2024年6月14日金曜日

トニ

 監督:ジャン・ルノワール

助監督:ルキノ・ヴィスコンティ


先日、岡田温司『ネオレアリズモ』を読んでいたら、ヴィスコンティの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の分析において、つねに背景にポー川のせせらぎや農作業の風景が映っており、心象風景として機能しているというようなことが書いてあった。その妥当性はよくわからないが、ヴィスコンティが助監督を務め、ネオレアリズモを10年先駆けているという評判のこの映画においては、唯一、採石場のシーンにおいて、背景に労働者の姿が映り込んでいる。具体的には、崖になっている高地で主人公のトニとフェルナンが、トニが想いを寄せるジョゼファについて話している場面で、ここに採石場の管理人であるアルベールが割り込んでくる。このシーンでは、最初トニとフェルナンが横並びになって話しているところに、アルベールが入ってきて、そのタイミングでフェルナンが画面外に追いやられ、続いてアルベールに挑発されたトニがアルベールの胸ぐらを掴んで崖から落としてやるぞと凄むと、恐怖を覚えたアルベールがそそくさと内の方へと退散し、今度はアルベールとフェルナンが同一画面に収まり、このショットとトニ一人のショットが内側からの切り返しとして提示される。その背景として、採石場で働く人々の姿が、遠くの崖下に捉えられている。何なのか。よくわからないが、こんなに高低差のあるショットはこの映画においては、あと一つしかない。そのもう一つというのは、終盤で警察から逃げるために高架橋の上を走るトニを、フェルナンが見つける場面だ。このときは下から上への仰角ショットにより、一直線に走るトニの姿がフェルナンとの大胆な縦の構図で捉えれられることになる。まぁしかし、だから何なのか。わからない。

さて、この最後のトニの疾走場面は、先ほど述べたような高低差を意識させる構図で捉えられることで、その走行の一直線ぶり、水平ぶりがよくよく強調されている。この水平な運動はこの映画ではもう一つとても印象的な場面で出てくる。それが、トニの恋人であり、トニの気持ちが離れていることを悟ったマリーが、ボートに乗って湖をスーッと走行し、そのまま身投げする場面である。この場面は誰もが驚き、記憶するはずなので、あえて詳細には言及しないが、この場面の驚きは、それ以外のシーンがこれほど運動を持続的に撮らないからだろう。この映画では、ことあるごとに行動が中断し、移動中は誰かに遭遇するし、カメラと被写体の間には木々が生い茂っていてよく見えない。そんななか、このマリーの身投げの場面だけは、恐ろしいほどの見晴らしの良さが強調され、またショットも全然カットが割られず、誰一人マリーの移動を妨げない。うーん、これは素晴らしい。

あとは白いシーツを広げる場面の見事なカットつなぎ。ジョゼファがアルベールを撃つ時の真正面からの切り返し。などなど。



2024年4月12日金曜日

北北西に針路をとれ @ Dryden Theater

 35mm フィルム (スコセッシ所蔵)

監督:アルフレッド・ヒッチコック

出演:ケーリー・グラント、エヴァ・マリー・セイント、ジェームズ・メイソン

 

不朽の名作。何も言葉にする必要のない、ただ画面だけを眺めていれば、もうそれだけでオッケーという感じだが、せっかくなので今回の鑑賞で思いあたった点を記しておこう。

この映画では、多くのものが知らぬ間に変化する。それはプロットにおいてもそうだが(突然別人に間違われて命を狙われること。直前まで話していた人物が死んでいること。)、画面においてもそうなのである。例えば列車でケーリー・グラントを匿うエヴァ・マリー・セイントは、グラントが化粧室に隠れている間に、いつの間にか黒のドレスから白のネグリジェに着替えている。あるいは列車が走行する様を近接で撮ったショットが2回出てくるが、ここでは夕日の角度が変わって、2つめのショットではとても美しい光線として露呈している。これはある種の時間経過を示すショットではあるが、実は終盤、ラシュモアのカフェ(今見ると大変おしゃれ)で教授とグラントが共謀するシークエンスでも似たような趣向のショットがある。ジェームス・メイソンら一行がやってきたのをグラントが教授に知らせると、教授がまずカフェに入っていく。そのあと、グラントが後を追うようにカフェに入っていく。二人がカフェに入るショットは全く同じ構図で撮られているが、後者のショットでは陽光が強く窓に反射しているのだ。実に短時間の合間に、雲が移動したのだろうか。このカフェのシーンやオークション会場のシーンでは、エヴァ・マリー・セイントがニュートラルな表情を浮かべていた次の瞬間には、目に涙を浮かべている。このような、カットを挟んで同じものが違っていること、このような「嘘」が、映画に散りばめられているのだ。

