監督:ジェニファー・ケント
出演:アイスリング・フランシオシ、バイガリ・ガナンバル、サム・クラフリン
★ 目覚める
映画はまずクレアが夫であるエイデンに起こされる、そのクローズアップで始まる。目を開けると、そこにはエイデンがいる。さらにショットがフルショットに切り替わると、横で赤ん坊が眠っているのがわかる。
本作では、眠ったり、あるいは気絶したクレアが目を覚ますシーンが幾度となく出てくる。自宅でイギリスの兵士らに襲われ、気絶させられたあとに目を覚ますと、赤ん坊と夫の死体が目に入ってくる。彼女がアボリジニのガイドであるビリーとともに森を進んでいく過程では、森の汎神論的なイメージの中で彼女は何度も悪夢を見る。この悪夢は、死んだ夫や兵士が顔のほとんど見えないぐらいの暗い影として現れ、声がこだまして、彼女をじりじりと苦しめるのだが、そんな悪夢にうなされる彼女をビリーが揺り起こすシーンがある。また、終盤では悪夢と現実がない交ぜになったまま、彼女が川へ落下するシーンがあるが、その後に彼女が目覚めると、今度はブラックバード(ビリーを象徴するマンガナ)が彼女のもとへ現れる。悪夢にうなされる、そこから目覚める、という展開を繰り返しながら、彼女の旅は続く。木々が生い茂り、星が輝き、月が怪しく光る空が、彼女の暗い旅を見つめる。
★ 銃の扱い
クレアは復讐にとりつかれたまま、英国兵士を追っていく。そこで偶然、赤ん坊を殺した臆病な男に遭遇する。そしてとうとう追い詰めた先で、彼女はショットガンを放つ。が、銃筒を支えきれず、銃弾は足に当たる。もう一発撃とうとするが、引き金を引いても弾は出ない。その自分の頼りなさ、みじめさを痛感するように、彼女は叫び、ナイフで兵士を刺し、銃で顔を殴り続ける。このときのクレアは復讐を遂行する女ではなく、「復讐すらまともに出来ぬ」みじめさを痛感する一人の人間である。人を殺める重み、家族を殺された喪失感、そして自分への失望がない交ぜになった彼女の叫び、血に染まる顔。ここは本作で最も重要かつエモーショナルなシーンだ。
結局彼女は二度と銃を発砲しないだろう。最大の目的である中尉を見つける場面でも、彼女は発砲を躊躇して逆に撃たれてしまう。彼女が唯一撃った弾は、虚しく下に逸れたその一発だけである。さて、もう一人、銃を扱えない人間が出てくる。それが、英国兵士に仕える少年エディだ。
彼は威勢のよさを買われて、中尉から銃の使い方を習うが、ビリーを撃つよう命じられた場面で、彼もまた銃筒を支えて切れず、上へと弾を逸らしてしまい、ビリーは一命をとりとめる。彼もまた、自分のふがいなさに思わず泣きじゃくるだろう。
その顛末も含めて、ちょっと異例の存在といえるこの少年エディは、その臆病さにおいて、いやむしろ、未だ人間性を失っていない人間として、クレアと秘かに通じているのだ。それに対して、見事に銃弾を命中させる白人達との対比は明らかである。
★森と街
本作は、村から森に入り、そして街に出て、一度森に戻って、また街へ行く、という順番で、主人公二人の旅路と英国兵士団の道程を並行して描く構成になっている。
上述したように森は、悪夢と現実がない交ぜになり、死者の声がこだまし、木々が人々を俯瞰し、月が怪しく輝き、精霊が鳥となして現れる、汎神論的なイメージとともに描かれる。この森においては、アボリジニが圧倒的優位に立っている。ビリーは足痕から英国兵士たちの行く先を正確に推測し、また先に待つ危険を素早く察知して身を隠す。ビリーが姿を消すと、途端に不安になって周囲を探し回るクレアの描写はそれと対をなしている。
ところが、終盤、ローンスセストンの街に到着すると、今度はクレアがその大胆さを存分に発揮する。兵士達の元へ堂々と歩んでいき、中尉の悪行を大佐の前で告発するのだ。その姿を、ビリーは身を隠しながら窓越しに、恐る恐る見つめる。ここでは完全に、クレアの方が優位に立ち、ビリーをガイドするのである。
環境によって、人物たちの優位性が変化していく、相互依存的、相互扶助的な関係性も本作の魅力のひとつだろう。
(ところで、上記のクレアが兵士達を前に中尉を告発するシーンの直後に、玄関先で倒れるのだが、その後ろ姿を捉えたショットが素晴らしい。)
★横に並んで歩く
