2023年8月11日金曜日

サントメール ある被告

 監督:アリス・ディオップ


カミュの異邦人を思わせる「身勝手な殺人」をめぐる法廷劇だが、その前段階として主役のラマ(カイジ・カガメ)のパートがある。そこでは、まず彼女はマルグリット・デュラスについて大学で講義し(女性への暴力を題材とする)、その後夫とともに実家へ赴く。実家では、まさに異邦人のごとく視線を泳がせ、座るべき場所を見つけられないでいる。特に、居間に入った彼女を、カメラが真正面のバストショットで撮るが、まるでその「視線」を避けるように、彼女はどことも言えぬ空間に自分の視線を彷徨わせる。この実家のパートは何か決定的な出来事が起こるわけではないのだが、会話は歯切れが悪く、正面で対峙した者同士の会話はなく、常に斜めでのやり取りに終始しており、これが法廷劇の構造的伏線となっているのは明らかだろう。被写体とオフ空間の関係、視線の演出が非常に繊細で、ヒリヒリとした感触が画面に横溢している。

実家を出ると、彼女はサントメールに一人で赴き、そこで行われる、自身の15ヶ月の娘を海に捨てて殺害した罪で起訴されたアフリカ生まれの女性ロランス(ガスラジー・マランダ)の裁判を傍聴する。陪審員をクジで決める場面を延々と見せるあたりから、”スローシネマ”的な志向性が前面に出てくる。初日の裁判の様子もかなりの尺をつかって、裁判長(ヴァレリー・ドレヴィル。大変充実したパフォーマンス。)とロランスのやり取りをメインに描いていく。途中、ラマを含む傍聴人のリアクション・ショットが映るが、誰がどんな人物なのかを映画は説明しない。たとえば手前に映っていた初老の男性が、その後証人として立つことで、それが誰なのかがわかる。この初老男性はロランスと同居していた人物なのだが、証言する彼を真正面から捉えたバストショットは、非常に繊細なライティングと衣装との関係が成立していて、力のあるショットだ。

さて、法廷劇のパートでは、主にフィックスショットにより、発話する主体や、その証言を聞く人々にカメラが向けられている。裁判長や証言者はほぼ真正面のショットで捉えられる。弁護士の最終弁論は完全にカメラ目線となっているが、裁判長と証人は微妙にズレた位置から捉えられている。このあたりは一貫しているが、ロランスについては、かなりさまざまな角度から捉えられており、それも初日、二日目、三日目と裁判が進展するにつれ、カメラの位置も微妙に変化する。これはやや抽象的に言えば、複数のパースペクティヴによって被告人が分析されていく流れに沿った演出上の意図とも解釈できるが、それにしても演じるガスラジー・マランダの強烈な視線が、(色調的にも)モノトーンなショットのテンションを持続させている。彼女は常に、話す相手(裁判長、検事)をじっと見据えて喋っているが、実際に犯行に及んだ日の出来事を物語るときは、裁判長の方ではなく、(その日の光景をありありと思い出すように)斜め上の宙を見つめながら話している。それに聞き入る裁判長の瞳がわずかに潤んでいる、というような視覚的なドラマが同居している点にも言及しておきたい。

さて、冒頭述べたように、ラマは「人見知り」で、他人の視線を恐れているように見える。それはひょっとすると、最初の講義のシーンでデュラスのモノローグを読み聞かせるとき、スクリーンが壇上にいる彼女を隠す機能を持っている(彼女は生徒たちの視線を避けながら朗読している)という点にも表れているのかもしれないが、裁判の後半になって、ラマとロランスの視線が交錯する、思わず息を呑むような瞬間がある。これは、観客にとってもロランスの視線を初めて(そして唯一)受け止めるショットになっていて、ともすれば全体のトーンを壊しかねない賭けのようなショットだが、結局このショットがあるからこそ、本作はヴェネチアを席巻したのだろう。まったく見事なシーンだ。ラマはロランスの視線に「曝され」、精神の均衡を揺さぶられることになる。しかし最後の最後に、傍聴席のラマを真正面から捉えるショットが挿入される。このような構造的な巧さが、映画の緊張感を最後まで持続させていると言って良いだろう。

裁判と裁判の合間に、サイドエピソードが挿入されるのだが、こちらも実に的確なカメラワークとフィックスショットの使い方をしていて、たとえば初日の裁判のあとに、ラマが被告人の母親の元へ歩み寄っていくショットが見事だ。この被告人の母親も大変なくせ者で、ショットのたびに印象が変わるように構成されている。レストランで、ラマがハラミを頼んだ途端、「そんなに食べるの!?」と驚く場面は笑ってしまった。だが、彼女が証人として立つ場面は実に厳しいシーンとなっている。

実際の法廷での証言記録をそのままセリフとして採用しているという触れ込みだが、パリ大学の教授の、「アフリカ生まれの大学生が、20世紀初頭のヨーロッパ哲学をやるなんておかしいですよ」という差別的な発言も実際のものなのだろうか。

さまざまな映像素材の活用も特徴的。戦時中のナチスに占領されたフランスで髪を剃られる女性たちの映像、テレビの映像、パゾリーニの『王女メディア』のフッテージ、子供時代のホームビデオの映像、1分程度の回想シーンなど。これらのイメージが映画に厚みを与えているかというとやや疑問が残り、個人的には力強い法廷劇と合間のサイドエピソードだけでもよかったのではないかと思った。


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