それにしても、エレベータのシーン、高明な飛行機のシーン、あまりに鮮やかなエンディング、何度見ても凄いとしか言いようがない。個人的には初見時から、ケーリー・グラントとエヴァ・マリー・セイントが林のなかで再会する場面の、グラントを映したカメラが後ろにトラックして二人が画面に収まるあの瞬間がとても好きで、今回もやっぱりそこが一番美しいと思った。

2024年2月11日日曜日

『世界は時間でできている』、あるいは何が映画を走らせるのか

平井靖史の『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』を読む。マルクス・ガブリエルが多元論的な無世界論として展開したスケール相対性、そしてそれら全体を包含するものとしての「世界」の否定の、時間バージョンとでも言うべき哲学書だ。ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』から始まる三冊シリーズは、敵対する理論をこれでもかと詰めた挙句、いつの間にかガブリエル側のロジックを呑んでしまっているというような、キツネにつままれたような読後感もあるのだが、『世界は時間でできている』は、特に自然主義 / 物理還元論的 / ニューロ中心主義的な立場に対して、お互いの関心領域がどのように異なっているのかをかなり丁寧に整理したうえで、スケール相対的な時間論を精緻に展開しているという点で、とても「クリーンな」人文書であり、初めから読み通したうえで第7章の自由意志についての議論を追いかけることで、相当に物事の理解が深まるような気がした。議論の道具は前半にほとんど開陳されており、この記事でも主に前半で展開される議論を追いかけながら、映画の話をしたいと思う。

★マルチ時間スケールの概観 魔人の素材はランプではない

平井が本書で展開するマルチ時間スケールの原理で特に重要と思われるのが、時間相対性だ。物理的な因果律がひたすらに生起しているだけの世界=階層0に対して、時間の幅に差延が生じることによって、量的情報が質的なものへと「折り畳まれ」るようにして、新しい階層が出現する。(本書でも出てくる例にしたがえば、わたしたちの網膜→視覚野システムでは、多数の瞬間的な波を認識できないからこそ、それが赤や緑といった質へと折り畳まれる。これが階層1。)これが人間がクオリアを経験できる理由である、と説明される。
この説明の肝は、「外的な要因によらず、意識現象が出現する」メカニズムを解明する点にある。というのも、本書で魔法のランプのメタファーを使って説明されるように、ランプをこすれば魔人が出てくることは、魔人がランプでできている(魔人の素材がランプである)ことを意味しない。同じように、脳の刺激によって意識経験が起きていることは間違いないにしても、「脳が意識をつくっている」ということにはならない。なぜなら脳という物質が意識の素材になることは考えにくいからだ(これは、マルクス・ガブリエルが『新実存主義』のなかで、脳と心は自転車とサイクリングの関係のようなものだ、と言ってみせたこととも通じるだろう)。そこで、いったい意識、あるいはクオリアの素材とは何なのか、という答えが上記の「内的時間の差異がクオリアの由来」(波の振動を捉えきれない時間スケールによって、情報が折り畳まれる)というものだ。波の波長分の幅しかなかった(階層0の)現在が拡張することによって「赤」の経験が可能になる。ちょうど、1ヶ月の収入を1ヶ月で使ってしまう(いわば1ヶ月という幅の「現在」)人は収入以上のものを買えないが、貯金をすれば(現在の幅を拡張すれば)収入以上のものが買えるようになる、とこれまた秀逸なメタファーが用意されている。この調子で、内的時間の差異によってより高次元の階層が一つ一つ説明されていくのが本書の大まかな流れである。

