2013年3月29日金曜日

トゥモローワールド

監督:アルフォンソ・キュアロン

 劇場公開以来、何度か見直しているが、やっぱり素晴らしい映画だ。

 見事なアクション映画であって、切迫した状況における誰かしらのとっさの運動が映画をどんどんと突き進めており、それは時に衝動的な発砲でもあり、しかしまたある時には反射的に人を「守る」という行為としても現れ、またとっさに機転を利かせることで言語の壁を越えていく。
 
 テロリスト組織の会議で、クライヴ・オーウェンが「公表しろ」と正論をまっすぐぶつけるあのシーンの素晴らしさ。
 Ruby Tuesdayのかかる中、マイケル・ケインが妻を逝かせてやるというのも、どうしようもなく泣ける。

 血しぶきの付着した画面、どこまでも視点に忠実なカメラの扱い。
 
 「車を押しながら走る」という運動のエモーション。

 数ある長回しで一番良いのはどれか。やはりクライヴ・オーウェンが泣き崩れるところだ。

 シドという警察と対面するときのカッティング・イン・アクションが凄い。

 構図、が全然決まっていない、というか、すごく大雑把なレイアウトだけ決めて、手持ちでフワ~っとした感じで撮っている感じがする。でもなぜかこの決まってない画面にとても惹きつけられる。その一要因として、間違いなく繊細な光の扱いが挙げられるだろう。とても素晴らしい。
 また、構図がピシっといっていない、何か『ロング・グッドバイ』のような浮遊感のある画面に加え、画面に現れる牛やネコといった動物や、彫像、そして認知症の老婆、あるいは奥から車がやってきたりといった人物やモノの出入りが、画面の均衡を大きく乱してもいるだろう。とにかく全体的に不穏な画面なのだ。そしてそれがどうにも魅力的というか、ついつい見入ってしまう。

 

2013年3月28日木曜日

断崖

監督:アルフレッド・ヒッチコック

 作品の完成度としてはそれほど高いとは思えないが、しかしここにはファスビンダーの『マルタ』やシャブロルの傑作群に見られるような、「疑惑」だけでストーリーが進んでいく映画の原型がある。(これ以前に同じような作品があれば誰か教えてください)
 『マルタ』は、「変態束縛男?」という疑惑が、「次に殺されるのは私では?」という不安へと変化していき、妻のストレスがピークに達する構造をしていて、これは『断崖』における「金の亡者?」→「殺人者?」という構造と相似をなしているだろう。
 ただこの「金の亡者?」という疑惑そのものが映画として弱く、それが中盤の停滞になっている。『マルタ』の「束縛男」という疑惑も、面白いが、しかしやはり中盤の停滞の一因になっていたと思うがどうか。
 シャブロルの作品においては、怪しいのは「女」である。たとえば『沈黙の女』や『石の微笑』が典型的だろうが、彼女たちにまとわりつくのは、「疑惑」にも満たない、「なんだか様子がおかしい」というレベルのものであって、しかし映画としてはこちらの方が面白いのだ。それはおそらく、運動の方向性が定まらないという面白さだと思う。
 
 さて、この映画では、ジョアン・フォンテーンの描写にややばらつきがある。中盤に関しては、マジで何言ってんのかわからない。お前の方がおかしいんじゃないか、ぐらいの感じであって、しかしこれはどう見てもミスディレクションに思えてしまう弱さがある。「不可解な夫に疑問を覚えつつも、それでも惹かれてしまう」という感じがイマイチ出ていない。
 
 この映画は前半はすごい。メガネ、写真の切り抜きといった小道具の扱い、あるいはフォンテーンが両親の会話を聞いてとっさにグラントにキスする場面の荒唐無稽さ。また、ダンスしたままドアを開けて外に逃げていくなんていうのも楽しい描写だ。何よりこれをワンショットで描いてしまうのがすごい。

2013年3月21日木曜日

シャンヌのパリ、そしてアメリカ

監督:ジェームズ・アイヴォリー

素晴らしい傑作。アイヴォリーの最高作だろう。
冒頭の2階から見下ろすシャンヌと地上のビリーの視線が見事に交わらない。
あるいはその後、シャンヌがビリーへの贈り物としてあげた電車のおもちゃの面白さ。
何て完璧な掴みだろうか!

