2011年12月7日水曜日

『暇と退屈の倫理学』と「古市問題」

『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)を読んだ。
自分はまだそこまで哲学の見識が深くないため、この「暇」や「退屈」というテーマは非常に新鮮だったがが、一方で、筆者の熱っぽい語り口に先導されながら読み進めるうちに、なるほど、これは誰もが一度は考えた事があり、かつ恐くてそれ以降考えるのを辞めてしまっているテーマなのではないかと感じた。

さて、本書は「暇と退屈」という切り口で非常に多岐にわたる分野に切り込んでいて、その全てを語りつくす暇があれば、本書を直接勧めてしまった方が早いだろう。
そこで、本書終盤の、まさにクライマックスといえる、筆者によるハイデッガー哲学批判とその発展に着目してみたい。

と、その前に、タイトルに掲げた「古市問題」について書こう。

・「古市問題」とは・・・
古市憲寿という、僕の大嫌いな社会学者がいるのだが、その古市氏は近著『絶望の国の幸福な若者たち』において、「若者は不幸というが、本人達は幸せなんだから、幸せなんじゃね?」という、バカでも言える主張を展開しているのだが、その中で震災ボランティアに関して、以下のような趣旨のことを言っている。
若者たちは、村々しつつも(内輪で楽しい日常を享受しつつも)、どこかで「非日常」=刺激を求めてムラムラしていて、東日本大震災はその刺激剤として絶好の材料になった。

これは確かにその通りだろう。震災、ボランティアというものが、一つの「非日常」として出現し、日常に退屈する人々がそれに飛びついたと。
しかし、それだけでいいんだろうか。ボランティアに駆けつけるという行為を、それだけで片づけてしまって、いいのだろうか。僕はそんな事を思っていた。

・退屈の第二形式
恥ずかしながら、ハイデガーなど畏れ多くて(笑)読んでいなかったため、國分氏によるハイデガー解説によって、初めて退屈の三つの形式という概念に触れた。
詳細は省くが、その中で退屈の第二形式というものが出てくる。これは退屈をしのぐための「気晴らし」という行為そのものが、あろうことか退屈に結びついてしまっている状態のことで、例えば、気晴らしに出かけたパーティでおしゃべりや音楽を楽しみながらも、実のところ全体を通して退屈している状態である。

これを國分氏がユクスキュルの理論に依拠しながら批判的に発展させている。

退屈の第二形式とは、一つの環世界から別の環世界へと移動する「環世界移動能力」が大変高い人間において普遍的に見られる、人間らしさそのものである。
つまり、一つの世界に「とりさらわれ」る(=夢中になる)時間が、他の動物に比べて非常に短いたえ、人間は常にいろいろな環世界へと移動しなければいけない。よって、一つ一つの環世界(例えばパーティ)は非常に脆弱であり、この脆弱性をして人間の「退屈」という気分を生んでいるのだ。

そしてハイデガーがこの第二形式を批判したのとは反対に、國分氏はこの第二形式を(上述のように)、人間らしい生のあり方として、むしろ肯定する。

それは単にパーティに行くこと=気晴らしを称賛するのではない。パーティ会場での思わぬ出会いが、日常に「不法侵入」することで、新たな出会いと思考の場を創造し得るという点において、称賛しているのだ。

・震災=不法侵入?
さて、こうして考えると、東日本大震災は、まさに人々の日常に「不法侵入」し、多くの人間達をして、思考せずにはいられなくし、我々を<動物化>させた。つまり、震災が一つの(脆弱ではない)強固な環世界として、我々に出現したのだと。

そう考えると、古市氏の指摘は、こう言いかえることが出来る。

普段の日常生活に突如として「不法侵入」した「震災」に人々は「とりさらわれ」、多くの人間が募金活動やボランティア活動を行った。しかし、それも環世界であることには変わりはなく、いくら強固とはいえ、やがてその綻びを見せ始める。そしてやがて人々は別の環世界に戻ることを決めてしまう。

・これでいいのかwww
さて、古市氏と國分氏の論が見事に呼応してしまった。が、本当にこれでいいのか!!
しかもあろうことか、國分氏はこの<動物化>を称賛しているのだから、ある意味で震災を(動物化の契機として)肯定していると言えなくもない。
しかし、一方で國分氏は最後の最後で次のような文章を記している。

世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちに満ち溢れている。―戦争、飢饉、貧困、災害―私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。(中略)退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考できるようになる。

これを手掛かりにボランティアというものを解釈するならば、それは私たちの、「ぶっちゃけ退屈だけど、幸せな日常」を、震災によって奪われた人々に取り戻させるために、被災地に駆けつけるのだ、という風になるだろう。
もちろん、これは非常に理想的・夢想的な解釈であるが、しかし一人でも多くの人々がこうした精神を持ってボランティアに向かうことが出来たならば、それは大変素晴らしいことだ。
そのためには、一人でも多くの人々が、この日常に積極的な価値を見出さなければならないだろう。
そしてそれを担うのは、パーティも含めた、文化と芸術だと思う。特に、芸術は、それ自体で素晴らしい刺激でありながら、同時に我々のこの日常を称賛する力を持つ。
アルフォンソ・リンギス的に言えば、それは「合理的共同体」とは別の、価値語によって生を聖化する力が出現する、あの共同体である。

・合理的共同体=退屈の元凶?
人はその一生涯において、常に意味にとらわれている。何をするにも、何を見るにも、そこに意味がなければ、「悪いこと」だと考える。例えば別に受験するわけでもないのに、受験勉強をすることは、全く無意味なもので、人間はそうした行為を嫌がる。
つまり、何事も何物も、それが何のためにあるのか、という思考によってそれを理解しようとする。
しかしこの発想を続けるとどうなるか。
なぜ勉強するのか⇒いい大学に入るため⇒というのも就職するため⇒というのも安定した生活を得るため⇒というのも、生き抜くため⇒さて、僕はなんで生きているんだ?
という事に行きつく。つまりそもそも生きている意味など誰も知らないため、結局あらゆる物事は「無意味化」してしまう。これがロジカルシンキングなるものの最大の弱点である。
國分氏の本書では言及されていないが、こういった事も「退屈」に深く関わっていると思う。

つまり、合理的な思考を続ける限り、我々は日常の生を称賛し得ない。
ではどうすべきか。
意味から価値へと移行することだ。意味がなくとも美しいものなど、この世にはいくらでもある。それらの「無意味な美」に出会うことが、人生の醍醐味だとしたら?

つまり、合理性とは別の秩序に支配された、感性の環世界を創造し続けること。これが文化と芸術に与えられた使命であり、我々が日常から享受すべき「幸せ」なのだと思う。

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