仮に、今回の放射線の影響により、癌リスクが数%上がったとして、人はその現実を踏まえたうえで、なおも幸せに生きることができるか。
「風評だ」と言う人間と「実害だ」と言う人間。しかし極端な事を言えば、私たちは毎日のように「ストレス」「事故リスク」「不摂生」といった「実害」に曝されているのではないか。
健康リスクが数%上がることで、その人の「幸福度」は低下するのか。
あるいは風評と実害にどれほどの差があるのか。
おそらく、原発事故の最大の問題は、不当に健康リスクが上昇したことであり、さらに被曝には何のメリットもないことだ。
しかしわからないのが、人々の不安が「健康へのリスクが上昇したのではないか、あるいは将来子供が産めないのではないか」という不安なのか、それとももう少し別の意味での不安やストレスなのか。健康へのリスクは心配していなくても、それでも何かストレスや不安があるとするなら、それは
一体どういうものなのか。それは言語化可能なのか。いろんなものがごちゃ混ぜになってるのではないかと推察する。
仮に、いままで何の害も無いと思われていたものが、実は有害であった事が判明したとして、僕たちはどういう気分になるんだろうか。
科学的に考えれば、知っていても知らなくても健康への被害は当然同じである。じゃあそこにどのような精神的、心理的な差があるのか。
放射能の問題は、多分に認識論的なアプローチが可能なのではないか。
例えば仮に、このような説を立ててみたい。
「人はそれを知っているか否かは別として、様々な有害因子に絶えず曝されている。それでも人は様々な体験を通じて幸せになることができる。我々が幸せなとき、我々はそれらの有害因子を忘れているのではあるまいか」と。
ではこの「忘却」という行為は、果たして『善いこと』なのか、『悪いこと』なのか。あるいは『賢明なこと』なのか『愚かなこと』なのか。このあたり、意見を頂戴したいです。
2011年12月21日水曜日
2011年12月13日火曜日
『一般意志2.0』について―国民的大議論って・・・?Part2
あずまんの『一般意志2.0』を読んだ。
本書はTwitterなどにおいて、「とてもわかりやすく、かつ明晰な思想書」と評判であるが(また某アルファ・ブロガーがおそらく1ページも読まずに書評を書いたことでも有名だが)、確かに噂に違わぬわかりやすさと明晰さと思想的深みがある。
とりわけ第1章~第3章における、ルソーの思想的矛盾から出発して、それが全く矛盾せぬ事を緻密かた大胆に暴き出し、さらにそのプロセスを通じてルソーという人そのものを浮き彫りにする筆捌きには、ぐんぐん引き込まれる。
さて、本書を読むまえに、僕は以下の記事を書いた。
『国民的大議論って・・・?』http://gattacaviator-yasaka.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html
僕がこの記事で言いたかったのは、要するに、最近世間で大議論を巻き起こしている「原発の是非」や「TPPの是非」に関して、いくら一般人が議論したところで、その議論の精密さは専門家のそれに比べてどうしても低くなってしまうため、ほとんど意味を成さない(あるいは成すべきでない)し、こうした国民的議論が何らかの合意に達することはほとんど無く、国民の分裂を引き起こしているだけではないか、という事である。
「原発の是非」については、この数週間で多少意見も変わったが、しかし一般的に言ってこのような「国民的大議論」といったものについての疑念は払拭できない。
『一般意志2.0』でもそれに近い記述が散見される。特にアーレント、ハーバーマスに対する批判において、非常に重要な事を述べている。
あずまんによれば、アーレント=ハーバーマスのコミュニケーション論あるいは熟議民主主義は、我々が一定程度の文化や生活様式といったコンテクストの共有している事を前提としており、これを手掛かりに議論の落とし所を探るべきだ、というものである。
さて、では我々はアーレント=ハーバーマスが言うように、一定程度のコンテクストを共有しているのであろうか。
あずまんの答えはNoである。僕も全くそう思う。
Twitter上でしばしば繰り広げられる、放射能を巡る論争を見てみればいい。彼らがわかり合うことなど永久に不可能に思える。
