第三章は、「世俗主義」と銘打ってあり、フランスでは「ライシテ」と呼ばれている。
世俗主義の一般的な受け止められ方は「近代」と結びついている。すなわち、
世俗主義は近代―民主主義への扉であり、理性と科学による迷信、感情、絶対的な信念への勝利―のしるしとして受け取られている。この観点からすれば、国家の近代化とは宗教を抑制するか私的なものにすることである。(p.109)
さて、この章ではまず、「ライシテ」の歴史的起源とその変遷を追いかけつつ、アメリカの「世俗主義」との違いを明瞭に記述している。
要点をまとめれば、
フランスでは宗教と結びついた権力を打破した歴史を持つのに対し、アメリカはヨーロッパの支配者たちによる迫害から逃れた宗教的なマイノリティの場(p.105)であるため、
フランスでは宗教から個人を守るのだが、アメリカでは宗教は国家から守られ、国家は宗教から守られるのである。(p.106)
この本は一貫して、ヴェール禁止派の視野狭窄、態度の硬直化を批判しているので、「なるほど、アメリカのように宗教に寛容になるべきだなぁ(アホヅラ)」となってしまいそうになるのだが、そうではない。続けて著者は、アメリカでキリスト教原理主義が政治に介入している事例に言及している。
今や宗教集団のメンバーが、しばしば民主主義の名のもとに、固有の信念と利害を認めるように要求しはじめ、世俗主義を市民としての権利を十全に享受するための障害だと見なすようになった。(p.106)
フランスの側からすれば、合衆国でキリスト教福音派の政治勢力が増大していることは、強力な世俗国家が緊要であるという正反対の証になる。(p.107)
硬直化した世俗主義=ライシテの強要は、ともするとイスラーム圏の人々に対する差別やアイデンティティの剥奪(第4章で詳述されている)につながってしまう。しかしだからといって、世俗主義の完全な放棄は、宗教的圧政の原因にもなりかねない。そうしたジレンマを著者は語っている。
ではどう考えればいいか。まずは、近代↔伝統、世俗主義↔宗教、という二項対立を解体することから始める。というのも、宗教は決して絶対的で硬直化した非民主的で非近代的なものと言うべきではないからだ。
宗教はその宗教を特徴づけてきた「伝統」に反する独自の合理性や論理を持つだけでなく、時間をかけて発展も遂げてきた。神学者や宗教法学者は、社会、経済、政治状況との関連で、拠り所となるテクストを再解釈してきた。(p.110)
あるいは、世俗主義は宗教を抑制することではない。近代とは宗教をなくすことでも宗教と対立することでもないからだ。
多くの国家が国民の宗教的信念を承認し、折り合いをつける方法を見出すことで世俗化してきた。(中略)世俗国家によるこうした宗教の扱いは、(中略)世俗主義の原則を解釈したり、再解釈したりしてきたことの結果であったのである。(p.110)
著者が強調するのは、フランスの近代化とは(その他の多くの世俗国家と同様に)、宗教を締め出した歴史ではなく、宗教と折り合いをつけてきた歴史なのだということで、前者に固執することがスカーフ禁止法への執着につながっているし、イスラム差別の道具にもなっている、ということである。
その「折り合いの歴史」についてはぜひ本書を読んでほしい。
以上のことから、本章で著者は、
ある種のスカーフ禁止法の提案者たちが主張するように、彼女ら/彼らが承認する型の世俗主義のみが実現可能なものだと結論づけるのは誤りだろう。スカーフ禁止法の提案者たちは、格好の反証となる歴史があるにもかかわらず、1789年に遡り、国内の学校で主教を断固として拒否したことで共和国は統一されたと主張した。これはライシテの「共和国モデル」という異名を持つものだ。(p136)
と、画一的なライシテの解釈に疑問を呈し、かつて教育連盟(教育に関する有志連合)が提示したライシテの概念をそこに対置する。
教育連盟は、方針を記した起草文書の改定第一版で、ライシテとは「民主主義の良心」であり、「科学的思考が化石化して教条化するのを防ぎ」、「その計り知れない文化的重要性を否定することなく、宗教を適度に抑え込むため」の努力であると主張している。(p.137)
考えてみれば、宗教的アイデンティティを持つ子供を学校から追い出せば、その子供が別の考え、世俗的価値観に触れる機会も奪ってしまうことになる。
しかし、
学校とは実際に民主主義のゆりかごであり、その民主主義において差異は仲介され、調停され、慣行は批判的に再検討されて改定され、不朽の真実を教条的に主張することのんあい状況で、盛んな討論が可能となる。その意味では、学校は市民権のための、異種性から成る統一体として概念化された国民の仕事に参加するための準備を行う場所である。そうした国民においては、有権者の差異は資源として理解されるのであって、欠陥として理解されることはないのである。(p.138)
以上が第3章のおおざっぱな要約になる。
第4章の個人主義では、「その1」で触れたように、スカーフを着用する主体にとってのスカーフが持つ意味が、通時的にも共時的にも多様であり、その意味ではまさしく個人主義の観点から、(両親に反対されているにもかかわらず)ヴェールを着用する少女がいるということなどを指摘している。
第5章ではフェミニズムを扱っている。多くのフェミニストがイスラムのヴェールを女性の抑圧と考えている点、そしてこうした面でだけスカーフを考えることは、ある種のイスラームがそうであるように女性を客体化する家父長的帰結を生んでしまう、ということを指摘している。
というような感じであり、これはとっても面白い本なのでぜひ読んでください。
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