・原発の是非を議論する?
原発については様々な視点があると思いますが、単純に「善い、悪い」、あとは「便利、不便」、「安全、危険」などが思いつきます。
で、原発をこのまま維持するのか廃棄するのかっていう事、あるいは野田政権は脱原発依存を宣言していますので、じゃあいつ全部停めるのかっていう事は、あらゆる視点から考えなければいけない事でしょう。経済のこと、外交のこと、エネルギー資源のことなど、もはや僕のような一般人の手には負えません。
「原発無くてもイケる」かどうかっていうのは、当然のことながらいろいろなデータや数字をもとに決めることですから、これを一般人が議論するのはほとんど不可能と言ってもいいでしょう。
「経済とか外交とか、そういう事じゃなくて、福島の人が土地を奪われてるんだから、こんな非倫理的なもの今すぐやめろ」という意見も目にしますが、僕はこういう人達を説得できる術を持っていません。ただ一つ言えるのは、後述しますが、そんな単純な話じゃないだろう、という事です。
・「国民的大議論」の功罪
何が言いたいかというと、時間軸も含めた、原発維持or脱原発の議論が今日国民的な大議論になっているわけですが、これは果たして良い事なんだろうか、ということです。
別にこれはTPPでも何でも一緒なのですが、「国民的大議論」というものは、結局お互いの理論的欠点がいくらでも出てきてしまうため、精巧な議論など不可能です。
(実際、これは僕自身の話ですが、TPPについて、飯田泰之の話を聞けば賛成になるし、中野剛志の話を聞けば、反対になるわけです笑)
僕などは、賛成意見っぽいことを言った後、専門家の反対意見などを聞くと、自分の無知無学ぶりに情けなくなり、もう二度と意見など表明してたまるか!という気持ちになります。
この「国民的大議論」が生んだものは何だったのかというと、国民の大分裂です。
震災後、多くの人が(擬似的にしろ)一つになり、助け合いの精神を持ち、被災地・被災者の支援に努めました。しかし、次第に原発の事故やそれに伴う隠ぺいの暴露により、国民の関心はいつしか原発事故の状況→首都圏は大丈夫なのか→放射能って何?→原発は停めるべきかどうか→再生可能エネルギーのポテンシャルはどうなのか、という風に推移してきました。
結果的に、多くの人々が再生可能エネルギーに関心を持ち、(いくらか過剰な反応も見受けられるものの)放射線に対する知識を得た事は素朴に良い事だと言っていいのだと思います。
しかし一方で、震災直後に多くの人の中に、少し照れくさい気持ちと一緒に芽生えたあの利他心、あのかけがえのない日常への賛歌はほとんど失われ、原発維持派と脱原発派の不毛な罵り合いが今日まで続いています。
・「国民的大~」
僕たちは何を議論すればいいのでしょうか。
原発の維持or廃炉でしょうか。僕は違うと思います。
原発をそうした経済的合理性とは別の視点から、「反省し合う」事が重要ではないかと思います。
先ほど、「原発は非倫理的なものだからすぐ廃炉だ!」という意見にも触れましたが、なるほど確かに原発は倫理的な危うさを持ったものなのかもしれません。しかし逆に言えば、僕たちは、というか人類は、その倫理的に危険なものを活用することでこれほどの繁栄を得てきたのです。
(これは一意見に過ぎませんが)であれば、僕たちがすべきは、そうした「非倫理的な繁栄」を反省し、そしてそれをある種の苦しみと共に受け入れ、その苦しみと教訓を、次世代につなげていく事ではないでしょうか。あるいは、そういった教訓や苦しみを分かち合う事こそが国民規模で行うに値することなのではないでしょうか。
※国民の政治や経済に関する「未熟な」議論の意義について僕は否定するつもりはありませんが、まだうまく整理が出来ません。東浩紀『一般意志2.0』にそのヒントがありそうなので読もうかと思います。
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