2022年5月29日日曜日

リューベン・オストルンド礼賛

2作品連続のパルムドールという結果はさすがにびっくりしたが、何を隠そう、 自分はオストルンド監督のファンである。あの軽妙さ、そして軽薄さ、あるいは胡散臭さがたまらない。

彼はyoutubeで映画のネタを探していることを公言しており、『フレンチ・アルプスで起きたこと』のエピローグは、こちらの学生の動画をそのまんまパクっている。


https://www.youtube.com/watch?v=y-nkUnAcZtA


また、これは映画には使っていないと思うが、彼が「不安から喜びへの感情の動きを追体験できる美しい動画」として紹介していた動画がこちら。
https://www.youtube.com/watch?v=ebtGRvP3ILg



改めてみたら思わず泣きそうになってしまったが、このような人間性への共感が、オストルンド監督にはあるし、このスキージャンプに成功して「しゃーー!!」とはしゃぐ少女は、そのままパルムドール受賞で大はしゃぎするオストルンド自身のようでもあって、つまるところは彼の魅力というのは、あえて芸術家然とせず、「賞が欲しい」、「賞を取ったら嬉しい」という軽薄さを隠すことなく、等身大で映画を生きている、その姿である。それは、映画史を彩る巨匠たちを振り返れば、何ともはしたない身振りかもしれないが、しかし映画が革命を起こすと信じたり、大文字のシネマを希求するような時代ではなくなった今、「ベルイマン派ではない」と公言するオストルンドの、その率直で無邪気な(反ベルイマン的?)身振りが、かえって魅力的に映るのだ。要するにいい奴なのである。


実際、彼の映画について考えているとき、あたかもオストルンド自身が出演していたかのような錯覚をしてしまうことがあるのだが、それも彼の等身大性、軽薄さを隠さない素直さが作品にも現れているからではないだろうか。彼は彼のまま、彼自身も含めて、彼が生きる世界を批判的に描いている。だから彼の映画は面白いし、いつまでも記憶に残る。

『フレンチアルプス~』がアカデミー賞にノミネートされず落ち込む動画

https://www.youtube.com/watch?v=hYTWqLmnjt0



『ザ・スクエア』がノミネートされて大騒ぎする製作陣(『スクエア』の役者達が、『スクエア』のキャラクター達のように大はしゃぎしているという二重性が良い)

https://www.youtube.com/watch?v=fxzajfURC_E


とはいえもちろん、風刺的作品が、いちいち映画祭で「受賞」してしまうという事については、充分注意が必要であろう。そして、かつて『クラッシュ』で退場者を続出させたクローネンバーグが、今回無冠、という事態の方が、映画的には重要な可能性が大いにあるという点も付言しておきたい。
あと、クリスチャン・ムンジウが無冠ってどういうことやねん。いい加減にせい。
(公開が危うい。)




2022年5月22日日曜日

アンラッキーセックス あるいはイカれたポルノ 監督自己検閲版

 監督:ラドゥ・ジューデ

セックスの映像に"censorship = money"と書かれたコミカルな検閲の表示が被さるので、てっきり反スペクタクル志向なのかと思ったが、ベルリンでは検閲なしのセックス映像が流れたらしい、と知ってちょっとガッカリ。というのも、冒頭のほぼ完全に検閲されたセックス映像のあと、ドキュメンタリー調の良くも悪くもダラダラとした映像が続くので、現代のスペクタクル批判として、なかなか巧妙な構成じゃないかと思ったのだ(もちろん、検閲がなくても、映像レベルでの対比の効果を狙ったものには違いない)。まぁとはいえ、作家の意図が何であれ、この「自己検閲版」がそのような映画として「作用」しているのは確かなので、それをそのまま評価したい。実際、第一部の「何も起こらない」映像の数々にはある種の清々しさがあり、同時にこの、あらゆる情報や出来事が、画面に現れては消えていくフラットな背景として社会を覆っている感覚には、現代的な虚無主義の匂いがあり、オストルンドの作品などとも通底するものがあると思う(制止する通行人を轢いてしまう車、舗道に車を止めている男、スーパーの着ぐるみ、家庭での介護、ゲームセンター、看板、カメラに向かって「アソコを舐めて」と言ってくる老婆、、、)。クスっとさせられるものの、それで終わり、という「意味の乏しい」断片性。
ということで、最初からバチバチの雰囲気を漂わせるクリスチャン・ムンジウなんかとはかなり違う作りではあるが、一方で、室内からバルコニーを捉えたショットなどには、ルーマニア・ニューウェーブ的な才気を感じもする。