映画の多くの場面が、ビリーとクレアの森を進んでいく旅路を描いているが、二人が横に並ぶことは少ない。例えば森の入り口の場面では、クレアはビリーを警戒して、銃を構えながらビリーの後ろから馬に乗って進むし、ビリーもまた、衝動的に突き進むクレアを追わずに、別の道を迂回する。また、そもそも「手前-奥」の縦構図で同一画面に収まることも、驚くほど少なく(ゼロではない)、二人を映すショットがカットを挟んで独立していることが多いのだ。これは森のシーンだけではなく、クレアがレイプされるシーンだとか、英国兵士達の道程を描く場面でも、(もちろん徹底的ではないにせよ)複数の人物を画面に収めることよりは、それぞれの人物をカットを割って画面に納めていくスタイルが優先されているように思われる。それはある種の分断なのかもしれないし、もっと身体的な監督のリズムなのかもしれない。だが、どういった意味があるにせよ、以下の理由でこのことは自覚的な演出プランであると確信する。
それが、二人で並んで歩くショットである。ビリーが英国兵士集団に捕らえられることで、クレアとビリーは離れ離れになってしまう。しかし紆余曲折を経て、二人は思いがけぬ再会を果たす。それは、真正面クローズアップの内側からの切り返しでまず描かれるだろう。そしてその次のシーンでは、二人が横に並んで歩くのを真正面からとらえたミドルショットが続くのだ。カットを一回割ったうえで、2ショット続けてこの歩く姿が描かれていることから、演出家としての力点がここに託されているのは間違いなく、そもそもこの二人が横に並ぶショットが初めて出てくることは観客も(意識的/無意識的に)気付き、得も言われぬ感動を覚えるだろう。
二人が横に並ぶのを真正面からとらえるショット、というのは、例えばアルモドバルが多用するそれだが、適切なタイミングで、適切なフレーミングの下に出現すると、素朴で普遍的な美しさをもたらす。
★太陽
ラストは日の出で終わる。ちょうど早朝にクレアが目を覚ますショットで始まることを考えれば、ある種の円環構造になっていると言えるだろう。日の出とともに始まり、悪夢の夜を通り抜け、もう一度朝を迎える、という構造である。彼女が最後に太陽を見つめながら歌う歌は、来たる夏に、愛する人と生活していく喜びを歌ったそれである。この太陽は、彼女の未来、新たな"目覚め"と言えるかもしれない。そしてそれをまた、ビリーも一緒に見ている。彼は銃弾に倒れ、死にかかっている。彼は太陽を見つめて、「太陽、俺の心臓」とつぶやく。彼は視線の先に、何を見ているだろうか。太陽は、多くの暴力、死を目撃した二人の瞳を癒すように、照らしているようにも見える。それは、『硫黄島からの手紙』で二宮和也に照った夕陽のようでもある。
★ハリエット
同じタイミングで、シンシオ・エリヴォ主演の『ハリエット』を見た。
『ナイチンゲール』が、英国兵士に支配され、家族を奪われたアイルランドの女性とアボリジニの男性の旅路を描いた作品であるとすれば、『ハリエット』は白人の奴隷として自由を奪われ、家族を失った黒人女性のハリエットの旅路を描いた作品である。驚くべきことに、『ハリエット』もまた、ミンティ=ハリエットが、"目覚める"シーンで始まる。また、ミンティ=ハリエットは頭部外傷の後遺症で、突然睡眠発作に襲われ、そのまどろみのなかで、神の声を聴きそれに導かれて、森を駆け抜けていくのである。
また、ハリエットが善人の助けで草原に出て、街を目指すシーンでは、太陽が彼女の瞳を照らし、彼女もその太陽を見つめる(よりエンターテインメント性の高い『ハリエット』では、この太陽は端的に"希望"と言って差し支えないだろう)。
他にも支配者側の卑屈な所有欲を暴き立てる点や、二人とも特別な歌声を持っていること、街と森を行き来する構造、川を渡る場面が重要な転換点になっている点など、『ナイチンゲール』と『ハリエット』の共通項は驚くほど多い。
ただ、『ハリエット』が雄大なロングショットと見事な伴奏曲で、(ややサスペンスを欠きつつも)一流の娯楽作として魅せるのに対し、『ナイチンゲール』はスタンダード・サイズで、あえて視野を狭く取りつつ、視点とイメージによって空間を拡張していきながら、陰惨さとユーモアを多義的に露呈していく凄みがある。
ここ数年で随一の傑作と言っていいのではないか。
0 件のコメント:
コメントを投稿