あるいは様々な学校で行われる授業のなんと魅力的なこと。
最初にビリーをクローゼットに押し込める女教師(その教師に母親が砂をかけるシーンの痛快なこと!)、フランシスの独唱、そしてLet it be!ちょっと反則なぐらいだけど、いやこれだけ見せてくれるんだから文句のつけようがない。

あるいはちょっとした細部の豊かさ。
フランシスがバスの中でシャンヌに声をかけるときのマフラーだったり、あるいはビリーが転校先で牛乳をうまくあけられなかったりという演出のつけかた、あるいは子供時代にシャンヌが出会う謎の少年のディレクションなんかも最高だ。

そしてラストショット。
日記の件でちょっとだけ揉めた家族三人を、そのままフォローして、三人が椅子に座るまで追うとこ。普通、途中でカット割るでしょう(笑)
でも割らずに、まったくもって最適な距離で、滑らかな横移動で、三人を追うこのカメラ。
そして突然三人が踊り始めて、それから日記の件などまるで無かったかのように仲良く池の方へと歩いていくのを、これまたワンショットで、徐々に俯瞰のロングになって、それで、終わってしまう。
このショットで終われる監督がどれほどいるか、とか偉そうな事は言いたくないのだが、しかしこの呼吸こそが映画だ。
そう、アイヴォリーは『最終目的地』のアイヴォリーなのだ。オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールが雨の中家に入っていくのを、たった2ショットのロングショットで処理してみせたアイヴォリーなのだ。まったくもって同じような感動が、このショットに凝集されている。それは感傷とは程遠い、もっと透明な愛だ。ちょっとクサいか。

2013年3月18日月曜日

甘い罠

監督:クロード・シャブロル

 主観ショットの使い方。例えば回想シーンと現在のシーンで繰り返される窓から車を捉えたショット。あるいはイザベル・ユペールの写真展の様子を窓からアナ・ムグラリスが覗くシーン、ここでは建物の中で歩き回るイザベル・ユペールを捉えるショット群に、ワンショットだけ窓の外から彼女を捉えたショットが出てくる。そしてそれがややあってから、アナ・ムグラリスの視線を模したものであることがわかる。このように、見る者→見られる者→見る者のリアクション、という典型的な図式を微妙にズラしてサスペンスを醸成するのがシャブロル、特に晩年の傑作群には見られるように思う。

 主観ショット、あるいは視線の問題でいえば、イザベル・ユペールが家に帰宅するとムグラリスとジャック・デュトロンがピアノのレッスンをしているというのを、これは極めてオーソドックスにユペールの横顔のクローズアップ→ふたりがピアノを弾いているショット→ユペールのフルショット(同じショットのまま家に入っていく)という順番で撮っているのだが、この直後、家の中に入ったユペールがふたりがピアノを弾いている部屋を通過していくのを、ピアノの側からカメラがパンで捉えるショットが続く。ここでユペールが歩きながら、こちら側、つまりピアノを弾いている二人を横目でチラッ、チラッと、ほとんど睨むように見ている。ここで重要なのは、カメラが決してユペールの視線の先を描かないという点だ。カメラはユペールが「見る」という情報だけをひたすら提示しているのである。
 つまり、ユペールの「見る」という行為そのものが、この一連のシーンにおける主題となっているのである。
 さらにそのあとのシーンで、買い物から戻ったユペールが、レッスン中の二人の元へ歩いていくなり、アナ・ムグラリスの方をじっと見つめて、それに気づいたムグラリスが思わず演奏を中断してしまうという場面がある。この突然出現した緊張は、しかしユペールが「サーモンを買ってきたわ」と言って会話を切り出すことで中断される。つまりこのシーンは、ただひたすら、「ユペールがムグラリスの方を見た」という物語が語られているわけである。
 いや、もちろんいくつかのサスペンスやスリラー映画において、何者かがこちらを見ている、というスリリングなシーンはいくらでもあるだろう。しかしそれは大抵、見ている者が謎の人物であるか、いるはずのない人間がいる場合だ。
 しかし『甘い罠』のこのシーンにおいては、既に知り合って親しくなった、しかもそこに居て当たり前の女性が見ているのである。そしてそれがサスペンスになっているのである。

