2016年3月14日月曜日

オデッセイ

監督:リドリー・スコット

クライマックスである「アイアンマン作戦」が面白いのは、あれだけやめろやめろと言われていた作戦であるにもかかわらず、ほとんどどさくさにまぎれてマット・デイモンが勝手に始めたあげく、案の定コントロールが難しくて苦戦するからだ。
ずいぶん生真面目に計画を練っていた最後の最後で、こういうお茶らけたクライマックスを用意しつつ、オレンジ色のロープを使った美しい「再会」を直後に描くことが、この映画を「映画らしく」している。

だが一方で、この映画のほとんどのシーンは、全てにおいて「首尾よく」、「要領よく」、「適切に」物事が進行していく。そのご都合主義は決して映画的なそれではない。
登場人物はみな頭が良く、コミュニケーション能力が高く、プレゼンテーション能力が高い。
要するに、グローバル・エリートだ。
宇宙力学課の物理学者が、NASAの首脳陣を前に自分の考案したアイデアを披露するシーンは、さながらTEDxのプレゼンテーションだ。
なんとさわやかで快活なこと。
申し訳ないが、私はそんなものを見に映画館に来ているわけではない。


この映画もまた、『ソーシャル・ネットワーク』であり、『ラッシュ/プライドと友情』であり、『ザ・ウォーク』である。
大量のナレーションが手際よく並べられ、タイミング良くリアクションショットが加わる。「軽快な編集」の寄せ集め。それはさながら映画全体が「プレゼンテーション」になってしまったかのようであり
(いやもちろん映画とはRe-presentationなのだからそうした要素があるのは当然としても)、もはやその高度に科学的で専門的なナレーションの内容が本当に理解できているのかどうかもわからぬまま、「細かいことは良くわかんないけど、とにかくカッコいいからオッケー!」な気分だけが生まれる。こうした映画に対して投げられる賛辞とは大体が「スピード感」だの「軽やかさ」だのといった言葉で飾られたものばかりである。濁りがなく、引っかかるものが何一つない。
あるいは、何か見ている間中、ずっと何かのCMを見せられているような気分にすらなる。

これはやっぱり問題だと思うが、どうかね?

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