★未完了相 階層のはざまで

このマルチ時間スケールの議論の白眉は、第二章で説明される、階層1から階層2が生成する際に、その階層の狭間において、アオリスト相に加えて未完了相が生成するという「創発」だろう。いきなり言っただけではなんのことだかわからないが、第二章のタイトルはずばり「どうすれば時間は流れるか」である。先ほどの階層1におけるクオリアの生成は、あくまで一回きりのクオリア体験を説明するに過ぎず、ここで言えば「ド」、「ミ」、「ソ」という音の経験をそれぞれに説明はできても、それがド→ミ→ソという順序を含めた経験は説明できない、というところで、この順序も含めた体験質の場として階層2が召喚される(この説明だけでも普通には理解不能だろう。詳しくは本書を読まれたい)。
しかし、階層2がド→ミ→ソという順番も包含した体験質の場所であるとすれば、ここでの体験はすべて「完了相=アオリスト相」である。ドミソというひとまとまりの経験が、「あった」。それは決して、ドミソ〜♪という(うっとりする)流れの経験にはならない。しかし、その都度の完了を意味するアオリスト相ではなく、「〜しつつある」という未完了相の次元こそが、活き活きとした体験を可能たらしめているのではないか、というところで、階層1と階層2のはざまで、未完了相という文法の生成が起こっていることが説明される。
「どうすれば時間が流れるか」というタイトルを見たとき、思わず『何が映画を走らせるのか』(山田宏一)を想起してしまったが、この主題はまさしく、何が映画体験を、音楽体験を、あるいは絵画体験を生き生きとしたものにするのかということに通じるものである。逆に言えば、通常の体験のほとんどは階層2に回収されてしまっているように思われる。しかし時に人は階層1と2のはざまで、あられもなく現前する未規定の何事かを、「宙吊り」の現在として、ミラン・クンデラであれば「緩やかな流れ」と呼ぶような体験を持ちうるのではないか。

★ボトムアップに抗する相対主義

時間という点に限定しなければ、生物内に異なる階層があることで複雑な概念形成や自由が可能になっているという立論は、たとえば生理学者デニス・ノーブルの議論と非常に似ている(『生物学的相対性 命の調べのダンス』)。つまり、生命には、ゲノム、細胞、組織、身体と異なる階層が組み込まれており、各階層には各々の秩序があり、それらの階層ごとの違いが複雑に絡み合うことで生命現象が生まれており、これは(ノーブルが批判する)社会的ダーウィニズムにおける、「生命現象は利己的な遺伝子によって決定されている」というようなボトムアップ的なそれと鋭く対立する、トップダウンの理路を形成する。実際、本書でも平井は、マルチ時間スケールは、トップダウンの道筋に対しても開かれていることを明言している。
このような、「相対主義なんだけど独我論ではない。実在論なんだけど還元主義ではない。」というような論理展開は、マルクス・ガブリエルの意味の場の存在論のみならず、上記のデニス・ノーブルや、リサ・フェルドマン・バレットのような優れた自然科学者の側からも提起されつつあるように思われる。


★映画が未完了相になるとき

さて、「1秒24コマの死」(ゴダール)として生まれた映画(モーション・ピクチャー)は、文字通り「1秒24コマ」という「客観的な時間」で進行するはずなのであるが、実際には常に変化する「現在の幅」を提示する時間芸術となっていることに気づく。1秒24コマのスケールを人間の視覚系は捉えきれない。捉えられたら、一枚一枚の写真をその都度見分けることができてしまい「動画」にならない、ということもそうなのだが、ここで考えたいのは、やはり階層1と階層2のはざまだ。目の前の出来事を綴っている動画が、「人が歩きました」、「恋人同士がキスをしました」、「路面電車が通過しました」という完了相の体験質を逸脱して、「あぁ、人が歩いている」(例えば『勝手にしやがれ』)、「あぁ、キスをしている」(『汚名』)、「あぁ、路面電車が走っていく」(『ウンベルトD』)という未完了相の次元を獲得する瞬間。本ブログでも述べたように、『若草物語』のいくつかのショット。たとえばベスの臨終の場面において、窓辺に止まった小鳥が羽ばたいてフレームアウトするショットは、まさにベスが「死につつある」という、この強烈な現在を表象してやまない。この「流れ」だ。