どのパートも、それだけだったらつまらない、というのをうまいこと三部作としてまとめて、かなりの満足感を得られるつくりになっている。
第三部は純粋な会話劇なのだが、個々人のマスクとかがいちいち気になるなど、視覚的にも飽きないつくりになっている。あと校長が全然味方してくれない感じとか、イライラさせてくれる(笑)
それと、これも自己検閲版ならではだと思うのだが、タブレットの映像に見入るオヤジのショットがあって、タブレットの映像とオヤジの横顔が並列に映っていて、その中間に当の学校教師が苦々しい表情で座っているのだが、検閲版なのでタブレットの映像はでっかくマスキングされている(ちょうどスクリーンの右三分の一がマスキングされている)。
そうすると、当事者からの視線すら意に介さず、映像に見入っているオヤジの下品さが一層際立つというショットになっている。繰り返すが、ベルリンではこれはマスクされていないわけだが、おそらく監督もこの検閲版を作りながら、思わぬ効果を実感したのではないか。

ルーマニア映画を見るたびに、日本の社会状況にとっても似ているんじゃないかと思わずにはいられない。おそらくインフラや行政システムは(蓄積がある分)日本の方がマシなのだろうが、ルーマニア映画がもたらす閉塞感には、他人事とは思えない感覚がある。
(おそらくは加害と被害の多義的な歴史が、全き被害者意識と英雄言説で覆われてしまった言説空間があるのだろう)


2022年5月12日木曜日

ふたつの部屋、ふたりの暮らし(嫌な邦題。『デューDEUX』じゃダメなのか!)

 監督:フィリポ・メネゲッティ

化け物級の長編デビュー作である。ぶったまげた。
法や規範を超えるレズビアンの愛を、まるでミシェル・フランコのような「家族乗っ取り」サスペンスにしてしまう脚本と手腕。
そして豊饒なるイメージの連鎖も素晴らしい。
映画とは、その空間、その時間、そしてそこにある感情を、豊かなイメージと音でもって重層的に画面に定着させていく芸術であるが、この作品はそれを見事に示している。
例えば、、、
・アヴァンタイトルの隠れんぼにおける、あの恐怖感。フランスらしい、プラタナスの美しくも怪しいフォルムを見事に生かした画面造型だ。

・子供が川にボールを落として、それを拾おうとすると、過去のトラウマ的な映像がオーバーラップする。その不吉な予感は洗濯機が回る映像へと転移し、やがて二人の不和へ。

・フライパンが焦げるイメージの多用。悲劇、事件、焦燥。

中盤に物語の主人公が一方から他方へと移る脚本も見事だが、監督は『ナチュラル・ウーマン』を見たのかもしれない。
愛する人の部屋に「潜り込む」ことの「スリル」と「悲哀」は『ナチュラル・ウーマン』と共通している。
バルバラ・スコヴァ演じるニナが、『ELLE』のイザベル・ユペールばりの逸脱行為をする展開も凄いが、その一つ一つが、やはり「隠れて愛し合う」ことの悲哀なのだ。とはいえ、あの窓ガラスへの投石には驚いた。ここまでやるか!素晴らしい!

※ (以下ネタバレあり)
ただし、終盤の帰結には疑問が残る。というのは、最終的にニナの部屋に空き巣が入るのは、これは介護士の母と息子の仕業であることが想像される。この展開は、おそらく最終的にニナがマドレーヌをイタリアに連れていくのを諦めざるを得ない、という帰結にしたかったからだろう。しかし観客としては、このままイタリアに行けるとは到底思えないことから、別にわざわざそんな展開を入れなくても良かったように思う。
介護士のおばさんもだいぶいい顔をしており、この役柄をこういう使い方するのはちょっともったいない気がした。

あるいは、全体として、映画の見事さとは別に、この二人の愛のかたちの激しさ、プラトニックな感じ自体がどうなのかという論点はありそうではある。


2022年5月9日月曜日

ハンド・オブ・ゴッド The Hand of God

 監督:パオロ・ソレンティーノ

ソレンティーノは『Youth/グランド・フィナーレ』しか見ていないのだが、同じような感想を持った。つまり、すごく良い映画な気もするし、なんか騙されてるような気もするし、という感じである。
断片的な面白さによって駆動されているものの、その「面白さ」が割と一発芸的というか、ハッタリ的面白さに頼り過ぎなんじゃないかと。本作でいえば巨漢のカップルだとか、口の悪い婦人だとか、恒例のナイスバディな女性だとか、見るものを捉えはするが、どこか白々しい。
自伝的な映画ということで、アルモドバルの『ペイン・アンド・グローリー』にも通じるところがある。しかし『ペイン・アンド・グローリー』ほどのイメージな豊穣さがあるかというと、これは好みの問題でもあろうが、上記の感想になってしまう。

