2024年2月11日日曜日

『世界は時間でできている』、あるいは何が映画を走らせるのか

平井靖史の『世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門』を読む。マルクス・ガブリエルが多元論的な無世界論として展開したスケール相対性、そしてそれら全体を包含するものとしての「世界」の否定の、時間バージョンとでも言うべき哲学書だ。ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』から始まる三冊シリーズは、敵対する理論をこれでもかと詰めた挙句、いつの間にかガブリエル側のロジックを呑んでしまっているというような、キツネにつままれたような読後感もあるのだが、『世界は時間でできている』は、特に自然主義 / 物理還元論的 / ニューロ中心主義的な立場に対して、お互いの関心領域がどのように異なっているのかをかなり丁寧に整理したうえで、スケール相対的な時間論を精緻に展開しているという点で、とても「クリーンな」人文書であり、初めから読み通したうえで第7章の自由意志についての議論を追いかけることで、相当に物事の理解が深まるような気がした。議論の道具は前半にほとんど開陳されており、この記事でも主に前半で展開される議論を追いかけながら、映画の話をしたいと思う。

★マルチ時間スケールの概観 魔人の素材はランプではない

平井が本書で展開するマルチ時間スケールの原理で特に重要と思われるのが、時間相対性だ。物理的な因果律がひたすらに生起しているだけの世界=階層0に対して、時間の幅に差延が生じることによって、量的情報が質的なものへと「折り畳まれ」るようにして、新しい階層が出現する。(本書でも出てくる例にしたがえば、わたしたちの網膜→視覚野システムでは、多数の瞬間的な波を認識できないからこそ、それが赤や緑といった質へと折り畳まれる。これが階層1。)これが人間がクオリアを経験できる理由である、と説明される。
この説明の肝は、「外的な要因によらず、意識現象が出現する」メカニズムを解明する点にある。というのも、本書で魔法のランプのメタファーを使って説明されるように、ランプをこすれば魔人が出てくることは、魔人がランプでできている(魔人の素材がランプである)ことを意味しない。同じように、脳の刺激によって意識経験が起きていることは間違いないにしても、「脳が意識をつくっている」ということにはならない。なぜなら脳という物質が意識の素材になることは考えにくいからだ(これは、マルクス・ガブリエルが『新実存主義』のなかで、脳と心は自転車とサイクリングの関係のようなものだ、と言ってみせたこととも通じるだろう)。そこで、いったい意識、あるいはクオリアの素材とは何なのか、という答えが上記の「内的時間の差異がクオリアの由来」(波の振動を捉えきれない時間スケールによって、情報が折り畳まれる)というものだ。波の波長分の幅しかなかった(階層0の)現在が拡張することによって「赤」の経験が可能になる。ちょうど、1ヶ月の収入を1ヶ月で使ってしまう(いわば1ヶ月という幅の「現在」)人は収入以上のものを買えないが、貯金をすれば(現在の幅を拡張すれば)収入以上のものが買えるようになる、とこれまた秀逸なメタファーが用意されている。この調子で、内的時間の差異によってより高次元の階層が一つ一つ説明されていくのが本書の大まかな流れである。

★未完了相 階層のはざまで

このマルチ時間スケールの議論の白眉は、第二章で説明される、階層1から階層2が生成する際に、その階層の狭間において、アオリスト相に加えて未完了相が生成するという「創発」だろう。いきなり言っただけではなんのことだかわからないが、第二章のタイトルはずばり「どうすれば時間は流れるか」である。先ほどの階層1におけるクオリアの生成は、あくまで一回きりのクオリア体験を説明するに過ぎず、ここで言えば「ド」、「ミ」、「ソ」という音の経験をそれぞれに説明はできても、それがド→ミ→ソという順序を含めた経験は説明できない、というところで、この順序も含めた体験質の場として階層2が召喚される(この説明だけでも普通には理解不能だろう。詳しくは本書を読まれたい)。
しかし、階層2がド→ミ→ソという順番も包含した体験質の場所であるとすれば、ここでの体験はすべて「完了相=アオリスト相」である。ドミソというひとまとまりの経験が、「あった」。それは決して、ドミソ〜♪という(うっとりする)流れの経験にはならない。しかし、その都度の完了を意味するアオリスト相ではなく、「〜しつつある」という未完了相の次元こそが、活き活きとした体験を可能たらしめているのではないか、というところで、階層1と階層2のはざまで、未完了相という文法の生成が起こっていることが説明される。
「どうすれば時間が流れるか」というタイトルを見たとき、思わず『何が映画を走らせるのか』(山田宏一)を想起してしまったが、この主題はまさしく、何が映画体験を、音楽体験を、あるいは絵画体験を生き生きとしたものにするのかということに通じるものである。逆に言えば、通常の体験のほとんどは階層2に回収されてしまっているように思われる。しかし時に人は階層1と2のはざまで、あられもなく現前する未規定の何事かを、「宙吊り」の現在として、ミラン・クンデラであれば「緩やかな流れ」と呼ぶような体験を持ちうるのではないか。