★エルミタージュ幻想

デジタルカメラの使用により、90分を1ショットで撮るということを最初に行ったのがアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)であった。いみじくも、『エルミタージュ幻想』は、エルミタージュ美術館のなかをカメラが巡る過程で、エカテリーナ大帝の時代のエピソードや現在の美術館を訪れた人々の描写が入り乱れ、まさに時間の迷宮の様相を呈しているのだから、ソクーロフの芸術理解というのは当時から驚異的なものであったことがわかる。
この映画のリバイバル上映を今はなき桜井薬局セントラルホールで見たときの「体験質」は、文字通りぶっ飛んだそれで、まさにスクリーンに映る全ての出来事が、ひたすら「未完了相の現在」として「流れて」いったのを今でも覚えている(その「流れ」を追体験することは叶わないが)。しかも、上映が終わったあとも、その「異様に拡張された現在」は続き、帰り道においてもひたすら目に見えるものが「ワンシーン・ワンショット」の続きのような感覚にとらわれてしまい、ほとんど眩暈がするようであった。このような経験は後にも先にもこの時だけだろう。
ここで勘違いしてはいけないのが、1ショット=1つの現在ではないということだ。こうした勘違いをすると、ワンシーン・ワンショットの長回し用いれば、それだけで「拡張された豊かな現在」が生成すると思われてしまうし、現にそういう勘違いをしているとしか思えない駄作もよく見かける。必ずしも「長く回せば」豊かな時間=良いショットが生まれるわけではない。
何かふとしたタイミングで、おおっと思わせるようなショットが「持続」することによって、それまで予定調和的に進行していたストーリーが、逸脱した固有の現在性を持ちうるときこそが、豊かな持続なのだ。私がこのサイトで色々と指摘しているのは、突き詰めればみなそうした「多様な現在」を拾い集めているということになるだろう。そして結局のところ、それはワンショットである必要はない。まさにショットの連なりとして映画は現在形/未完了相の時間を生きることができる。


★映画における過去
第三章で、人間が記憶を想起する際の心的なメカニズムについて説明している箇所では、階層2で得た体験質同士の関係性がそれ自体で質的情報として保存(?)されているため、それを手がかりに過去の経験を想起することができるというふうに読める。この、過去の記憶にはそれぞれ固有の色合いやニュアンスが付随している(ゆえに過去の経験を、検討をつけながら想起することができる)という説はとても面白い。これと関連して、映画における「フラッシュバック=過去の回想」について考えてみるのも面白いだろう。映画で過去の回想シーンが流れる場合、「Three years ago...」と直接的な字幕表示が出ることもあるが、例えば画面の色調を過去と現在のシーンで使い分けることによって、表示せずとも「これは過去のシーンだな」とわかるような工夫がされていることが多い。
最近で言えば、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』において、「このように提示される映像は回想である」という観客の「常識」を逆手に取った構成を取っていたことが記憶に新しい。
より作家性が増して、再帰的な映画作品になってくると、過去と現在の見分けがつかないような構成で、イメージの戯れ的な様相を呈することもあるだろうし、そもそも映像において過去と未来を決めているのは、映像にとって外在的な「物語」に過ぎず、現前するイメージの現前性(豊かな現在性)はアプリオリに決まってはいないといった批評的態度にもつながってくるだろう。

★科学(的手法)の限界、芸術の意義

最後に、本書で展開されるような議論が、どうして自然科学と対立、あるいは対立しつつも共存するのかを考えたい。私が専門とする医学では、対象となる「ある生命現象」に対して、分子生物学的に何が起きているのかを解明することを基本原理としている。「皮膚が赤くなって腫れ上がって痛くて痒い」という現象に対しては、外的ストレスによる細胞のダメージに引き続いて、各種サイトカインが放出され、種々の白血球が遊走してくることによって炎症が増幅し、痒みや痛み、腫れが帰結する、というふうに。自由意志の問題で俎上にあがる脳科学も、基本はこの構造であるだろう。いわば、特定の精神活動に対してfMRIなどの装置を使って、その精神活動に対応する神経活動のパターンを解明していく。あるいは逆に、脳梗塞などの疾患によって特定の神経領域が損傷した患者でどのような精神活動が起こる/抑制されるかを考えるというわけだ。こうした科学的手法に対して多くの限界を指摘することができる。自分がこれまで考えたなかでも、相関を見ているだけじゃないか、とか、観察者の立ち位置による解釈の余地があるじゃないか、といった反論があった。こうした反論はある程度有効だと思ってきたが、科学的知見が深まれば深まるほど、それだけだと弱いな、という気もしていた。たとえば観察者の立ち位置によるバラツキはunbiased anaysisによって相当程度克服されつつある。結局、全てを量的情報に変換してしまえば、ほとんど問題にはならなくなる。本人の主観は量化できないだろう、という反論もあり得るが、これも少し弱い。例えば、将来的に、脳を特定の仕方で刺激することで、過去に経験した香りや気持ち悪さといった情動経験を再現することができれば、それも(一見)解決されてしまうように思われる。
しかしながら、本書が提示するアオリスト相と未完了相の区別は決定的に意味がある。わたしたちが言語で指示する現象は、物理現象であれ、あるいはクオリアであれ、指示しているときにはアオリスト相なのだ。「未完了相」の「いままさに、しつつある」という、この「流れ」は、フッサール=ザハヴィのいう「区別はできるが分離はできない」という意味で、易々と対象化することができない。対象とするためには過ぎてなければならず、過ぎたあとにはもう流れていないのだから。
いや、そんなものは科学の対象ではないどころか、言葉のあやで勝手に作り上げた妄想だろう、と言われるかもしれない。しかし私は知っている。優れた映画が時に、まさに「ああ、風が吹いて帽子が飛んで、それが落ちて、、」とひたすら流れを羅列することでしかその感動が伝えられないことを。あるいは、本書が第七章の自由意志の問題で述べるように、人生の重大な決定は、一切の過去をひっくるめた複数の時間体験によって自我の変容を被りながら、まさにそうなるべくしてそうなることを踏まえれば、(本書が指摘するように)頻度こそ低いものの、その重要性は科学全体の知見に匹敵すると言っても良い。
マルクス・ガブリエルが「自由とは運命だ。運命を認識したとき、人は自由になるのだ」とNHKのドキュメンタリーで言っていた意味もこれだろう。
人間の行動の多くは科学的に説明可能だし、今後もその領域は増えていくだろう。それは我々がたいていの時間をそのように(連合主義的に)生きているからだ。しかし、面積にすればそれほど大きくはない、人生の局面、局面において、我々は対象化できぬ流れを生きるのだし、そのことを忘れてしまえば、その契機も失われてしまうだろう。