これは「クラスタ」という流行語が象徴するように、所属するクラスタによって、交わされる言葉は同じ日本語とは思えないほど異なり、思想・信条(あるいはその有無)などがまるで異なり、お互いのコミュニケーションの機会がほとんど失われているからだ。
また、放射能に関して言えば、これは情報の氾濫によるところが大きいだろう。
というのも、放射能リスクに関して、いわゆる「楽観派」(池田信夫氏、アリソン教授など)の言説だけ拾っていれば、放射能を心配しなくなるし、「慎重派」(菅谷松本市長、児玉氏、あるいはチェルノブイリ関連のニュース)の言説を拾っていれば、すぐさま大きな不安に襲われることだろう。
さて、果たして楽観派と慎重派が合意に達することなどあり得るのだろうか。Twitterを観察する限り、ほとんど0%に近いように思える。
つまり、少なくともこの国で、これ以上国民全体が「理性的な議論の末に合意に達すること」など不可能なのだ。
これ以降の内容の分析は他の書評で出回っている通りだ。あずまんはアーレント=ハーバーマス的な理性=意識と欲望=無意識の関係の概念を転倒し、さらにフロイトの思想を経由することで、可視化された国民の欲望=一般意志2.0を、理性によって乗り越えるものではなく、かといって理性を支配するのでもなく、理性=エリート熟議に制約を加える「モノ」として捉えることを主張している。(ポピュリズムでも選良主義でもない、その両者が組み合わさった新しい政治的コミュニケーション)
平たく言えば、国民は無理して国民的大議論に興じる必要はない(そんな事をしても池田信夫にコケにされるのがオチだ(笑))。むしろ基本的には無意識の欲望の表出をし、自分の得意分野=クラスタにおいてのみ、理性的な対話に挑めば良い、という事になる。
このような政治思想のもと、人々の生活そして社会はいかなるものであるべきか。あずまんはローティの「リベラル・ユートピア」を採用する(レディー・ガガの「みんな違うという点でみんな同じ」というのに近いと思う)。社会=公の場においては、あらゆるイデオロギーが相対化され、普遍的原理は排除されなければならない。そしてそういった理性的なイデオロギーではなく、「想像力」、「憐れみ」によって人々が否応なく(無意識的に)結び付けられることにこそ希望を見出している。
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さて、以上が『一般意志2.0』の概要である。
非常に直感的に考えたものだが、本書への疑問を一つ。
・想像力の暴走
「苦しみに直面した人々を見たら、誰もが憐れみを持たずにはいられない」というローティの思想は果たしてどこまで妥当だろうか。
人の想像力は「憐れみ」だけではない。人はある光景から、自分勝手な物語を構築する動物である。
例えば先日話題になった群馬大学の早川教授。彼は福島の農家がオウムと変わらないと批判した。その論旨は、放射能のリスクや基準値の問題に薄々気付きながらも、農産物を作り、消費者を危険に曝しているというものだ。
つまり、早川教授は、福島の人々が農作物を作る光景を見て、「自分の利益に拘泥して、消費者を危険に曝している」という物語をつくっている。
しかしもちろん、同じ光景を前にして以下のような物語を構築する人達もいるだろう。
「地震と津波による被害だけでなく、放射能による汚染によってその尊厳を傷つけられた人々が、それでも何とかもう一度、農家としての誇りを取り戻そうとしている」と。
つまり、この震災を前にしては、「想像力」や「憐れみ」すらも国民を分裂させるものになってしまっているのではないか。このような現実を前に、我々はいかにして連帯できるというのか。
本書はTwitterなどにおいて、「とてもわかりやすく、かつ明晰な思想書」と評判であるが(また某アルファ・ブロガーがおそらく1ページも読まずに書評を書いたことでも有名だが)、確かに噂に違わぬわかりやすさと明晰さと思想的深みがある。
とりわけ第1章~第3章における、ルソーの思想的矛盾から出発して、それが全く矛盾せぬ事を緻密かた大胆に暴き出し、さらにそのプロセスを通じてルソーという人そのものを浮き彫りにする筆捌きには、ぐんぐん引き込まれる。
さて、本書を読むまえに、僕は以下の記事を書いた。
