監督:ペドロ・アルモドバル
ペネロペ・クルスとミレナ・スメットの二人のシングルマザーの、子供の取り違えをめぐる物語が主軸でありながら、アルモドバルらしく、いくつかの(あるいは無数の)サイド・エピソードによって多層化されている。今回はそこに、スペイン内戦の犠牲者の物語が絡む点が、過去作品とは一見異なる印象を与える(ボルベールでは夫の遺体を埋めたペネロペ・クルスが、家族を掘り起こそうとする物語だ)。実際、掘り起こされた人骨をカメラが捉えたのち、あっさりと暗転するエンディングには、例えばワイダの『カティンの森』のエンディングのような、「明かされた歴史の前では余計な言葉は一切いらない」とでも言うような潔ささえ感じられる。また、こうした題材ゆえの選択なのだろうか、アルモドバルの映画では見たことがないほどに深い被写界深度が設定されており、人物のクローズアップは後ろの背景がばっちりと映っていてかなり奇異な印象をもたらす。DNA検査の結果に動揺し、ベッドの上で電話をかけるペネロペ・クルスを画面奥に捉えたパンフォーカスでは、彼女の身体に夕日があたっているのだが、絞ったレンズでこのようなコントラストを出す技術には感銘を受けた。
一方で、物語の展開のさせ方は、アルモドバルの過去作品と似通っている。都市の自立した女性が、ついつい母性本能を刺激されて、気弱な若い女性の世話をする展開。あるいは、恋人が去ってしまった悲しみを抱えたまま田舎へ帰る展開。特に、真相を告げられたミレナ・スメットが、ほとんど躊躇なく子供を連れて行ってしまう場面の厳しい演出が素晴らしい。ミレナ・スメットはペネロペ・クルスのメイドとして働いているわけだが、この場面ではミレナ・スメットがベビー・キャリアをつけるのをペネロペ・クルスが手伝わされ、挙句、荷物も持ってエレベータのスイッチも押させられるという、一時的な主従関係の逆転が描かれているのも興味深い。いつもなら、去っていく人間の姿を捉えた視線ショットを挟むのがアルモドバル流のメロドラマだが、去っていくミレナ・スメットと我が子を見送ることしかできないペネロペ・クルスの姿を固定した視点からじっと凝視するように撮るのだ。
視覚的なモチーフにも事欠かない。例えば電話番号を紙にメモする所作の反復、綿棒で粘膜をこする動作の反復、ざるでジャガイモをゆすぐ動作と土砂をゆすって選り分ける作業の確信犯的シンクロ、あるいは頭蓋骨。
「PC内に偶然脚本を見つけた男が、それを舞台にしたところ、その舞台を目にした古い恋人が脚本を書いた男のもとを訪ねてくる」ような(ペイン・アンド・グローリー)、あるいは「夫に去られた女がカフェで流れる歌謡曲に耐えられず外に出ると、医学生のデモに巻き込まれて、そこに友人がかけつけて抱擁を交わし、空には紙吹雪が舞い、、、」(私の秘密の花)というようなヒトとモノの映画的連鎖反応が、本作ではあまり見られない。その意味では、アルモドバルの最良の映画ではないだろう。しかし、誰に見守られることもなく「突然死」してしまった子供の物語を通して、忘却に抗い、自国の歴史を語ろうとする意志の前では、そんな些細なことはどうでもよい。
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