2024年1月12日金曜日

荒野の決闘

 35mmフィルム(スコセッシ財団所蔵) Dryden Theater にて


クライマックスで、馬車が通り過ぎたあとの砂煙で視界が遮られ、見えたと思ったら一瞬の銃撃、というシークエンスショットに惚れ惚れするが、ヴィクター・マチュレの絶命シーンにおいて、彼の持っていた白いハンカチが丸太に引っかかる、という王道の演出も嬉しい。

ウォルター・ブレナン一味の男が、リンダ・ダーネルを撃ったあとに逃げるシーンでは、屋根から飛び降りて馬まで走ってくるまでをクレーンショットで撮っているが、ここのライティングもまったく見事。

また、冒頭のブレナンとフォンダの会話シーンの切り返しがなかなか変だが、それゆえに印象的だ。

ジョン・フォードなら当たり前とはいえ、馬の疾走シーンも相変わらず素晴らしい。あの車輪が回りまくるようなショットっていつから始まったのだろう。最近の映画はカーチェイスで必ずタイヤのアップショットを持ってくるが、馬車と違ってタイヤが外れるんじゃないかとハラハラする要素は1ミリもない。

ジョン・フォードなら当たり前とはいえ、銃撃も投げられるグラスも、砂埃も、全ては画面を活性化するため、というこの姿勢が何より嬉しい。

Have you ever been in love, Mac?

No, I am always bartender.

のシーンで観客大笑いで驚く。

2023年12月30日土曜日

フェラーリ

 監督:マイケル・マン


アヴァンタイトルで、アダム・ドライバーがレースで快走する合成映像が白黒で提示され、バックには非常に牧歌的な雰囲気の歌が流れる。ここで暗転してFERRARIのタイトルが出ると、審美的な夜明けのショットを挟んで、老けメイクを施したアダム・ドライバーが、寝室から誰も起こさないように出ていき、玄関先の坂道を途中までエンジンをかけずに降りていき、しばらくしてエンジンをかけて車を走らせていく。このオープニングが本当に素晴らしい。

車も乗らず、F-1なんてほとんど見たことがない人間なので、映画が舞台とする1957年のフェラーリの状況などまるで知らずに見たのだが、てっきり『ラッシュ』とか『フォード vs フェラーリ』のようなスペクタキュラーなレース映画なのかと思いきや、ほとんどのシーンが雲行きの怪しい経営の話、ペネロペ・クルス演じる妻との尋常ではない殺伐とした関係性に重点が置かれ、レースの場面でも、抜くか抜かれるかのような醍醐味はほとんどなく、むしろ不慮の事故でバタバタと人が死んでいく、その不条理とやりきれなさが強烈に印象付けられる。終盤の恐ろしいシーンでは、もうレースなど見たくないという気分にさせられる。最初に述べたような若き日のようなレースは、すでに無いのだ(だからわざわざモノクロの映像を最初に据えたのだろう)。