『国民的大議論って・・・?』http://gattacaviator-yasaka.blogspot.com/2011/11/blog-post_23.html
僕がこの記事で言いたかったのは、要するに、最近世間で大議論を巻き起こしている「原発の是非」や「TPPの是非」に関して、いくら一般人が議論したところで、その議論の精密さは専門家のそれに比べてどうしても低くなってしまうため、ほとんど意味を成さない(あるいは成すべきでない)し、こうした国民的議論が何らかの合意に達することはほとんど無く、国民の分裂を引き起こしているだけではないか、という事である。
「原発の是非」については、この数週間で多少意見も変わったが、しかし一般的に言ってこのような「国民的大議論」といったものについての疑念は払拭できない。
『一般意志2.0』でもそれに近い記述が散見される。特にアーレント、ハーバーマスに対する批判において、非常に重要な事を述べている。
あずまんによれば、アーレント=ハーバーマスのコミュニケーション論あるいは熟議民主主義は、我々が一定程度の文化や生活様式といったコンテクストの共有している事を前提としており、これを手掛かりに議論の落とし所を探るべきだ、というものである。
さて、では我々はアーレント=ハーバーマスが言うように、一定程度のコンテクストを共有しているのであろうか。
あずまんの答えはNoである。僕も全くそう思う。
Twitter上でしばしば繰り広げられる、放射能を巡る論争を見てみればいい。彼らがわかり合うことなど永久に不可能に思える。
これは「クラスタ」という流行語が象徴するように、所属するクラスタによって、交わされる言葉は同じ日本語とは思えないほど異なり、思想・信条(あるいはその有無)などがまるで異なり、お互いのコミュニケーションの機会がほとんど失われているからだ。
また、放射能に関して言えば、これは情報の氾濫によるところが大きいだろう。
というのも、放射能リスクに関して、いわゆる「楽観派」(池田信夫氏、アリソン教授など)の言説だけ拾っていれば、放射能を心配しなくなるし、「慎重派」(菅谷松本市長、児玉氏、あるいはチェルノブイリ関連のニュース)の言説を拾っていれば、すぐさま大きな不安に襲われることだろう。
さて、果たして楽観派と慎重派が合意に達することなどあり得るのだろうか。Twitterを観察する限り、ほとんど0%に近いように思える。
つまり、少なくともこの国で、これ以上国民全体が「理性的な議論の末に合意に達すること」など不可能なのだ。
これ以降の内容の分析は他の書評で出回っている通りだ。あずまんはアーレント=ハーバーマス的な理性=意識と欲望=無意識の関係の概念を転倒し、さらにフロイトの思想を経由することで、可視化された国民の欲望=一般意志2.0を、理性によって乗り越えるものではなく、かといって理性を支配するのでもなく、理性=エリート熟議に制約を加える「モノ」として捉えることを主張している。(ポピュリズムでも選良主義でもない、その両者が組み合わさった新しい政治的コミュニケーション)
平たく言えば、国民は無理して国民的大議論に興じる必要はない(そんな事をしても池田信夫にコケにされるのがオチだ(笑))。むしろ基本的には無意識の欲望の表出をし、自分の得意分野=クラスタにおいてのみ、理性的な対話に挑めば良い、という事になる。
このような政治思想のもと、人々の生活そして社会はいかなるものであるべきか。あずまんはローティの「リベラル・ユートピア」を採用する(レディー・ガガの「みんな違うという点でみんな同じ」というのに近いと思う)。社会=公の場においては、あらゆるイデオロギーが相対化され、普遍的原理は排除されなければならない。そしてそういった理性的なイデオロギーではなく、「想像力」、「憐れみ」によって人々が否応なく(無意識的に)結び付けられることにこそ希望を見出している。
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さて、以上が『一般意志2.0』の概要である。
非常に直感的に考えたものだが、本書への疑問を一つ。
・想像力の暴走
「苦しみに直面した人々を見たら、誰もが憐れみを持たずにはいられない」というローティの思想は果たしてどこまで妥当だろうか。
