2023年1月19日木曜日

女ともだち

 監督:ミケランジェロ・アントニオーニ

(全部ネタバレ)

アントニオーニはこの映画のあとに『さすらい』を挟んで、60年に『情事』を撮り、以後モニカ・ヴィッティを主役にした作品を連続して撮ることになる。それらの映画群は、不安になるほどだだっ広い空間と無機質な建築、俗世にまみれた人々の狂乱を背景に、女性(が代表する人間?)の実存的不安がきわめてユニークなリズムとコードによって綴られていき、そのインパクトたるや凄まじく、アントニオーニの代名詞というべき作品群だ。ゆえに、そうしたモチーフがそれほど際立っていないこの『女ともだち』は、ともすると『情事』の習作のような立ち位置で語られるかもしれない。実際、男女数人で訪れる海辺のシーンの不埒なやり取り、その後の列車でのシーンなどはたしかに『情事』を思わせるそれだ。あるいは『情事』において「女ともだち」が失踪する理由が明かされぬ一方で、本作ではある程度はっきりと動機が示唆されている点などに、「アントニオーニらしさ」の欠如を見ることもできるかもしれない(原作はチェーザレ・パヴェーゼの短編小説で、こちらではむしろ自殺の原因はかなり曖昧な描写にとどまっているらしく、動機をはっきりさせたのはアントニオーニによる脚色であるとのこと。)。『情事』以降の作品では通俗的世界と精神的世界の対比がかなりはっきりとしていて、その狭間で揺れるモニカ・ヴィッティの予想できない感情の起伏に魅力があったといえるが、本作の場合は、基本的には通俗的世界の枠内で心理的物語が語られていると言えるだろう。見る者を当惑させるような空ショットや、何を考えてるのかわからないモニカ・ヴィッティのような人物はここには出てこず、男女、あるいは女同士の卑俗で不愉快な人間関係が語られる。それでも、表面的な人間関係がやがて破局を迎えるときに、かつてあったはずの人間性(それはローマとトリノの対比でもあり、復興前後のトリノの対比でもある)が失われつつあることへの危機感は共通しており、しかもそれを表現する手つきは全く凄いとしか言いようがない。ピカソのキュビズム以前の絵画が普通に凄いのと同じように、アントニオーニによる全くもって見事な不倫ドラマ、階級ドラマであると言ってよい。

敗戦後、少しずつ復興を遂げつつあるトリノを舞台にした物語である。主人公のクリエラはトリノで生まれ、ローマで服飾業を営んできた女性であり、トリノに支店をオープンさせる大役を任されている。ホテルの隣室の女性(ロゼッタ)が自殺未遂を図ったことから、ロゼッタの周囲の友人たちとかかわるようになる。それと並行して、開業する支店の工事を行う建築技師(カルロ)との恋愛も描かれる。クリエラの周囲において、複数の世界が交錯する様を、アントニオーニは一貫してカメラの持続と移動、人物の配置によって滑らかに描いてみせる。冒頭では、ホテルの使用人が隣室で昏睡状態のロゼッタを発見するのだが、そんなことを露も知らぬクリエラは自室で優雅に風呂を沸かしているのだ(「湯気」のショットで始まるのがアントニオーニらしい)。この最初のエピソードで、「異なる世界の併存」が強烈に印象付けられるのだ。それ以降も、クリエラとカルロが絡む場面は、必ずと言っていいほど、画面上での人物の往来が描かれ、単線的な関係の構築はなされない。
特に終盤の場面を見てみよう。カルロと会う約束だったクリエラが、ロビーで上司と出会い、ローマで働かないかと打診される。それを快諾したところにカルロがやってくる。クリエラは上司を見送ったあと、カルロとともに、奥のバーへと入っていき、別れ話をすることになる。このように、クリエラの(華やかな)社交や仕事の世界と、(労働者階級である)技師との恋愛が、シームレスな人物の移動によって橋渡されていく。
以上のように、画面上での人物の往来は、本作にあっては主題との連関を強く感じさせる演出手法ではあるが、一方でアントニオーニ自身がこの演出をかなり好んで多用しているようでもあり、例えばレストランの場面では「これは本当に食べられるのか?」とシェフに尋ねる客が最初に出てくるし、ロレンツォとロゼッタの屋外での抱擁の場面では、最初に画面手前を通過した馬の隊列が、画面奥を通っていくという凝った演出がなされている。
もっとも成熟した演出が見られるのは、ロゼッタの友人であるモミナが恋人と部屋で愛し合う場面だろう。二人が窓際で口づけを交わすとき、窓の外に男性が見える。するとカメラは屋外から部屋を捉え、男性に気づいた二人がブラインドを降ろす様子を捉える。そして逆光のシルエットで抱擁する二人がばっちり見えるのだ。そしてこの外にいた男性が実はロレンツォであり、彼は彼で、ロゼッタと待ち合わせをしているのだった・・・。というこの一連の流れはアントニオーニの全作品のなかでも最も秀でた演出の一つではなかろうか。

被写界深度を深く設定し、人物の往来によって著しく活性化したショット群は、公共世界を多層的に捉える一方で、画面内の人物達はいつもそうした公共を逃れ、プライベートな空間を探しているようである。ロレンツォとネネの夫婦が住む家には敷居がほとんどなく、玄関と寝室がつながっている。そのためか、内緒話をしようとしてカーテンを閉めたり、ドアを占めたり、場所を移動したりといった動作が反復される点も興味深く、アスガー・ファルハディの映画を想起した。

最後に一点。ロゼッタが自殺したことは、群衆のなか、救急隊が水死体を担架に乗せて運び、落ちていたコートを拾う、という出来事をたった2ショット(俯瞰ショットとフルショット)で示される。この簡潔な提示は、現代ではなかなかお目にかかれなくなってしまったものだ。


以下のサイトを参考にしました。
https://www.criterion.com/current/posts/4095-le-amiche-friendsitalian-style?fbclid=IwAR1T0YAJ1qSclRva7M33JknhJnJek8ilQKqiwuYcTPHJXvmEv4OVx2-xyZc





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