2021年9月9日木曜日

ドライブ・マイ・カー

 フィクションとリアリティの行き来が全くうまく行っていないのではないか。「チェーホフは恐ろしい」という科白に比して、演者がフィクションに巻き込まれていくダイナミズムがこの映画にはなく、この映画における「演劇」や「フィクション」や「過去のトラウマ」はすべて機能的な記号として首尾よく配置されているだけのようにしか思えない。
まぁラストの手話の呼吸、間合いなんかは「お見事」なのだが、なぜ最後に拍手を入れたのかわからなかった。あのままフェードアウトしてエンドクレジットじゃダメなのか。

霧島れいかの官能性は『寝ても覚めても』と同じ監督が撮ったとは思えないそれで感嘆するし、赤い車が走っていく様を捉えた俯瞰ショット、水面を映したショット(特にフェリーでシーンはアントニオーニの『情事』やゴダールの『ソシアリズム』を彷彿とさせる)、島の旅館で原稿を練る西島の後ろ姿を捉えたショット、タバコを上に上げるショット、オーディションでの岡田将生を捉える横移動、岡田将生が隠し撮りする相手を追いかけて画面から消え、しばらくして戻ってくるあの時間の使い方、、、

と、良いところをあげればキリがない。しかしだ、濱口竜介は明らかに、そんな「映画的ですね!」という感想を拒否しようとしている。もう画面の時代は終わった、運動の時代は終わりですよと言わんばかりに、過去のトラウマを何度もセリフとして表出させ、西島や岡田の反省の弁を延々と説明するその確信犯的な演出はどうか。
どうか、と言っといて何だが、私はこんな映画は嫌いだ。
見ている間、濱口竜介はなんて図々しい監督だろうと思った。岡田将生が西島らを評して、「細かすぎて伝わらないものを表現している」というセリフを吐く、この作家の自意識の肥大はどうしたことか。ほとんどゴダールレベルの図々しさだ。しかしここにゴダールのような倫理があるだろうか。
私には何やらとんでもなく高いところから説教されているようにしか思えず、しかしこれならエステル・ペレルの不倫についての講義を聴いていた方がよっぽどマシではないか。
「辛いことはいっぱいあるけど、亡くなった人の分まで頑張って生きていかないとね」からのあのエピローグには怒り心頭である。

カンヌの審査員達も、本当は全然ダメだと思ってるけど、批評家大絶賛だから仕方なく脚本賞だけあげた、というのが本当のところじゃないのか。

とても誠実な映画、とか、傑作、とか、そんな受容の仕方で本当に良いのか。
いま思えばあの映画が全てを変えた、という記念碑的ポジションになるか、きれいさっぱり忘れ去られるか、それは歴史が判断することだろう。

(追記)
そういえば、濱口の映画では、モノの動きが画面を活気づけるということがほとんどなく、「人」しか出てこない。
西島が楽屋で服を放ったとき、ドサッと着地した服の柄や色を誰が覚えているだろうか。岡田将生の着ている服は日本映画には珍しいぐらいにオシャレで注意を惹くが、しかし彼は決してそれを脱いだりすることはなく、ファッションショーの域を出ない。三浦透子の帽子はどこへ行ったか。西島が飲むコーヒーはついぞ画面に現れない。ピストルのフォルムもまるで思い出せない。とりわけ腹立たしいのは、三浦が雪の中投げる花の処理だ。
モノがほとんど止まった世界で、人間だけが自分をさらけ出している。それが退屈なのかもしれない。



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