人の想像力は「憐れみ」だけではない。人はある光景から、自分勝手な物語を構築する動物である。
例えば先日話題になった群馬大学の早川教授。彼は福島の農家がオウムと変わらないと批判した。その論旨は、放射能のリスクや基準値の問題に薄々気付きながらも、農産物を作り、消費者を危険に曝しているというものだ。
つまり、早川教授は、福島の人々が農作物を作る光景を見て、「自分の利益に拘泥して、消費者を危険に曝している」という物語をつくっている。
しかしもちろん、同じ光景を前にして以下のような物語を構築する人達もいるだろう。
「地震と津波による被害だけでなく、放射能による汚染によってその尊厳を傷つけられた人々が、それでも何とかもう一度、農家としての誇りを取り戻そうとしている」と。
つまり、この震災を前にしては、「想像力」や「憐れみ」すらも国民を分裂させるものになってしまっているのではないか。このような現実を前に、我々はいかにして連帯できるというのか。
2011年12月7日水曜日
『暇と退屈の倫理学』と「古市問題」
『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎)を読んだ。
自分はまだそこまで哲学の見識が深くないため、この「暇」や「退屈」というテーマは非常に新鮮だったがが、一方で、筆者の熱っぽい語り口に先導されながら読み進めるうちに、なるほど、これは誰もが一度は考えた事があり、かつ恐くてそれ以降考えるのを辞めてしまっているテーマなのではないかと感じた。
さて、本書は「暇と退屈」という切り口で非常に多岐にわたる分野に切り込んでいて、その全てを語りつくす暇があれば、本書を直接勧めてしまった方が早いだろう。
そこで、本書終盤の、まさにクライマックスといえる、筆者によるハイデッガー哲学批判とその発展に着目してみたい。
と、その前に、タイトルに掲げた「古市問題」について書こう。
・「古市問題」とは・・・
古市憲寿という、僕の大嫌いな社会学者がいるのだが、その古市氏は近著『絶望の国の幸福な若者たち』において、「若者は不幸というが、本人達は幸せなんだから、幸せなんじゃね?」という、バカでも言える主張を展開しているのだが、その中で震災ボランティアに関して、以下のような趣旨のことを言っている。
若者たちは、村々しつつも(内輪で楽しい日常を享受しつつも)、どこかで「非日常」=刺激を求めてムラムラしていて、東日本大震災はその刺激剤として絶好の材料になった。
これは確かにその通りだろう。震災、ボランティアというものが、一つの「非日常」として出現し、日常に退屈する人々がそれに飛びついたと。
しかし、それだけでいいんだろうか。ボランティアに駆けつけるという行為を、それだけで片づけてしまって、いいのだろうか。僕はそんな事を思っていた。
・退屈の第二形式
恥ずかしながら、ハイデガーなど畏れ多くて(笑)読んでいなかったため、國分氏によるハイデガー解説によって、初めて退屈の三つの形式という概念に触れた。
詳細は省くが、その中で退屈の第二形式というものが出てくる。これは退屈をしのぐための「気晴らし」という行為そのものが、あろうことか退屈に結びついてしまっている状態のことで、例えば、気晴らしに出かけたパーティでおしゃべりや音楽を楽しみながらも、実のところ全体を通して退屈している状態である。
これを國分氏がユクスキュルの理論に依拠しながら批判的に発展させている。
退屈の第二形式とは、一つの環世界から別の環世界へと移動する「環世界移動能力」が大変高い人間において普遍的に見られる、人間らしさそのものである。
つまり、一つの世界に「とりさらわれ」る(=夢中になる)時間が、他の動物に比べて非常に短いたえ、人間は常にいろいろな環世界へと移動しなければいけない。よって、一つ一つの環世界(例えばパーティ)は非常に脆弱であり、この脆弱性をして人間の「退屈」という気分を生んでいるのだ。
そしてハイデガーがこの第二形式を批判したのとは反対に、國分氏はこの第二形式を(上述のように)、人間らしい生のあり方として、むしろ肯定する。
それは単にパーティに行くこと=気晴らしを称賛するのではない。パーティ会場での思わぬ出会いが、日常に「不法侵入」することで、新たな出会いと思考の場を創造し得るという点において、称賛しているのだ。
・震災=不法侵入?