 
 ベルタの美しい撮影、特にアヴァンタイトルからのレマン湖、ユペールとブリジッド・カティヨンの面会のシーンの見事な色彩の配置(黒の書棚、ユペールの黒いコート、黒いバッグ、対するカティヨンの着ている白衣、白いティーカップ)。
 あるいは編集のリズム、じっとカメラを持続させるシーンもあれば、(ムラグリスが出かけるシーンのように)軽快な音楽と編集で飛ばすシーンもある。
 アナ・ムグラリスが素晴らしい。髪を束ねている彼女は、どちらかというと神経質でミステリアスな雰囲気だが、髪を降ろした途端最高に美しくなる。ぶっちゃけ前人未到の美しさである。知らんけど
 ムグラリスの、ちょっとバレエのような、かかとをひょこっと上げるような歩き方がとても面白い。

 僕にはこの映画がひとつの完成形、まさに20世紀に終わりに到達してしまった完成形のように思えて仕方がない。とか言ったらいろいろ怒られそうであるが、少なくともこの20年ぐらいの中でも最高の映画のひとつだろう。

2013年3月16日土曜日

シャドーダンサー

監督:ジェームズ・マーシュ


 73年のパート、赤い服を着た少女コレットの弟が、何者かに殺されるまでの数分を、視点に対する忠実性を誇示しながら、あるいは頑なに大人の顔を露光オーバーによって隠しながら子供の顔との対比を際立たせてそれなりの緊張感で描かれ、コレットの視線から閉じられる扉を捉えたショットで閉めくくられると、映画は20年後のロンドンに移る。
 極めて被写界深度の浅い状態で、鮮烈なまでに青い上着を着たコレットの背後を追ったカメラは、そのまま電車に乗る彼女をフォローし、彼女の顔をクローズアップで捉える。
 電車に乗ったのは屋外であったから、窓際に立った彼女の顔は日光によって照らされているが、しばらくして電車がトンネルに入ると、カメラによって持続的に捉えられていた彼女の顔が光と影の完璧なバランスでもって輪郭づけられ、瞬く間にサスペンスが生成するだろう。そのサスペンスの突然の出現に驚く観客に呼応するかのように、危険を察知した彼女はそのまま座席に座り、カメラは彼女の視線ショットでもってそれとなく周囲の様子を捉えて見せる。このシーンの開始では、その浅い被写界深度のせいで、彼女の後頭部以外ほとんど見られなかった視界が徐々に開けていき、あるいはそれほどフォーカスの深度に変わりはないにもかかわらず、前述の瞬く間に出現したサスペンスによって、カメラに映る人物や新聞を持つ手が、途端に存在感を増していく過程は見事である。
 そして危険を察知して彼女が電車を降りると、電車がホームを出発し、向こう側のホームに仁王立ちする男が画面内に入ってくる。この人物は結局このシーンには全く関係がないのだが、しかしその存在がこの地下鉄のホーム全体がすでにサスペンスで満たされていることを告げている。
 やがて彼女が置いたバッグ、そして彼女がホームのドアから脱走した際に、通過電車の風によって倒れた空き缶が首尾よくそのサスペンス性をさらに加速させると、屋外に出た彼女は、持続したワンショットにおいて画面の奥から徐々に近づいてくる二人組の男達によって瞬く間に車に押し込まれてしまう。
 コレットが連れて行かれたホテルには、クライヴ・オーウェンが待っている。彼が待つ部屋はそのカーテンによってドギツい赤色に包まれており、その部屋の扉を挟んで隣に位置した部屋は冷たいブルーを呈している。
 前述の電車のシーンにしても、このホテルのシーンにしても、その「ドキュメンタリータッチ」の撮影スタイルに真っ向から対立するように、その大胆な照明設計がフィクション性を誇示している。

