしながら、彼女が自転車を走らせるのをフォローしたカメラが、画面奥でジョギングをする中年男性を捉え、パニングしながらそちらをフォローするショットが、妙に白々しい不思議な雰囲気を持っていて印象的であった。しばらく後のシーンで、この男と河原で遭遇し(高校時代の数学教師という設定)、彼がややニヤけた顔で背泳ぎの練習をする様子を主人公が目撃する。
この見る-見られるの関係をサルトルを引用して強調するというアクセントがあるが、二人を捉えたロングショットがなかなか堂に入っていて、画面右側が橋、左が川、というイメージ。もう少し左側の川が、あるいは遠くの景色が良ければ、アントニオーニ的になったかもしれない。ちょっと惜しい。


『SHIBUYA, Tokyo, 16:30』
ズビャギンツェフが好きだという大冨いずみ監督は、すでに長編作品も撮っている実力者。
自転車を止めて鍵をかけて降りる場面のアクションつなぎを見れば、優れた作家であることがすぐにわかる。そしてそこから続く、明確な権力勾配を背景にした室内劇は、確かにズビャギンツェフの『裁かれるは善人のみ』を思わせる空間造形、そして人物のアクションである。
映画プロデューサーを演じる俳優が嘘みたいに上手なのと、視点ショットによる距離感の創出がワールドクラスで、思わず身を乗り出して見た。
照明と色彩にも演出が行き届いており、ブラインドからさす西日にブラウンのニットがよく映えていた。
その辺のメジャーな映画監督よりもはるかに実力がある。素晴らしい。
ソファから立ち上がって、テーブルに足をぶつけてしまう、という繊細なアクションも見事だ。
他のスタッフが入ってきてから、ラストに至る帰結が、やや弱い。もうひと捻りあればアカデミー短編映画賞も夢ではなかった。

『誰のための日』
このような自主製作映画で、このような宴会シーンを造型できてしまう。これもまた、そこらへんのメジャー映画よりも堂に入っている。また、この宴会シーンで、それぞれの親戚の具体的な関係を説明しないのも潔い脚本と言える。
メインパートの喧嘩シーンは、逆に少しクリシェにはまっている印象を受けた。
いや、喧嘩とはこんなものなのだが、しかしこんなものである喧嘩をただ見せられても困るので、やはりどこかのタイミングで意外なアクションを入れてほしかった。
ラストの自販機のシーンは、なぜか自販機の前だけ道路が沈んでいて、映画的な高低差が生まれていた。ロングショットで終わるのも正解。

ということで、久しぶりに参加した映画祭、素晴らしかった。
ただし、トークで登壇した相田冬二、多くの尺を自分の映画論や解釈の話に割いていたが、さすがに作り手の人達がかわいそうになった。こういう気付いたら自分ばっかり喋っている映画評論家って、いるんだよな。大体、「実際物語とかセリフはどうでもよくて、もっと細部のちょっとした描写が大切ですよね」とか、シネフィル崩れみたいな事を言っていたが、いやそれ同意はするけど、作り手の前で言うことじゃないだろう。あんたの意見を押し付ける場じゃないんだよ。
しかも、2作目は間違いなくジェンダーの問題がメインテーマであるにもかかわらず、「私はそこにこだわらずあくまで映画として見たい」という謎のエクスキューズを置いていたが、お前がずっとベラベラ喋ってる状況それ自体が「男社会」の縮図であることに気付かないのだろうか。
観客からは、3作品とも女性の生きづらさを扱っていながら、抵抗よりも鬱屈と諦念が表出されているのが気になった、という意見(引用不正確)があり、相田氏の全ての発言よりも意義のある発言であったし、これを各作家がどう受け止めるかが割と重要だと思った。
あえて指摘すれば1作目と3作目にはこの"批判"(というと言い過ぎだと思うが)があたるかもしれない。映画の構造として、「色々あったけど、とりあえずハッピーエンド」みたいな「おさまりの良さ」が、むしろ野心を欠いたものと映るかもしれない。




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