さて、こうして考えると、東日本大震災は、まさに人々の日常に「不法侵入」し、多くの人間達をして、思考せずにはいられなくし、我々を<動物化>させた。つまり、震災が一つの(脆弱ではない)強固な環世界として、我々に出現したのだと。
そう考えると、古市氏の指摘は、こう言いかえることが出来る。
普段の日常生活に突如として「不法侵入」した「震災」に人々は「とりさらわれ」、多くの人間が募金活動やボランティア活動を行った。しかし、それも環世界であることには変わりはなく、いくら強固とはいえ、やがてその綻びを見せ始める。そしてやがて人々は別の環世界に戻ることを決めてしまう。
・これでいいのかwww
さて、古市氏と國分氏の論が見事に呼応してしまった。が、本当にこれでいいのか!!
しかもあろうことか、國分氏はこの<動物化>を称賛しているのだから、ある意味で震災を(動物化の契機として)肯定していると言えなくもない。
しかし、一方で國分氏は最後の最後で次のような文章を記している。
―世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちに満ち溢れている。―戦争、飢饉、貧困、災害―私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。(中略)退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考できるようになる。
これを手掛かりにボランティアというものを解釈するならば、それは私たちの、「ぶっちゃけ退屈だけど、幸せな日常」を、震災によって奪われた人々に取り戻させるために、被災地に駆けつけるのだ、という風になるだろう。
もちろん、これは非常に理想的・夢想的な解釈であるが、しかし一人でも多くの人々がこうした精神を持ってボランティアに向かうことが出来たならば、それは大変素晴らしいことだ。
そのためには、一人でも多くの人々が、この日常に積極的な価値を見出さなければならないだろう。
そしてそれを担うのは、パーティも含めた、文化と芸術だと思う。特に、芸術は、それ自体で素晴らしい刺激でありながら、同時に我々のこの日常を称賛する力を持つ。
アルフォンソ・リンギス的に言えば、それは「合理的共同体」とは別の、価値語によって生を聖化する力が出現する、あの共同体である。
・合理的共同体=退屈の元凶?
人はその一生涯において、常に意味にとらわれている。何をするにも、何を見るにも、そこに意味がなければ、「悪いこと」だと考える。例えば別に受験するわけでもないのに、受験勉強をすることは、全く無意味なもので、人間はそうした行為を嫌がる。
つまり、何事も何物も、それが何のためにあるのか、という思考によってそれを理解しようとする。
しかしこの発想を続けるとどうなるか。
なぜ勉強するのか⇒いい大学に入るため⇒というのも就職するため⇒というのも安定した生活を得るため⇒というのも、生き抜くため⇒さて、僕はなんで生きているんだ?
という事に行きつく。つまりそもそも生きている意味など誰も知らないため、結局あらゆる物事は「無意味化」してしまう。これがロジカルシンキングなるものの最大の弱点である。
國分氏の本書では言及されていないが、こういった事も「退屈」に深く関わっていると思う。
つまり、合理的な思考を続ける限り、我々は日常の生を称賛し得ない。
ではどうすべきか。
意味から価値へと移行することだ。意味がなくとも美しいものなど、この世にはいくらでもある。それらの「無意味な美」に出会うことが、人生の醍醐味だとしたら?
