2011年12月21日水曜日

放射能問題についての粗っぽいメモ

仮に、今回の放射線の影響により、癌リスクが数%上がったとして、人はその現実を踏まえたうえで、なおも幸せに生きることができるか。

「風評だ」と言う人間と「実害だ」と言う人間。しかし極端な事を言えば、私たちは毎日のように「ストレス」「事故リスク」「不摂生」といった「実害」に曝されているのではないか。
健康リスクが数%上がることで、その人の「幸福度」は低下するのか。
あるいは風評と実害にどれほどの差があるのか。

おそらく、原発事故の最大の問題は、不当に健康リスクが上昇したことであり、さらに被曝には何のメリットもないことだ。

しかしわからないのが、人々の不安が「健康へのリスクが上昇したのではないか、あるいは将来子供が産めないのではないか」という不安なのか、それとももう少し別の意味での不安やストレスなのか。健康へのリスクは心配していなくても、それでも何かストレスや不安があるとするなら、それは
一体どういうものなのか。それは言語化可能なのか。いろんなものがごちゃ混ぜになってるのではないかと推察する。


仮に、いままで何の害も無いと思われていたものが、実は有害であった事が判明したとして、僕たちはどういう気分になるんだろうか。
科学的に考えれば、知っていても知らなくても健康への被害は当然同じである。じゃあそこにどのような精神的、心理的な差があるのか。


放射能の問題は、多分に認識論的なアプローチが可能なのではないか。
例えば仮に、このような説を立ててみたい。
「人はそれを知っているか否かは別として、様々な有害因子に絶えず曝されている。それでも人は様々な体験を通じて幸せになることができる。我々が幸せなとき、我々はそれらの有害因子を忘れているのではあるまいか」と。
ではこの「忘却」という行為は、果たして『善いこと』なのか、『悪いこと』なのか。あるいは『賢明なこと』なのか『愚かなこと』なのか。このあたり、意見を頂戴したいです。

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