 と、ここまでで大体15分ぐらいだろうか。この15分間に限って言えば、あの『デーモンラヴァー』のオープニングに匹敵するか、事によるとそれ以上の強烈なインパクトを与える素晴らしい出来栄えである。現代映画の進むべき道とはこれだ、とまで思ってしまう凄まじさである。照明設計による一瞬の空間の変化、そして人物が置いていったモノの存在感、そして何の説明もなされぬままに繰り広げられる人物達の運動など、まさに現代の無秩序化した映像文化に抗いながら「映画」の存在証明を提示していると言っていいだろう。
 これだけでチケット代は充分に取り返したので、文句は言うまい。
 それ以降の約100分間の恐るべき停滞ぶりは、おそらく脚本、あるいはベースとなったお話がそもそもつまらないだけなのではないか。
 演出や撮影も、ほとんどこのあまりにもつまらない脚本をどうしていいのかわからないといった風な迷走ぶりで、ただただひたすら真面目に設定されたカメラの視点(フォーカスを合わせないまま奥の会話を聞かせるという『トゥモローワールド』以来(?)の徹底ぶり)(しかしでは一体なぜラストに婆さんが車に乗るまでを徹底して窓から撮らないのか)と、大胆な色使い(赤いコート、青いシーツ、赤いカーテンなど)が行き場を失って佇んでいる。
 クローズアップに関して言えば、冒頭でさえかなり微妙で、これはこの手のドキュメンタリー風手持ちカメラスタイルが遍く抱える問題なのかもしれない。クローズアップがどう入ればいいのか、確かにちょっと見ていてもわからない感じがする。
 ジェームズ・マーシュの今後の作品に注目である!

空軍

監督:ハワード・ホークス

 『コンドル』同様、かつて失敗したものが「その場の流れによって」「知らず知らずのうちに」、もう一度役割を果たす映画であって、だから僕のなかでは、ジョン・ガーフィールドがジョン・リッジリーを助け、機体を不時着させるシーンでこの映画は完結したと言ってもいいぐらいで、というかそれほどこのシーンは震える。
 あるいは戦闘シーンの嘘みたいな迫力。スクリーン・プロセスであってもこれだけの迫力を出せるのだから、凄いとしか言い様がない。ラスト近くの戦闘機が船に落ちて船もろとも爆発、という造形。

 ハリー・ケリーが息子の死を聞かされるシーンで、「1秒たりとも感傷に浸らせない」という映画的感覚が素晴らしい。感傷的なエピソードはすぐさま中断され、しかし中断された者達は感傷を胸に、それを運動に転化させていくわけだ。
 だからこそ上記の戦闘シーンは見事に「戦意高揚」させられるわけだ。

 扉の開閉はパイロットの妹を見舞いに行くシーンだけだったのではないか。それほどこの映画には扉の開閉がなく、つまりアメリカ国民全体がすでに団結している(とまで深読みするのはよそう)。
 主観ショットでひとつだけおかしいのがあって、病床のジョン・リッジリーの視界がだんだんクリアになってハリー・ケリーを捉えるところ。これは間違いなく主観ショットなのだから、ハリー・ケリーはカメラの方を見ていなきゃおかしいね(笑)

 機体の修理をあきらめて燃やすという展開なのかと思ったが、意外にも機体は修理される。だがそこでもたついたせいで多くの犠牲が出ている。

2013年3月15日金曜日

脱出

監督:ハワード・ホークス

一度目はけっこう退屈してしまったのだが、コンディションを整えて二度目を見ると、とても面白い。
ローレン・バコールの佇まいや仕草のディレクションに対する賛辞をよく目にするが、それだけではなく、ショットの組み立て方も明らかにローレン・バコールが絡んでくるシーンでとりわけ気合いが入っていると思う。
最初のローレン・バコールの登場シーンは言うまでもないだろうが、それ以降のハンフリー・ボガードとの部屋の中でのやり取りも非常に繊細に演出されている。というか、常にどちらかが部屋の中を所狭しと動いているので、単純な切り返しの構図にならず、片方をフォローしたまま両者をフレームに収めるというようなカメラワークが多くなっており、それが面白さの要因になっているだろう。
部屋の中のシーンだけでなく、ボガードの元を離れてスリのターゲットへと歩いていくバコールを追ったカメラ、あるいは夜中に歌うバコールのもとへ歩み寄るボガードをフォローするカメラワークなど、シンプルながら非常に素晴らしいショットの組み立てである。

中盤にワインボトルを返しに行ったり戻ってきたりというシーンがあって、ここは脚本の構成が随分偏っていると思うのだが、どうか。
普通、部屋を結局三回も行き来するのだから、どっかで一度別のシーンを挟んでもいいようなものを、何の中断もなくふたりはひたすら両者の部屋を行き来するのである。

ローレン・バコールがボガードの世話焼きをしようとして拒否される一連のシーンにおいては、ボガードが扉を閉じようとしたところで、その扉をバコールが開けて入ってくる。つまりここで少しバコールのボガードへのアプローチが強まっていると言えるだろう。現にその思い故にバコールは空回りしてしまうのだ。そしてそれを悟ったかのようにボガードが彼女にキスをする。