とはいえ、力のある映画だ。一発芸的と書いたが、その一発芸が大いに笑える。主人公の母親が「やたらイタズラ好きである」という、身もふたもない性格設定がまず面白い。アパートの住人に映画プロデューサーの広報に成りすましてイタズラ電話をするのだが、一切のフォローもなく、「そういう人」として処理されている。
彼女が夫の不倫が続いていることを知って大声で絶叫する場面が、ベルイマンの『ファニーとアレクサンデル』を想起させる「母の号泣」であるが、少しやり過ぎではないか。

おそらくドローンを多用していると思うのだが、ほとんどのシーンで必要性を感じなかったのが辛い。特にオープニングのナポリを一望してみせるショットも、これ見よがしで鼻白むし、兄弟達が病院まで車で急行する場面も、俯瞰の横移動というドローンならではの撮影をしているが、効果には疑問を感じる。タイトルはマラドーナの伝説のゴールだが、映画監督、そして運命といった意味合いも込められているのだろう。しかしこうしたこれ見よがしなドローン撮影は、ずいぶん慎ましさを欠いた「神」ではないか。

ナイスバディな女性として、序盤からかなり目立った活躍をみせるパトリツィア(ルイザ・ラニエリ)であるが、終盤は精神病棟に収監され、悲しみが際立つ。
主人公と彼女が病室で対話する場面では、入り口付近に座る少年と窓際に座る彼女との、美しい切り返しで見せたあと、彼女が少年の隣に来て、横並びに座って語り合う。彼女が静かに涙を流すショットが素晴らしい。また、その後、再び会いに来たシーンでは、電池をベランダから投げて、そのまま姿を消してしまう。

タバコの密輸をやってる男との交流も、短いながら面白く印象的だが、個人的には映画監督との5分ぐらいのシークエンスが良かった。夜明け前の薄暗い光のなか、「思ってることを言ってみろ!」と映画監督が叫ぶ、その光景が端的に美しい。




2022年5月3日火曜日

アナザー・ラウンド

 監督:トマス・ヴィンターベア


 男性教師4人が、お酒の力を借りて、停滞した人生をもう一度輝かせようと試みる映画。
「もう一度あの輝きを」という男性映画はそう珍しくないが、「お酒の力で」というのは珍しいかもしれない。もちろん現実に、ちょっと酒を飲んだからって、いきなり面白い講義ができるほどハッスルできるとは思わないが、しかしフィクションとして、酒の力を借りた彼らが展開する講義はちょっと面白い。マッツ・ミケルセンが語るリーダーの資質の話(酒もたばこもやらない健康な人間が、実はヒトラーだった。「現実は思い通りに行かない」)、音楽教師は部屋を暗くして手をつながせて合唱させることで、一体感を生むことに成功する(デンマークの賛歌を唄わせるのは皮肉だろうか)。こうした講義の内容も含めて、彼らが渇望している、失われたイメージを形作っていく。
 後半はかなり厳しい展開だ。4人のうち1人が、悲劇の運命をたどる。酒によって人生が狂ったのではなく、むしろ酒が、人生の耐えられぬ空虚を曝け出してしまったとも言うような感じであるが、その描写は美しくもそっけない。このあたりの、哀しみや苦しみを描き過ぎないセンスというのが良いと思う。
また、マッツ・ミケルセンの方は、酒のせいで家庭を壊してしまう。しかしこれもまた、酒によって分断が明らかになってしまったと言って良いだろう。酒は、束の間、分断を埋める(キャンプでの涙のセックス)のだが、その効果は持続しないわけだ。
と、厳しい展開を置いたうえで、なぜか最後は華麗なダンスをシャープなカッティング・イン・アクションで決めてしまう。色々意見はあろうが、映画とはこうあるべきなのかもしれない。観客を信じればこその帰結なのかもしれない。

序盤の、ソフトフォーカスの手持ちカメラで、人物の配置を動かしていく演出は、さすがドグマ系というべきもので、2022年になると、ただ普通に巧い。
ライティングは全体的にローキーだが、キャンプでの光は綺麗だ。レストランで、妻が立ち去ってしまったあとのミケルセンの横顔の逆光なんかは、どうにも品のないショットでうんざりするが、これは佳作でしょう。