2015年5月6日水曜日

ブギーナイツ

監督:ポール・トーマス・アンダーソン

いわゆるPTA作品というのを、今まで全く見たことがなかった。初PTA。
精神的父親、精神的母親、マッチョイズム、性と暴力、ドラッグといった、いかにもなテーマを2時間半に詰め込んだ映画で、正直消化不良な部分が散見される。

ジュリアン・ムーアの役柄は、『ラブ・ストリームス』のジーナ・ローランズを思い出す。だらしなく、愚かなゆえに、家庭を失い、自責の念に苦しむ。彼女の居場所はポルノ業界にしかない。
というより、ここで描かれるポルノ業界は、居場所を失った人々が集まってくる場所で、要するに疑似家族だ。

前半の70年代の場面は、マーク・ウォールバーグがスターダムにのし上がるまでを一気に描きながら、ラストにウィリアム・H・メイシーの発砲と自殺を持ってくることで、不吉な予兆、あるいはこの疑似家族が抱える闇を印象づける。

予想通り80年代にはファミリーが分裂し、分裂したそれぞれの人間は、それぞれの場所でパッとしないどころか、暴力的事件に巻き込まれ、やがて元に戻ってくる。
マーク・ウォールバーグはドラッグに溺れ、道端では若い不良に絡まれ、性的恥辱を受ける。あるいは仲間の暴走によって発生した銃撃戦を何とか逃げ出す。
ドン・チードルはポルノ俳優という出自により銀行からの資金を断られ、偶然遭遇した強盗事件で生き残り、金を奪う。
バート・レイノルズとヘザー・グラハムは、ビデオの普及とともに凋落するポルノ映画界で新しい作品をつくるべく、いわゆる”素人ナンパもの”を撮影するが、暴力沙汰になってお蔵入り。
ウィリアム・H・メイシーがまき散らした血しぶきのごとく、彼らが抱える問題が一気に噴き上げる。

これらの事件の描き方は、時に足早にすぎ、雑な印象も与える。あるいはマーク・ウォールバーグが巻き込まれる事件と、バート・レイノルズとヘザー・グラハムのパートを並行モンタージュで描くというやり方にも、疑問を持つ。確かにこの手のモンタージュによる盛り上げ方、行くとこまで行っちまった感を醸成するやり方は、アメリカ映画の常套手段ではある(具体的な歴史とかはよく知らんが、まぁよくあるよね)。しかし、それにしてもこの唐突なモンタージュは雑だ。おそらくそれは、双方の、つまりウォールバーグが抱える問題と、バート・レイノルズが抱える問題をあまり良く描けていないため、のっぴきならぬ感情の爆発としての暴力がここにはないからだ。

一方で、アルフレッド・モリーナの邸宅での銃撃シーンに至るまでの演出は非常に優れている。
同居する中国人が鳴らし続ける爆竹の音、用心棒の黒人が銃を持っていることを示すショット、そしてウォールバーグら3人の何を考えてるかわからぬ雰囲気が、暴力的帰結までの時間をじわじわと演出する。

ラストのシークエンスショットが素晴らしい。
バート・レイノルズが自分の邸宅を歩き回る。そこにはドン・チードルら、従来の仲間がいるものの、同じシークエンスショットで撮られた70年代のあの乱痴気騒ぎはもはや影を潜め、プールサイドの風景も、静かでもの悲しい。
レイノルズが最後に訪れる部屋では、ジュリアン・ムーアがメイクをしている。レイノルズは静かにジュリアン・ムーアの顔に手をやり、言葉をかける。喪失感を抱えたファミリー達の再スタートが、優しい筆致で描かれる。

ラストショットは鏡の前で再スタートを切るマーク・ウォールバーグだ。スコセッシ『アビエイター』のラストに似ている。





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