2015年5月4日月曜日

ある女の存在証明

監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

難解きわまりない。深遠であるとか、抽象的であるというのではなく、ただひたすら、混乱をきたしたフィルムだ。それが面白い。異様に惹きつけられる。
この映画を一回見ただけで筋が追えてしまう人は、よほどの情報処理能力か集中力を持ってるに違いない。僕は2回見て、ようやく時系列がなんとなくわかったが、しかしそれでも解せぬシーンはたくさんあった。しかしそんなことがどうでも良いと思えるほど、映像の説得力がある。
特に、あの窓を介した、見つめ合い、別れ。階段の造形。霧。ヴェネチア。
ひょっとするとアントニオーニで一番好きな映画かもしれない。

アントニオーニのインタビュー本で、この映画についても語られている。(その名も、『アントニオーニ 存在の証明』だ。(フィルムアート社))
そこで彼が言うには、この映画の人物たちは、これまでの作品の人物のように実存の危機には陥っていない。むしろ葛藤に苦しんでいる、と述べている。で、その証拠に(?)、今回は人物と背景の強い絆を弱くした、事実を捉え、人物の心理に重きを置いた、というようなことを言っている。
なるほど、60年代のアントニオーニにおいては、確かに人物は行動よりも背景との関係によって描かれていたと言っていいだろう。無機質で広大なコンクリートの、<過剰な稀薄さ>が、人物の存在的危機をまるごと表象していたのかもしれない。
そういった視点で見ると、確かにこの映画では、背景はあくまで人物の周囲で起きる出来事を捉えたものであり、その意味では物語に奉仕する画面である(しかしあまりの情報量と<不親切さ>ゆえに物語が錯綜しまくっている)。
また、女性たちは、モニカ・ヴィッティ的無表情さを持たず、確かに何かに苦しんでいるように見える。マーヴィであればそれは、上流階級という出自、あるいはその象徴である父の手から逃れることかもしれない。イーダの葛藤とは何なのか。あまりにも物事を受け入れすぎてしまう自分との格闘だろうか。なかなか難しい。
だがそれでも、名高い霧のシーンは、60~70年代のアントニオーニを彷彿とさせる。

「科学」というモチーフが多少関連しているように思える。
主人公のニッコロが、婦人科医である姉のオフィスでマーヴィと電話するとき、「映画監督は何でも視覚化したがる」と言う。そのときニッコロが見ているのは、骨盤部のX線写真である。
あるいはラストシーンでは、ニッコロのナレーションで、人間がいつか太陽の内部の組成を研究して云々、というセリフが出てくる。
対象の内部を探ろうとすることが、本作のテーマの一つになっている。それは心理を探ろうとすることかもしれないし、自分の中にあるインスピレーションを明確化しようとすることかもしれない(ニッコロは常に女性の顔を探している)。



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