監督:ラドゥ・ジューデ
セックスの映像に"censorship = money"と書かれたコミカルな検閲の表示が被さるので、てっきり反スペクタクル志向なのかと思ったが、ベルリンでは検閲なしのセックス映像が流れたらしい、と知ってちょっとガッカリ。というのも、冒頭のほぼ完全に検閲されたセックス映像のあと、ドキュメンタリー調の良くも悪くもダラダラとした映像が続くので、現代のスペクタクル批判として、なかなか巧妙な構成じゃないかと思ったのだ(もちろん、検閲がなくても、映像レベルでの対比の効果を狙ったものには違いない)。まぁとはいえ、作家の意図が何であれ、この「自己検閲版」がそのような映画として「作用」しているのは確かなので、それをそのまま評価したい。実際、第一部の「何も起こらない」映像の数々にはある種の清々しさがあり、同時にこの、あらゆる情報や出来事が、画面に現れては消えていくフラットな背景として社会を覆っている感覚には、現代的な虚無主義の匂いがあり、オストルンドの作品などとも通底するものがあると思う(制止する通行人を轢いてしまう車、舗道に車を止めている男、スーパーの着ぐるみ、家庭での介護、ゲームセンター、看板、カメラに向かって「アソコを舐めて」と言ってくる老婆、、、)。クスっとさせられるものの、それで終わり、という「意味の乏しい」断片性。
ということで、最初からバチバチの雰囲気を漂わせるクリスチャン・ムンジウなんかとはかなり違う作りではあるが、一方で、室内からバルコニーを捉えたショットなどには、ルーマニア・ニューウェーブ的な才気を感じもする。
どのパートも、それだけだったらつまらない、というのをうまいこと三部作としてまとめて、かなりの満足感を得られるつくりになっている。
第三部は純粋な会話劇なのだが、個々人のマスクとかがいちいち気になるなど、視覚的にも飽きないつくりになっている。あと校長が全然味方してくれない感じとか、イライラさせてくれる(笑)
それと、これも自己検閲版ならではだと思うのだが、タブレットの映像に見入るオヤジのショットがあって、タブレットの映像とオヤジの横顔が並列に映っていて、その中間に当の学校教師が苦々しい表情で座っているのだが、検閲版なのでタブレットの映像はでっかくマスキングされている(ちょうどスクリーンの右三分の一がマスキングされている)。
そうすると、当事者からの視線すら意に介さず、映像に見入っているオヤジの下品さが一層際立つというショットになっている。繰り返すが、ベルリンではこれはマスクされていないわけだが、おそらく監督もこの検閲版を作りながら、思わぬ効果を実感したのではないか。
ルーマニア映画を見るたびに、日本の社会状況にとっても似ているんじゃないかと思わずにはいられない。おそらくインフラや行政システムは(蓄積がある分)日本の方がマシなのだろうが、ルーマニア映画がもたらす閉塞感には、他人事とは思えない感覚がある。
(おそらくは加害と被害の多義的な歴史が、全き被害者意識と英雄言説で覆われてしまった言説空間があるのだろう)
0 件のコメント:
コメントを投稿