2021年10月22日金曜日

カティンの森

 劇場公開時以来、久々、3回目の鑑賞。
やはり家で見ても音響が微妙なので、オープニングの緊迫感なんかが公開時よりも印象としては薄れてしまったが、しかし全編見事な撮影、構成、ストーリーテリングだ。
アンジェイ・ワイダは、IMDBなんかを見てみると作品数がかなり膨大で、日本で見れる作品というのはDVDなどを合わせても一部に過ぎないのだが、年代ごとに作風がずいぶん異なる印象を受ける。
個人的にはやはり『灰とダイヤモンド』の陰影表現の徹底ぶり、ツィブルスキの情熱的な芝居に心を掴まれるのだが、60-70年代のいくつかの作品は、『灰とダイヤモンド』とはかなり作風が異なっている。『約束の大地』、『ダントン』、『戦いのあとの風景』などは、大胆なカメラ移動やズームを多用し、少々露骨なセリフに依存したそれで、良く言ってエネルギッシュ、しかしどこか粗雑な面も否めないと感じる。当時のポーランド情勢も影響しているのかもしれないが、A・ムンクやザヌーシ、ブガイスキらに比べると少々見劣りする。

だがこの『カティンの森』以降、遺作となった『残像』までのおよそ10年に及ぶ晩年の作品こそが、ワイダのワイダたる所以を一挙に示したと思う。これらの作品は、上記の荒々しいカメラワークに頼った演出ではなく、むしろ厳格なフィックス・ショットとS・ルメットばりのカッティング・イン・アクション、誇り高き女性像などが際立った傑作ばかりである。90年に撮られた『コルチャック先生』に、すでにその片鱗は見えていたものの、70-80年代からゼロ年代にかけてのワイダの遂げた飛躍にはすさまじいものがある。(90年代後半からパヴェウ・エデルマンが撮影を担っていることがほとんどなので、このあたりが転機なのかもしれない)

さて、『カティンの森』であるが、ここで21世紀の3大ジェノサイド映画を決めてしまおうと思う。先日見た『アイダよ、何処へ?』(スレブレニツァの虐殺)、アトム・エゴヤンの『アララトの聖母』(アルメニア人虐殺)、そしてこの『カティンの森』である。

『アイダよ、何処へ?』が、とにかくアイダという一人称の視点を忠実にフォローしながら、虐殺そのものについては直接的な描写を排することで、大文字の歴史と個人史の交錯をスリリングに描いたとすれば、『アララトの聖母』は歴史を語る行為を徹底して相対化してみせたポストモダン映画であった。
『カティンの森』はそのちょうど中間のような映画であると言える。
少佐の妻がナチスドイツの記録映像を見せられ、カティン事件を知る。
その映像では、ナチスとポーランドの調査委員会の調査の様子に、ソ連の極悪非道を暴露するナレーションがかぶさっている。彼女はこれによりソ連の犯行を確信する(作り手のスタンスももちろんこちらである)。
一方で中盤には、ソ連が作ったプロパガンダ映像において、先ほどの映像と瓜二つな、ソ連とポーランドの調査委員会による調査の様子が映される。ナレーションは、ナチスの仕業として糾弾している。
歴史は勝者によって創られるように、ナチスの犯行という主張が既成事実化していくのである。
その意味で、『アララト』ほど挑発的ではないが、ワイダがここで、映像がもつ邪悪な力を主題化していることは間違いないだろう。

その一方、虐殺後、あるいは終戦後の後味の悪さ、人生の苦みを描いた点では、『アイダよ、何処へ?』に先駆けるそれとなっている。
上記のように、勝者ソ連によってカティン事件が嘘で塗り固められていく様を、それに抵抗しようとして挫折する人々を描くことで表現しているにとどまらず、終戦後に再会する人達の微妙な感情のすれ違いを見事に描いているのが素晴らしい。
主人公のアンナは、終戦後も、夫の帰りを待ち続け、娘には呆れられてしまっている。先に夫の死を知ったアンナの義母とも、感情的に対立していく。(義母を演じたマヤ・コモロフスカの何とも苦々しい表情が素晴らしい。)
少佐の妻と、元家政婦で今や市長の妻となった女性との苦々しい再会の描写も、慎ましくも厳しい印象を残す。
カティンで死んだ兄の墓碑をつくる妹(マグダレーナ・チエレツカ)と美術大学総長として共産党に忠実な姉(アグニェスカ・グリンスカ)の対立。
そして、束の間の若い男女の出会いと永遠の別れ(これぞワイダ印!)。

終戦がダイレクトに喜びにつながらず、新たな対立を生むに過ぎないという陰鬱な現実こそは、まさしく『アイダよ、何処へ?』が描き出したものであるし、ワイダが(そのスタイルには様々な変化があれど)50年代から一貫して取り組んできた主題だと言える。
クラクフの静かな公園、霧、そして雪。これほど美しく、華麗で、しかし徹底的な厳しさに満ちた歴史映画はなかなか見れるものではない。やはり、ワイダの最高傑作だ。





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