2011年11月13日日曜日

物語についての雑感

『コンテイジョン』という映画を見た。監督はスティーブン・ソダーバーグで、かつて『トラフィック』において麻薬が「ウイルスのごとく」広がっていく様を描いた監督である。
 『トラフィック』は麻薬にまつわる三つのエピソードを描き、それらを決してあからさまにストーリーとしてつなげることなく、あくまで断片的に描くことで逆にその麻薬の広がりの断ち切りがたさ、自動増殖的側面をあぶり出したと言えよう。
 『コンテイジョン』もまたそのような解釈の下で見ることができる。未知のウイルスが発生、パンデミックが起こり、CDCのスタッフが現地調査に向かったり、ワクチンの開発に努めたり、あるいはネット上で支持を集めるブロガーがデマなのか真実なのかもわからないような情報を拡散させたり、あるいは平凡な家庭の家族が死に、残された父娘がサバイブしたり、といったエピソードが、ほとんどつながりもなく描かれ、それぞれがそれぞれのフィールドでやるべきことをやるのみだ。
そして、結局このウイルスは例えばどこかしかの国家が開発した兵器であるとか、そういった陰謀説にいくわけでもなく、結果としてはただウイルスが流行し、やがて鎮まる、というあまりにも「非物語的な」あらすじを辿ることとなる。
これはある意味で、我々観客に突きつけられた痛烈な批判として受け止める事も出来るだろう。ウイルスが発生して多くの人々が死ぬ。普通であれば、我々はその原因を知りたいと願う。なぜならその「原因」を知ることで、我々はその「原因」を「敵」とみなし、恨むことができるからである。
しかし、ウイルスのパンデミックにおいては、誰が悪いわけでもないのだ。ローレンス・フィッシュバーンが映画終盤で握手の起源について語る際に、「ウイルスにもそれくらいはわかってほしい」とつぶやく。しかしウイルスは「悪意」を持ってるわけでもないので、ウイルスを非難したところで何の心の充足も得られない。
こうした「物語なき物語」に、我々は耐えられるのか。あるいは、敵不在の災難(それは地震であり津波であり・・・)において、我々は何をすべきなのか。
この映画には答えがない。映画はひたすらに起こるであろう現象を、極めて客観的な視点で描き、そして例えば薬局で暴動が起きようと、その暴動は何か新しい展開を引き起こすわけでもなく、唐突に始まり、自然に終わる。
こうした暴動、あるいは家宅侵入が、ガラス窓などの媒介物を通して映される。
この物語なき世界においては、絶望しかない。しかもそれはいわゆる『ダークナイト』的な、正義の不在による絶望よりもはるか向こうにある、絶望なき絶望、とでもいうものだ。
こうした起承転結といった大枠不在の、すなわち「大きな物語」が不在の中で光るのが、小さな物語達だ。
『コンテイジョン』における小さな物語とは、例えばマット・デイモンの娘と彼氏のやり取りとその帰結であり、あるいはマリオン・コティヤールが中国の農村の子どもたちに英語を教えている牧歌的なシーンであり、ローレンス・フィッシュバーンとその妻の愛であり、ジュード・ロウが死んだ知人の写真の前で立ち尽くすワンショットであり、ジェニファー・イーリーとその父親の束の間のサイエンス談義である。これらのエピソードはその全てが、彼ら/彼女らの社会的立場とは遠く離れた位置でのエピソードであり、真の人間の交流でもある。
 大きな物語が不在の社会に、真正面からぶつかっていくのは自殺行為だ。
これらの小さな物語にこそ価値を見出すべきなのだ。ただし、これらの小さな物語を享受するためには、もちろん生きていなければ達成することが出来ない以上、ウイルスの致死能力の前では無力だ。死んだらそこで終了だ。
しかしウイルスへの恐怖に対しては有効なはずだ。
社会的な不安が蔓延している今こそ、無数の小さな物語たちに注意を払おう。

しかし、こんなことを言うまでもなく、世の中は小さな物語で埋め尽くされている。では、変革のためには、これらの物語がどうあるべきなのか。
それはおそらく、「大きな物語の不在」とセットに小さな物語が享受されなければならないだろう。大きな物語の不在を自覚せずに、小さな物語に拘泥するのは、単に漫然と過ごしているのと同じだ。
誰もがもう一度大きな物語の喪失を自覚することこそが、まず何よりも大切だろう。

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