2011年12月13日火曜日

『一般意志2.0』について―国民的大議論って・・・?Part2

あずまんの『一般意志2.0』を読んだ。
本書はTwitterなどにおいて、「とてもわかりやすく、かつ明晰な思想書」と評判であるが(また某アルファ・ブロガーがおそらく1ページも読まずに書評を書いたことでも有名だが)、確かに噂に違わぬわかりやすさと明晰さと思想的深みがある。
とりわけ第1章~第3章における、ルソーの思想的矛盾から出発して、それが全く矛盾せぬ事を緻密かた大胆に暴き出し、さらにそのプロセスを通じてルソーという人そのものを浮き彫りにする筆捌きには、ぐんぐん引き込まれる。

さて、本書を読むまえに、僕は以下の記事を書いた。
『国民的大議論って・・・?』http://gattacaviator-yasaka.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html

僕がこの記事で言いたかったのは、要するに、最近世間で大議論を巻き起こしている「原発の是非」や「TPPの是非」に関して、いくら一般人が議論したところで、その議論の精密さは専門家のそれに比べてどうしても低くなってしまうため、ほとんど意味を成さない(あるいは成すべきでない)し、こうした国民的議論が何らかの合意に達することはほとんど無く、国民の分裂を引き起こしているだけではないか、という事である。

「原発の是非」については、この数週間で多少意見も変わったが、しかし一般的に言ってこのような「国民的大議論」といったものについての疑念は払拭できない。

『一般意志2.0』でもそれに近い記述が散見される。特にアーレント、ハーバーマスに対する批判において、非常に重要な事を述べている。
あずまんによれば、アーレント=ハーバーマスのコミュニケーション論あるいは熟議民主主義は、我々が一定程度の文化や生活様式といったコンテクストの共有している事を前提としており、これを手掛かりに議論の落とし所を探るべきだ、というものである。
さて、では我々はアーレント=ハーバーマスが言うように、一定程度のコンテクストを共有しているのであろうか。
あずまんの答えはNoである。僕も全くそう思う。

Twitter上でしばしば繰り広げられる、放射能を巡る論争を見てみればいい。彼らがわかり合うことなど永久に不可能に思える。
これは「クラスタ」という流行語が象徴するように、所属するクラスタによって、交わされる言葉は同じ日本語とは思えないほど異なり、思想・信条(あるいはその有無)などがまるで異なり、お互いのコミュニケーションの機会がほとんど失われているからだ。
また、放射能に関して言えば、これは情報の氾濫によるところが大きいだろう。
というのも、放射能リスクに関して、いわゆる「楽観派」(池田信夫氏、アリソン教授など)の言説だけ拾っていれば、放射能を心配しなくなるし、「慎重派」(菅谷松本市長、児玉氏、あるいはチェルノブイリ関連のニュース)の言説を拾っていれば、すぐさま大きな不安に襲われることだろう。
さて、果たして楽観派と慎重派が合意に達することなどあり得るのだろうか。Twitterを観察する限り、ほとんど0%に近いように思える。

つまり、少なくともこの国で、これ以上国民全体が「理性的な議論の末に合意に達すること」など不可能なのだ。

これ以降の内容の分析は他の書評で出回っている通りだ。あずまんはアーレント=ハーバーマス的な理性=意識と欲望=無意識の関係の概念を転倒し、さらにフロイトの思想を経由することで、可視化された国民の欲望=一般意志2.0を、理性によって乗り越えるものではなく、かといって理性を支配するのでもなく、理性=エリート熟議に制約を加える「モノ」として捉えることを主張している。(ポピュリズムでも選良主義でもない、その両者が組み合わさった新しい政治的コミュニケーション)

平たく言えば、国民は無理して国民的大議論に興じる必要はない(そんな事をしても池田信夫にコケにされるのがオチだ(笑))。むしろ基本的には無意識の欲望の表出をし、自分の得意分野=クラスタにおいてのみ、理性的な対話に挑めば良い、という事になる。

このような政治思想のもと、人々の生活そして社会はいかなるものであるべきか。あずまんはローティの「リベラル・ユートピア」を採用する(レディー・ガガの「みんな違うという点でみんな同じ」というのに近いと思う)。社会=公の場においては、あらゆるイデオロギーが相対化され、普遍的原理は排除されなければならない。そしてそういった理性的なイデオロギーではなく、「想像力」、「憐れみ」によって人々が否応なく(無意識的に)結び付けられることにこそ希望を見出している。

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さて、以上が『一般意志2.0』の概要である。
非常に直感的に考えたものだが、本書への疑問を一つ。

・想像力の暴走
「苦しみに直面した人々を見たら、誰もが憐れみを持たずにはいられない」というローティの思想は果たしてどこまで妥当だろうか。
人の想像力は「憐れみ」だけではない。人はある光景から、自分勝手な物語を構築する動物である。
例えば先日話題になった群馬大学の早川教授。彼は福島の農家がオウムと変わらないと批判した。その論旨は、放射能のリスクや基準値の問題に薄々気付きながらも、農産物を作り、消費者を危険に曝しているというものだ。
つまり、早川教授は、福島の人々が農作物を作る光景を見て、「自分の利益に拘泥して、消費者を危険に曝している」という物語をつくっている。
しかしもちろん、同じ光景を前にして以下のような物語を構築する人達もいるだろう。

「地震と津波による被害だけでなく、放射能による汚染によってその尊厳を傷つけられた人々が、それでも何とかもう一度、農家としての誇りを取り戻そうとしている」と。

つまり、この震災を前にしては、「想像力」や「憐れみ」すらも国民を分裂させるものになってしまっているのではないか。このような現実を前に、我々はいかにして連帯できるというのか。

2 件のコメント:

  1. Twitterにも出現している私ですが、連帯は不可能かと。。。

    「一刻も早い脱原発派」の妻が県外移住を全く想定せず、ストレステストを終わらせ、女川原発周辺30~50Km住民の避難経路を確定させての「再稼働派」の私が県外移住を想定しているのと似ているかもしれません(違?

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  2. 多分、「連帯」って言葉があまりにもあやふやで、空間・時間的にどれほどのものを想定するかで全然違うんだと思います。そもそも僕はローティという人の本を読んだことが無いので全然わかりません。。。ので、最近はあまりこの言葉を使わないようにしています。

    でも多分、普通に震災で家を失くした人を見て、すぐに支援したりとかっていうのも一つの「連帯」と言えるんだと思います。そうした時に、そういう一時的な「連帯感」みたいなものが可視化されて、政治プロセスに影響を及ぼす、みたいな事なのかもしれません。

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