ローレン・バコールが出てこないシーンでは、ショットの組立てが平板な印象を受ける。
特に肝心の海でのミッションの描写が極めてつまらない。

朝食でピアニストにバコールが話しかけるシーンは長い長いフィックスショットだ。こういうのがいいね。
一触即発の雰囲気でここぞとばかりにローレン・バコールがマッチをする。

2013年3月12日火曜日

コンドル

監督:ハワード・ホークス

完璧な物語とは、あるいは完璧な映画とはこういうものを言うのだろう。しっかり再見しておきたい。

セリフの素晴らしさ。「同じところをヤケドしない」とか、あるいはジーン・アーサーがバーの外での、「葬式のように形式だけのものが大嫌いだと思ってたのに、今は全く逆のことを思ってしまってる」という科白の素晴らしいこと。
"Because they don't have bananas!", "Oh, they don't have bananas?", "They don't have bananas!"というリズムの素晴らしさ。

あるいはケーリー・グラントの所作。
一触即発の雰囲気でザッとマッチをする、あるいは椅子を蹴飛ばす、リタ・ヘイワースに水をぶっかけるなど、面白いね。

冒頭の飛行機事故、「600フィート、400フィート」っていう数字と、一瞬の主観ショットだけでこれほどまでに緊張感を醸成できるのかと。震えるほかない。

ラストの因縁のふたりが一緒に操縦するとこ、SUPER8みたいだ。

2013年3月9日土曜日

ル・ディヴォース/パリに恋して

監督:ジェームズ・アイヴォリー

中盤がちょっと退屈。家族の仲が良すぎる、あるいは相手方の夫婦ともっといがみ合わないと面白くない。
でも終盤はどんどん面白くなっていく。
遊園地でのナオミ・ワッツのセリフがとてもいいね。「本当の愛には自由がないの」
マシュー・モディーンがもっと絡んでもいいと思うが、朗読会に彼が現れたところで、ケイト・ハドソン達がひそひそと耳打ちをし始め、協力して追い出すシーンなどシンプルだが面白い。

あるいはマシュー・モディーンが突然現れてナオミ・ワッツに言い寄るシーン。ウィンドウショッピングを楽しむナオミ・ワッツが、これは、と思って店に入る。店に入る直前にカメラが店の中から窓越しにナオミ・ワッツを映し、ナオミ・ワッツがドアを開けて入ってくる。この不意の視点移動の直後に、待ってましたとばかりにマシュー・モディーンが窓の外に現れて大声をあげる。
その後ナオミ・ワッツが店の外に出てマシュー・モディーンを返り討ちにするのを、同じポジションでじっと捉えるのがいい。だから直後のシーンで家のドアを開けたケイト・ハドソンがナオミ・ワッツが倒れているのを発見する場面がショッキングなものになるわけだ。それは今述べたように、カメラがナオミ・ワッツに寄るのを我慢して、心理的な演出をあえて回避しているからに他ならない。

赤へのこだわりも楽しい。ケリー・ザ・バッグ、あるいは終盤のエッフェル塔でのケイト・ハドソンのスカーフ、愛人との最後のランチでもケイト・ハドソンは赤いセーターを着ている。そして『赤い靴』!

ラストのオークションは、そう、あの『最終目的地』のコンサートと同じようにエピローグとして描かれているのだが、こういうのがたまらない。バイヤー達のクローズ・アップにラ・トゥールの絵が挿入されるとこ、シンプルだけどニクい演出だね。

