2015年7月4日土曜日

きみはいい子

監督:呉美保

尾野真千子が子供の手をとり、マンションの通路を歩いていく。画面の外からは池脇千鶴が子供をあやす楽しそうな声が重なり、子供はその声につられて羨ましそうに後ろを振り返る。きわめて象徴的なショットであり、事態のありようをまっすぐに伝える。
このショットによって、観客は尾野真千子の子供に同情するだろう。もちろんこのショットの前に、すでに尾野真千子に何度も叩かれるシーンが出てくるのですでに同情しているわけだが、このショットはそんな子供の境遇が、池脇千鶴の子供の境遇と残酷なまでに対比される瞬間をとらえており、「こんな暴力的な母親の元に生まれてしまったかわいそうな子」の不運さを、観客はこれでもかと見せつけられる。

にもかかわらず、喫茶店で池脇千鶴に冗談で「ウチの子になる?」と言われた少女は、真剣な顔で尾野真千子に抱き付く。尾野真千子はこの少女の気持ちを受け止めることができず、とっさにトイレに立ってしまう。少女は母親の後を追い、鍵のかかったトイレの前で泣きわめくしかない。
純粋な「母親への愛」だけなら、抱き付くだけでも良い。そうではなく、少女はトイレに立った尾野真千子を不安そうに追いかける。ここには母親の心理を繊細に汲み取りながら何とか良い関係性を維持したいと願う少女の思いがこめられてはいないか。
また、この池脇千鶴の「ウチの子になる?」というセリフは、終盤でも反復されるのだが、どうもこれはわざと言っているわけで、決して軽はずみな気持ち(だけ)で言ったわけでもなさそうである。

つまり、そうした人物達のさまざまな思いや配慮、意図を的確に示唆すること。そのことにこの映画は成功している。

あるいは誰かが誰かを見守っている、気を配っているということ。

無邪気に遊ぶ自分の娘に、尾野真千子が何度も神経質そうに視線を送るその最中に、まさに池脇千鶴が尾野真千子のことに気を配り、何とか彼女を救おうとしていたということ。それが美しい抱擁として結実すること。

あるいは、障害のある息子のことを、老婆が透明なまなざしで見守ってくれていたということ。そのことにハッと気づかされて涙が止まらなくなること。

マンションの通路も印象的だが、学校の廊下も印象的だ。長回しによって出来事が多重的に描かれるシーンがいくつかあり、なかなか優れた効果を発揮している。(教室の外に静かに横移動するカメラ!)

多くのエピソードが消化不良である。たとえばクレームをつける母親達の存在は、決して物語を押し進める存在ではなく、ひたすら社会的な諸条件として提示されるにとどまる。
あるいは高良健吾が生徒たちに出す「宿題」も、妙に偽善臭い。
しかしそれらの消化不良ぶりは同時に、高良健吾という新米教師の無力さとともにある。消化不良な形で過ぎ去ってしまうことが、その都度現実のどこにも進んでいかない諸状況として立ちはだかる。たとえば児童虐待の疑いは、証拠不十分として曖昧にされる。
そうした「物語にすらならぬ絶望的諸条件」を提示しながら、ラストシーンではそれを何とか未消化なまま終わらせずに、物語にしようとする決意が描かれている。
物語にすらならぬ閉塞状況から一歩抜け出して、物語をつくっていこうとすることそれ自体が、物語となっている。
しかしだとすればやっぱり映画は、というかフィクション映画は、その先の、つまり本来の物語を積極的に構築していくべきなのではないかとも思ってしまう。

あと、場面が転換する際の編集。叫び声→叫び声、みたいな音の重ね方を多用していて、良いんだけど、そんなに多用するもんでもないんじゃないか、と思った。ああいうのは一つぐらい、おっ、と思わせる程度に使えば良いのではないか。

しかし、全体としては、ちょっと良すぎなくらいの傑作だと思うがどうか。後から振り返ると、印象的なシーンばかりだ。







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