★ボトムアップに抗する相対主義

時間という点に限定しなければ、生物内に異なる階層があることで複雑な概念形成や自由が可能になっているという立論は、たとえば生理学者デニス・ノーブルの議論と非常に似ている(『生物学的相対性 命の調べのダンス』)。つまり、生命には、ゲノム、細胞、組織、身体と異なる階層が組み込まれており、各階層には各々の秩序があり、それらの階層ごとの違いが複雑に絡み合うことで生命現象が生まれており、これは(ノーブルが批判する)社会的ダーウィニズムにおける、「生命現象は利己的な遺伝子によって決定されている」というようなボトムアップ的なそれと鋭く対立する、トップダウンの理路を形成する。実際、本書でも平井は、マルチ時間スケールは、トップダウンの道筋に対しても開かれていることを明言している。
このような、「相対主義なんだけど独我論ではない。実在論なんだけど還元主義ではない。」というような論理展開は、マルクス・ガブリエルの意味の場の存在論のみならず、上記のデニス・ノーブルや、リサ・フェルドマン・バレットのような優れた自然科学者の側からも提起されつつあるように思われる。


★映画が未完了相になるとき

さて、「1秒24コマの死」(ゴダール)として生まれた映画(モーション・ピクチャー)は、文字通り「1秒24コマ」という「客観的な時間」で進行するはずなのであるが、実際には常に変化する「現在の幅」を提示する時間芸術となっていることに気づく。1秒24コマのスケールを人間の視覚系は捉えきれない。捉えられたら、一枚一枚の写真をその都度見分けることができてしまい「動画」にならない、ということもそうなのだが、ここで考えたいのは、やはり階層1と階層2のはざまだ。目の前の出来事を綴っている動画が、「人が歩きました」、「恋人同士がキスをしました」、「路面電車が通過しました」という完了相の体験質を逸脱して、「あぁ、人が歩いている」(例えば『勝手にしやがれ』)、「あぁ、キスをしている」(『汚名』)、「あぁ、路面電車が走っていく」(『ウンベルトD』)という未完了相の次元を獲得する瞬間。本ブログでも述べたように、『若草物語』のいくつかのショット。たとえばベスの臨終の場面において、窓辺に止まった小鳥が羽ばたいてフレームアウトするショットは、まさにベスが「死につつある」という、この強烈な現在を表象してやまない。この「流れ」だ。

★エルミタージュ幻想

デジタルカメラの使用により、90分を1ショットで撮るということを最初に行ったのがアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』(2002)であった。いみじくも、『エルミタージュ幻想』は、エルミタージュ美術館のなかをカメラが巡る過程で、エカテリーナ大帝の時代のエピソードや現在の美術館を訪れた人々の描写が入り乱れ、まさに時間の迷宮の様相を呈しているのだから、ソクーロフの芸術理解というのは当時から驚異的なものであったことがわかる。
この映画のリバイバル上映を今はなき桜井薬局セントラルホールで見たときの「体験質」は、文字通りぶっ飛んだそれで、まさにスクリーンに映る全ての出来事が、ひたすら「未完了相の現在」として「流れて」いったのを今でも覚えている(その「流れ」を追体験することは叶わないが)。しかも、上映が終わったあとも、その「異様に拡張された現在」は続き、帰り道においてもひたすら目に見えるものが「ワンシーン・ワンショット」の続きのような感覚にとらわれてしまい、ほとんど眩暈がするようであった。このような経験は後にも先にもこの時だけだろう。
ここで勘違いしてはいけないのが、1ショット=1つの現在ではないということだ。こうした勘違いをすると、ワンシーン・ワンショットの長回し用いれば、それだけで「拡張された豊かな現在」が生成すると思われてしまうし、現にそういう勘違いをしているとしか思えない駄作もよく見かける。必ずしも「長く回せば」豊かな時間=良いショットが生まれるわけではない。
何かふとしたタイミングで、おおっと思わせるようなショットが「持続」することによって、それまで予定調和的に進行していたストーリーが、逸脱した固有の現在性を持ちうるときこそが、豊かな持続なのだ。私がこのサイトで色々と指摘しているのは、突き詰めればみなそうした「多様な現在」を拾い集めているということになるだろう。そして結局のところ、それはワンショットである必要はない。まさにショットの連なりとして映画は現在形/未完了相の時間を生きることができる。