2013年3月7日木曜日

マーサ、あるいはマーシーメイ

監督:ショーン・ダーキン

 ファーストショットに度肝を抜かれる。手前の赤いタオルと奥のジョン・ホークスがパンフォーカスで捉えられていて、最初からいきなり遠近感を揺らされる。
 冒頭の数ショットは本当に見事だと思う。
 そして”コミュニティ”のみんなが寝静まっている中、エリザベス・オルセンが小屋を出ていき、そこから長回しで彼女をフォローする。ここで窓越しにオルセンを見ている女性を捉えているのが見事だ。そしてオルセンが森の中へ消えていくショット。これはジョン・ホークスの主観ショットなのだろうか。なぜそう思わされるかと言えば、前述のように窓越しにオルセンを見る女性をしっかりカメラに収めているために、「オルセンへの視線」を意識させられるからである。
 ちなみにこの映画には明確な主観ショットは皆無である(せいぜい森の中の銃の練習で、真正面にビール瓶を捉えるショットぐらいである)。が、ダンカン・ジョーンズの視点にはゆるぎがない。
 籠の中の乙女であったりSHAMEといった近年のインディ系の映画によく見られる、フィックスによる持続を多用した映画の一種であると思うが、そうでありながらそれらの作品群とは一線を画する独創性がある。これらのインディ映画群(それほど見ていないけれど)は、しばしば画面そのものよりも「フィックスによる持続」自体を売りにしてるとしか思えないショット(要するに無駄に長く、それ故になんか前衛的っぽい感じ)が見られたが、この映画にあってはフィックスの強度そのものが非常に大きいので、画面の緊張感が尋常ではない。湖の見事な撮影。オルセンが最初に湖で泳ぐのを後ろから捉えたショット!

 扉の開閉にも極めて自覚的だ。家を舞台にしていながら、扉の開閉は全部で10回程度だと思われるが、それら10回の開閉は極めて印象的なシーンである。
 まず前述した最初にオルセンが小屋を出て行く時の扉の開閉、あるいは二回目はオルセンを追ってきたコミュニティの一員がオルセンを威圧したあとに店を出て行くショットで、フォーカスは手前のオルセンにあっていながら、後ろの扉の存在感が見事だ。
 あるいはオルセンがホームパーティで激高するシーン。ここでオルセンの姉とその夫が彼女を寝室へと誘導する。よく見ていただきたいのが、夫の方はオルセンを寝室に入れてそのまま外からドアを閉めようとし、それを姉が阻み、オルセンの元へと駆け寄っていくのだ。つまりドアの開閉という運動を通して姉とその夫のオルセンに対するスタンスが一瞬のうちに対比されているのである。ここは全く見事な演出である。
 また、オルセンの運命を狂わせた最大の事件としての、邸宅における惨劇を描いた場面でも、玄関のドアを開けた瞬間にカメラが外から玄関内を捉え、壁の影から女がスーっと家主の背後に現れるショットとなる。人物の配置と間合いにおいて完璧なシーンと言える。
 そして最後の扉の開閉は、コミュニティ内において、トイレに閉じこもったオルセンのもとにジョン・ホークスが突入するシーンであり、ここはこの映画で唯一ジョン・ホークスがオルセンに怒りを表す
場面で、役者の好演もあって凄まじい迫力だ。
さらにこの直後の階段でのひと悶着も全く見事なカメラワークだ(窓の外の椅子とテーブル!)。中盤若干だれるのだが、これらの終盤の圧倒的な展開によって見事に復活したと言っていい。
 以上のように、扉の開閉のたびに事件が起こる映画である。あるいは扉の開閉そのものが事件となっている。これこそがサスペンスだ。


 ※表現先行になりがちな部分がないわけではない。例えばオルセンが現在のパートにおいて湖に飛び込む瞬間にカットが割られて回想パートでオルセンが川に飛び込みコミュニティのメンバーと全裸で戯れるというのも、実は全裸で戯れてるだけで、このショット自体にあまり必然性が感じられないために「2つの飛び込みシーンのモンタージュ」という目的ばかりが目立ってしまっていると思う。要するにちょっとあざとい。
 


2013年3月6日水曜日

沈黙の女/ロウフィールド館の惨劇

監督:クロード・シャブロル


 最初のショットがサンドリーヌ・ボネールがカフェに入ってきて椅子に座るまでのワンショットだが、ジャクリーン・ビセットの主観ショット気味になっている(厳密には違うとは思うが)。
 この最初のワンショットには、ボネールが歩く姿、そして外から中へと入る運動、主観ショットといったこの映画において極めて重要な要素が凝集されていると言えるだろう。
 この映画ではとにかくボネールの歩く姿が見事に「不可解」である。(邦題は『歩く女』の方がいいだろう(笑))

