2021年10月14日木曜日

アイダよ、何処へ Quo Vadis, Aida


ファーストショットが良い。アイダを含む一家がソファに座っているのを横移動で捉える。
弟→父→兄と順番に画面に映り、みな画面右側を凝視している。カットが割られると、彼らの視線の先にアイダが座っている。アイダだけが画面左向きに座っている。これが物語上のどういうシーンなのかは明かされないが、事の顛末を事前に予見するようでもあるし、しかしそこまで明確でもない。むしろショット自体の緊張感、終盤まで流れることのないサントラの重厚さが印象的だ。
何度か殺戮の場面があるが、銃弾に倒れた女性の遺体を背後から捉えたショット以外、この映画では人が銃弾に倒れるというシーンがない。終盤のジェノサイドのシーンも、画面外に銃声を響かせるにとどまる。現実としてスレブレニツァの虐殺の犠牲者の遺体は見つかっていないものが多いというのだが、本作でも彼らの痕跡は骨と靴とわずかな衣服のみである。家族が銃弾に倒れて涙を流すとか、そういった描写は一切なく、決定的なことは我々の視野の外で起き、我々は残された人々を見守ることしかできない。
それがこの作り手にとっての、ボスニア紛争なのだろう。
無慈悲な虐殺のあとも、その決定的な痕跡を欠いたまま、苦い現実がひたすら続いていくのだ。

教師に復帰したアイダに笑顔はない。あるいは自宅で息子が呼ぶ声が聞こえても、特に動転することもない(この描写には驚かされる)。そこに安直な癒しや回復は描かれない。
アイダの回想で描かれるパーティでの、無表情に踊る人々の顔を捉えたショット(まるで幽霊のようである)に呼応するように、子供たちのアップショットがラストに続く。これも当然ながら、単純な希望とは呼べない何かだ。希望とも絶望とも言い難い、言語を超えた現実のなかで、しかしそれでも人は生きるのだ。この禁欲的な画面設計には感動する。(編集はパヴェリコフスキ作品を扱ってきたポーランド人,ヤロスワフ・カミンスキだ。彼に関連して監督がインタビューで、ウッチ映画大学の生徒も大半が、スレブレニツァの虐殺を知らなかったという話をしていた。)


とうとうアイダと家族が引き離される場面の、一連のショットが素晴らしい。ヤスナ・ジュリチッチのあの芝居を引き出し、撮影者があの映像を捉えたことで、この映画は完全に勝利している。
フランケン少佐を演じたレイモンド・ティリーも名演。
自分が所属する組織と家族の間で板挟みになった主人公が右往左往し続けるサスペンス映画として、同じくボスニアで撮られた傑作『サラエヴォの銃声』とともに記憶すべき名編。


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