2023年12月30日土曜日

フェラーリ

 監督:マイケル・マン


アヴァンタイトルで、アダム・ドライバーがレースで快走する合成映像が白黒で提示され、バックには非常に牧歌的な雰囲気の歌が流れる。ここで暗転してFERRARIのタイトルが出ると、審美的な夜明けのショットを挟んで、老けメイクを施したアダム・ドライバーが、寝室から誰も起こさないように出ていき、玄関先の坂道を途中までエンジンをかけずに降りていき、しばらくしてエンジンをかけて車を走らせていく。このオープニングが本当に素晴らしい。

車も乗らず、F-1なんてほとんど見たことがない人間なので、映画が舞台とする1957年のフェラーリの状況などまるで知らずに見たのだが、てっきり『ラッシュ』とか『フォード vs フェラーリ』のようなスペクタキュラーなレース映画なのかと思いきや、ほとんどのシーンが雲行きの怪しい経営の話、ペネロペ・クルス演じる妻との尋常ではない殺伐とした関係性に重点が置かれ、レースの場面でも、抜くか抜かれるかのような醍醐味はほとんどなく、むしろ不慮の事故でバタバタと人が死んでいく、その不条理とやりきれなさが強烈に印象付けられる。終盤の恐ろしいシーンでは、もうレースなど見たくないという気分にさせられる。最初に述べたような若き日のようなレースは、すでに無いのだ(だからわざわざモノクロの映像を最初に据えたのだろう)。

思い出されるのが、あまり良い出来とは言えなかったものの嫌いになれぬデミアン・チャゼルの『ファースト・マン』である。月旅行という一見ロマンたっぷりのミッションが、実際には冷戦という政治と組織の論理に支配され、乗組員はその駒に過ぎないという諦念とともに描かれたのと同様に、派手なカーレースを、まるで「神のごとく」(教会のシーンが強烈だ)更なるスピードを求める人類史の悲惨として描いているように思われる。

比較的被写界深度の浅いショットで、ピント送りを多用するスタイルははっきりと好みではない。特に室内劇において、手前と奥でわざわざピントを交互に合わせる意味がわからない。しかし、ここぞというときのフルショットの格好良さ(トライアルサーキットで仁王立ちするアダム・ドライバーの後ろ姿!)、花束をめぐる遊び心満点の演出、冒頭の家の描写など大事なところで決して外さないからこそ、多少せわしないシーンがあっても視覚的な充実度が非常に高いのだ。ペネロペ・クルスの迫真の大芝居(彼女が息子の遺影の前で微笑むシーンの静かな感動)も感嘆したし、ラストも、あぁこうやって終わるのか、と思わせてそのまま終わる。映画とはこれだ。



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