 主観ショットでは、テレビ画面のショットがいくつかあるが、最も重要なシーンはボネールの視線でイザベル・ユペールを捉えたショットだ。これは初めてボネールがユペールの家に来たシーンで、お互いが完全に意気投合する前だと言える。そして過去の事件の話になったところで、ユペールがベッドの上に座って、ボネールの方を見る。このユペールをカメラがボネールの主観ショットで捉えるため、画面としては真正面からユペールがこちらを見ているという強烈な、そしてこの映画で唯一のショットとなっている。そしてここが結節点となって、ユペールとボネールの極めてブラックな共犯関係が築かれていくことになるだろう。
 このシーンでふたりが過去の事件について晒し、しかも話の流れとしては見てる者からすれば、「このふたりは犯罪者なのかもしれない」という疑惑を持たざるを得ないわけで、異質のふたりが灰色の過去という共通点で結ばれる瞬間である。それがこの主観ショット&ユペールのカメラ目線の演出の正体である。

 あるいは扉の開閉によって事態が展開する脚本のうまさ。初めてユペールが一家の家に入る時は、窓から強引に侵入する。この侵入の時はボネールとユペールの仲はほとんど深まっていないが、この強引な家への侵入のように、ユペールもまたボネールに強引にコミュニケーションを図っているのが面白い。
 
 あるいは何度か出てくる玄関のショットの見事さ。白いカーテン。車を捉えたショットは全て素晴らしい。これは見事な傑作だろう。

赤ちゃん教育

監督:ハワード・ホークス

 主観ショットが全部で18回、扉の開閉が全部で30回ほどある映画なのだが、なぜこんなことを書くかと言えば、扉を開けることによって事件が誘発されたり、あるいは扉の向こう側を見ることで事の真相を知る、という展開が多いからであって、あるいはそれは要するに視覚の聴覚に対する優位性の誇示だと言ってもいいのかもしれないが、まぁそこまで言うこともないでしょう。
 
 一番良いシーンが、酔っ払いの使用人が豹を目撃して、慌てて家の中に入って、女の召使いに衝突して、それによって大量の食器をガシャン!と落としてしまい、その音を聞きつけた各位がその部屋に集合して、事態を察したヘプバーンとグラントが外へ豹を探しに行くというシーンで、とにかく外から中へ、部屋から部屋へ、そして部屋から外へという空間の移動が極めて気持ち良いリズムで描かれている。
 ちなみにこの酔っ払いが豹を見つけるときは主観ショットを使っていないが、一方叔母の友人が暗闇の中で豹を発見するシーンでは主観ショットが使われている。ここではふたりのうち、一人だけが気づくという事がこの主観ショットの選択に至っているのかもしれない。
 あるいはさらに対比を続けよう。酔っ払いが目撃する豹はそこにじっと座っているのに対し、叔母の友人の大佐が発見する豹はスーっと闇夜に紛れてしまう。このスーっと消えていってしまうが故に、主観ショットであることが生きてくる。闇夜に紛れる豹というのは、外側からの構図では撮れないわけだ。主観ショットによる不可解で捉えどころのない光景の提示、というのはひとつの映画史的正解としていいだろう。

2013年3月5日火曜日

主婦マリーがしたこと

監督:クロード・シャブロル

シャブロルによる解説がDVDにあったので、それに少し言及しつつ書こう。
まずイザベルユペールと子供が家に帰ると夫が帰還している、というシーンは映画におけるひとつの転換点であり、シャブロルはここで親子が玄関まで来て家に入るところをわざと長めに撮ったらしい。また息子の視線ショットによって寝ている父親を映している。
 またシャブロルによれば、父親が寝ながら手がズボンの下にあるという点が、彼の今後を暗示しているらしい。知らんがな。
 シャブロル自身が言及しているように、本作は主観ショットが非常によく出てくる。時に鍵穴からの光景としても捉えられるし、あるいはその光景が物語を動かす契機にもなっている。
 特に夫婦の喧嘩を目撃する息子の視線ショットが非常によくできている。
 あるいは扉の向こう、窓の向こうの風景も印象的に撮られている。
 イザベル・ユペールが教室で歌ってみせるシーンでは、思わぬ長回しで極めて美しい窓の外からの画面として捉えられれている一方、そのあとカメラが窓の中へ入るのがあまり好みではない。
 シャブロルいわく、外の世界と中の世界を対比させたのだとか。
 終盤の法廷を中心とした描写はあまり面白いとは思えない。

 イザベル・ユペールの顛末を暗示したガチョウの首切りシーンが面白い。それは「目隠し」という点でも実に印象的だが、あの巨大な被り物や、背景のナチのマークなどの視覚的なインパクトが非常に強い。この映画は全体的に地味で完結で簡素だが、このシーンと法廷の壁にある大きな絵画が非常に強烈な印象を残す。