★映画における過去
第三章で、人間が記憶を想起する際の心的なメカニズムについて説明している箇所では、階層2で得た体験質同士の関係性がそれ自体で質的情報として保存(?)されているため、それを手がかりに過去の経験を想起することができるというふうに読める。この、過去の記憶にはそれぞれ固有の色合いやニュアンスが付随している(ゆえに過去の経験を、検討をつけながら想起することができる)という説はとても面白い。これと関連して、映画における「フラッシュバック=過去の回想」について考えてみるのも面白いだろう。映画で過去の回想シーンが流れる場合、「Three years ago...」と直接的な字幕表示が出ることもあるが、例えば画面の色調を過去と現在のシーンで使い分けることによって、表示せずとも「これは過去のシーンだな」とわかるような工夫がされていることが多い。
最近で言えば、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』において、「このように提示される映像は回想である」という観客の「常識」を逆手に取った構成を取っていたことが記憶に新しい。
より作家性が増して、再帰的な映画作品になってくると、過去と現在の見分けがつかないような構成で、イメージの戯れ的な様相を呈することもあるだろうし、そもそも映像において過去と未来を決めているのは、映像にとって外在的な「物語」に過ぎず、現前するイメージの現前性(豊かな現在性)はアプリオリに決まってはいないといった批評的態度にもつながってくるだろう。

★科学(的手法)の限界、芸術の意義

最後に、本書で展開されるような議論が、どうして自然科学と対立、あるいは対立しつつも共存するのかを考えたい。私が専門とする医学では、対象となる「ある生命現象」に対して、分子生物学的に何が起きているのかを解明することを基本原理としている。「皮膚が赤くなって腫れ上がって痛くて痒い」という現象に対しては、外的ストレスによる細胞のダメージに引き続いて、各種サイトカインが放出され、種々の白血球が遊走してくることによって炎症が増幅し、痒みや痛み、腫れが帰結する、というふうに。自由意志の問題で俎上にあがる脳科学も、基本はこの構造であるだろう。いわば、特定の精神活動に対してfMRIなどの装置を使って、その精神活動に対応する神経活動のパターンを解明していく。あるいは逆に、脳梗塞などの疾患によって特定の神経領域が損傷した患者でどのような精神活動が起こる/抑制されるかを考えるというわけだ。こうした科学的手法に対して多くの限界を指摘することができる。自分がこれまで考えたなかでも、相関を見ているだけじゃないか、とか、観察者の立ち位置による解釈の余地があるじゃないか、といった反論があった。こうした反論はある程度有効だと思ってきたが、科学的知見が深まれば深まるほど、それだけだと弱いな、という気もしていた。たとえば観察者の立ち位置によるバラツキはunbiased anaysisによって相当程度克服されつつある。結局、全てを量的情報に変換してしまえば、ほとんど問題にはならなくなる。本人の主観は量化できないだろう、という反論もあり得るが、これも少し弱い。例えば、将来的に、脳を特定の仕方で刺激することで、過去に経験した香りや気持ち悪さといった情動経験を再現することができれば、それも(一見)解決されてしまうように思われる。
しかしながら、本書が提示するアオリスト相と未完了相の区別は決定的に意味がある。わたしたちが言語で指示する現象は、物理現象であれ、あるいはクオリアであれ、指示しているときにはアオリスト相なのだ。「未完了相」の「いままさに、しつつある」という、この「流れ」は、フッサール=ザハヴィのいう「区別はできるが分離はできない」という意味で、易々と対象化することができない。対象とするためには過ぎてなければならず、過ぎたあとにはもう流れていないのだから。
いや、そんなものは科学の対象ではないどころか、言葉のあやで勝手に作り上げた妄想だろう、と言われるかもしれない。しかし私は知っている。優れた映画が時に、まさに「ああ、風が吹いて帽子が飛んで、それが落ちて、、」とひたすら流れを羅列することでしかその感動が伝えられないことを。あるいは、本書が第七章の自由意志の問題で述べるように、人生の重大な決定は、一切の過去をひっくるめた複数の時間体験によって自我の変容を被りながら、まさにそうなるべくしてそうなることを踏まえれば、(本書が指摘するように)頻度こそ低いものの、その重要性は科学全体の知見に匹敵すると言っても良い。
マルクス・ガブリエルが「自由とは運命だ。運命を認識したとき、人は自由になるのだ」とNHKのドキュメンタリーで言っていた意味もこれだろう。
人間の行動の多くは科学的に説明可能だし、今後もその領域は増えていくだろう。それは我々がたいていの時間をそのように(連合主義的に)生きているからだ。しかし、面積にすればそれほど大きくはない、人生の局面、局面において、我々は対象化できぬ流れを生きるのだし、そのことを忘れてしまえば、その契機も失われてしまうだろう。

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