思い出されるのが、あまり良い出来とは言えなかったものの嫌いになれぬデミアン・チャゼルの『ファースト・マン』である。月旅行という一見ロマンたっぷりのミッションが、実際には冷戦という政治と組織の論理に支配され、乗組員はその駒に過ぎないという諦念とともに描かれたのと同様に、派手なカーレースを、まるで「神のごとく」(教会のシーンが強烈だ)更なるスピードを求める人類史の悲惨として描いているように思われる。

比較的被写界深度の浅いショットで、ピント送りを多用するスタイルははっきりと好みではない。特に室内劇において、手前と奥でわざわざピントを交互に合わせる意味がわからない。しかし、ここぞというときのフルショットの格好良さ(トライアルサーキットで仁王立ちするアダム・ドライバーの後ろ姿!)、花束をめぐる遊び心満点の演出、冒頭の家の描写など大事なところで決して外さないからこそ、多少せわしないシーンがあっても視覚的な充実度が非常に高いのだ。ペネロペ・クルスの迫真の大芝居(彼女が息子の遺影の前で微笑むシーンの静かな感動)も感嘆したし、ラストも、あぁこうやって終わるのか、と思わせてそのまま終わる。映画とはこれだ。



2023年12月28日木曜日

2023年ベスト映画

1. 午前4時にパリの夜は明ける (M・アース 仏)

2. シー・セッド She Said(M・シュラーダー 米)

3. フェラーリ(マイケル・マン 米)

4. ター TAR (T・フィールド 米)

5. すべてうまくいきますように (F・オゾン 仏)

7. ヨーロッパ新世紀 (C・ムンジウ ルーマニア)

9. エンパイア・オブ・ライト (S・メンデス 英)

10. The Holdovers (A・ペイン 米) / EO(イエジー・スコリモフスキ ポーランド)

次点. フェイブルマンズ(S・スピルバーグ 米)
次々点: 君たちはどう生きるか(H・Miyazaki 日)

主演男優賞:マイケル・キートン(『ワース 命の値段』)
主演女優賞:ソフィ・マルソー(『すべてうまくいきますように』)
助演男優賞:メルヴィル・プポー(『それでも私は生きていく』、『マイ・ブラザー』)
助演女優賞:ヴァレリー・ドレヴィル(『サントメール ある被告』)

※ フェラーリとThe Holdoversはアメリカで鑑賞。フェラーリは遂にこういうレース映画がつくられるようになったか、と思った。全然痛快じゃない。スピードにとりつかれた人類史の悲惨。

今年はこの一本!というものはなく、考えるたびに順番が変わりそう。

旧作では、スクリーンで見た『若草物語』、『脱獄の掟』、『ザ・ドライバー』が良かった。またMUBIで見たグザヴィエ・ボーヴォア『若き警官』が素晴らしかった。あとはメルヴィルの『仁義』、これもオールタイムベストの一本だ。




2023年12月22日金曜日

若草物語(1933)

 (Dryden Theater 35mm)

すごいシーンが少なくとも3つある。

・父が帰ってきたシーンで、病床のベスが立ち上がってふらつきながら父のもとへと歩み寄るショットだ。直前に他の姉妹が父と抱き合う場面を映し、カットを割ってカウチから立ち上がるベスのフルショット。そのままカメラが後退しながら、前方へ歩み寄るベスをフォローする。父が画面内に入り込んだところで、抱擁。

・ベスの臨終のシーン。鳥!

・終盤近く、キャサリン・ヘップバーンが食卓から玄関へと進む瞬間、カットが割られて、カメラは玄関口に置かれる。ヘップバーンが玄関の方へと一人寄ってきて、壁際の死角に隠れて、亡きベスへ向けて言葉を送る。

いずれもおや?っと思わせるカッティングが先行し、そのあとにそのショットの狙いがわかるという構成になっているのだ。

また、終盤でヘップバーン演じるジョーとローリーが2階の部屋で言葉を交わすシーンが、単純な構図・逆構図の切り返しで撮られているが、実は切り返しのショットはこのシーンだけなのではないかと思うがどうか。それぐらいここの切り返しショットが新鮮に映った。

ド名作。観客もみな笑って楽しんでいた。