完全な感想文となってしまうのだが、この映画にあっては、人物や車の動き、人が部屋を出たり入ったり、横切ったり、カーテンを開けたり、それをカメラがパンでフォローしたり、ドリーで追ったり、といった断片的な運動の集積を、観客としてただ見ているということに理由もなく喜びを感じ、別にそれ以上を望まずとも、160分の長丁場を楽々と過ごしてしまえた、ということにつきる。
●学校に来たブランシェットが、ペトラを送り出してから、反対方向にいるいじめっ子ヨハンナの元へと歩いていく。画面奥には、反対方向に歩きつつも、ブランシェットの動線を見守るペトラが映っている。
●トイレにやってきた人物がそのままトイレの個室に入ると、画面奥の洗面台の前にいたブランシェットが、手前に移動したあとに、下から個室を覗こうとする。これが直後のオーディション場面の伏線となり、足音で直感したブランシェットが、いったんつけた評価を消しゴムで消す。消しゴムで消す音もしっかり録音されている。
●家に帰ったブランシェットがニーナ・ホスと対面する。薬をとりにいったフリをして画面奥左から、画面手前に来て、右側の洗面台へ。それから薬をとってきた素振りで再び画面奥左へ進み、ここでカットして、反対側からのポジションからのショットになり、いったんブランシェットが画面手前側の部屋に消えて、音楽を再生し、二人で抱き合って、キス。奥には赤い照明。
●最も込み入っているシーンでは、玄関のドアをどんどん叩く音がして、ドアを開けると隣人が憔悴した様子でブランシェットに来るように要求する。部屋に入って左側へ進むと、便失禁をした老婆が倒れている。ブランシェットが隣人と一緒に老婆を持ち上げてポータブルトイレに乗せる。カットが割られると、ブランシェットが服を脱いでゴミ箱に捨て、一生懸命体を洗っている。するとベルが鳴り、急いで服を着て開けると、髪の濡れたソフィー・カウアーがいる。その後車でいささか冗談を言い合ったあと、別れ際にくまのぬいぐるみを忘れたことに気づき、ブランシェットが彼女の消えた廃墟のようなアパートへ進むと、暗い通路に迷い込み、後ろから獣がこちらをうかがっている。恐れ慄いたブランシェットが走って外に出ようとして、右に曲がって階段を登るが、登り切る直前に足を引っ掛けて、顔面を地面に打ち付ける(顔面自体は画面手前に映る壁によって見えなくなっている)。すぐにカットが割られると、キッチンで氷を叩き割るブランシェットのショットに切り替わり、手前からニーナ・ホスがやってくると、怪我をした顔をこちらに見せる。ニーナ・ホスがそれを見てギャッ!と驚く。その後、窓辺で休んでいると、ペトラが「四つ足歩行」で彼女の元に歩み寄ってくる。
●このシーンとは反対に、ブランシェットがニーナ・ホスに驚かされるシーンもある。ブランシェットがニューヨークから帰ってきたあと、手前からニーナ・ホスが現れると、ブランシェットがギャッ!と驚く。
●また、ニューヨークにおいて、ホテルに帰ってきたブランシェットとカウアーが、エレベーターを降りて反対側に進む。ブランシェットが夕食に誘うが、カウアーはそっけなく断る。その後、ブランシェットがTwitterを見てると、若干スキャンダラスな動画が流れ、動揺して薬を飲もうとするが水がないため、水を取りに部屋を出る。カメラが滑らかに右側にパンすると、ちょうどエレベータに乗り込むカウアーの姿が映る。
●学校の前でブランシェットがペトラを迎える。後から赤いコートのヨハンナが親と一緒に画面左へと歩いていく。そのあとニーナ・ホスがやってきて、ペトラを彼女から引き離して、画面右側に立ち去っていく。これを車の窓越しのフィックスで撮る(ここは凄くミヒャエル・ハネケっぽい)
●ブランシェットが外出しようと階段を降りている間に、隣の家の老婆と思われる遺体が運ばれてきたため、踊り場でブランシェットがそれを避ける。カメラがパンして階段上を映すと、隣人がそこにいる。
●隣人の家族が騒音のクレームを言いにきたシーンで、ブランシェットが最後に扉を閉めてしまうのだが、家族(妹?)の左手がそこに映り込んでいる。
などなど、挙げたらキリがないのでこのへんで。
ちなみに物語との関係で言うと、
ブランシェットは赤毛に弱い。悪夢の中でブランシェットの顔に手をかける(ベルイマンの『ペルソナ』を思わせる)赤毛の女性は、クリスタ?それともオルガ?
ペトラに書斎に一人で入らないように注意するシーンがあり、ペトラは入ってないと言うが、義母が家を訪れているシーンでは、ペトラが書斎でカーテンの影に隠れている。一人で入っているではないか!
ちなみにこの映画の物語を、キャンセルカルチャーについての映画と理解することは私には難しい。確かにキリトリ動画によって窮地に立たされる映画ではあるものの、映画はその「起承転結」をかなりズタズタに断片化して提示しており、その明らかに断片化されたものについて、各々が想像力を働かせてピースをつないでいくことは重要だが、結局リディア・ターなる人物が過去に何をして、果たして本当にキャンセルカルチャーなるものの犠牲になったのかどうかという点は、不問のままである。
そして、私には、とっかかりの主題として確かにそうした現代の趨勢をテーマとしつつも、トッド・フィールド自身は、それらをめぐって人物が右往左往する、その運動にのみ興味があったのではないかと思いたくなる。それほどまでに透明な運動と発話の連続で成立している映画であるし、是非一度、この映画の字幕をまったく読まずに、画面で展開される線と面の運動を注意深くみることを推奨したい。それはカンディンスキーの美しい抽象画を見るような体験になるだろう。
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