つまり、合理性とは別の秩序に支配された、感性の環世界を創造し続けること。これが文化と芸術に与えられた使命であり、我々が日常から享受すべき「幸せ」なのだと思う。
自分はまだそこまで哲学の見識が深くないため、この「暇」や「退屈」というテーマは非常に新鮮だったがが、一方で、筆者の熱っぽい語り口に先導されながら読み進めるうちに、なるほど、これは誰もが一度は考えた事があり、かつ恐くてそれ以降考えるのを辞めてしまっているテーマなのではないかと感じた。
さて、本書は「暇と退屈」という切り口で非常に多岐にわたる分野に切り込んでいて、その全てを語りつくす暇があれば、本書を直接勧めてしまった方が早いだろう。
そこで、本書終盤の、まさにクライマックスといえる、筆者によるハイデッガー哲学批判とその発展に着目してみたい。
と、その前に、タイトルに掲げた「古市問題」について書こう。
・「古市問題」とは・・・
古市憲寿という、僕の大嫌いな社会学者がいるのだが、その古市氏は近著『絶望の国の幸福な若者たち』において、「若者は不幸というが、本人達は幸せなんだから、幸せなんじゃね?」という、バカでも言える主張を展開しているのだが、その中で震災ボランティアに関して、以下のような趣旨のことを言っている。
若者たちは、村々しつつも(内輪で楽しい日常を享受しつつも)、どこかで「非日常」=刺激を求めてムラムラしていて、東日本大震災はその刺激剤として絶好の材料になった。
これは確かにその通りだろう。震災、ボランティアというものが、一つの「非日常」として出現し、日常に退屈する人々がそれに飛びついたと。
しかし、それだけでいいんだろうか。ボランティアに駆けつけるという行為を、それだけで片づけてしまって、いいのだろうか。僕はそんな事を思っていた。
・退屈の第二形式
恥ずかしながら、ハイデガーなど畏れ多くて(笑)読んでいなかったため、國分氏によるハイデガー解説によって、初めて退屈の三つの形式という概念に触れた。
詳細は省くが、その中で退屈の第二形式というものが出てくる。これは退屈をしのぐための「気晴らし」という行為そのものが、あろうことか退屈に結びついてしまっている状態のことで、例えば、気晴らしに出かけたパーティでおしゃべりや音楽を楽しみながらも、実のところ全体を通して退屈している状態である。
これを國分氏がユクスキュルの理論に依拠しながら批判的に発展させている。
退屈の第二形式とは、一つの環世界から別の環世界へと移動する「環世界移動能力」が大変高い人間において普遍的に見られる、人間らしさそのものである。
つまり、一つの世界に「とりさらわれ」る(=夢中になる)時間が、他の動物に比べて非常に短いたえ、人間は常にいろいろな環世界へと移動しなければいけない。よって、一つ一つの環世界(例えばパーティ)は非常に脆弱であり、この脆弱性をして人間の「退屈」という気分を生んでいるのだ。
そしてハイデガーがこの第二形式を批判したのとは反対に、國分氏はこの第二形式を(上述のように)、人間らしい生のあり方として、むしろ肯定する。
それは単にパーティに行くこと=気晴らしを称賛するのではない。パーティ会場での思わぬ出会いが、日常に「不法侵入」することで、新たな出会いと思考の場を創造し得るという点において、称賛しているのだ。
・震災=不法侵入?
さて、こうして考えると、東日本大震災は、まさに人々の日常に「不法侵入」し、多くの人間達をして、思考せずにはいられなくし、我々を<動物化>させた。つまり、震災が一つの(脆弱ではない)強固な環世界として、我々に出現したのだと。
そう考えると、古市氏の指摘は、こう言いかえることが出来る。
普段の日常生活に突如として「不法侵入」した「震災」に人々は「とりさらわれ」、多くの人間が募金活動やボランティア活動を行った。しかし、それも環世界であることには変わりはなく、いくら強固とはいえ、やがてその綻びを見せ始める。そしてやがて人々は別の環世界に戻ることを決めてしまう。
・これでいいのかwww
さて、古市氏と國分氏の論が見事に呼応してしまった。が、本当にこれでいいのか!!
しかもあろうことか、國分氏はこの<動物化>を称賛しているのだから、ある意味で震災を(動物化の契機として)肯定していると言えなくもない。
しかし、一方で國分氏は最後の最後で次のような文章を記している。
―世界にはそうした人間らしい生を生きることを許されていない人たちに満ち溢れている。―戦争、飢饉、貧困、災害―私たちの生きる世界は、人間らしい生を許さない出来事に満ち溢れている。(中略)退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考できるようになる。
これを手掛かりにボランティアというものを解釈するならば、それは私たちの、「ぶっちゃけ退屈だけど、幸せな日常」を、震災によって奪われた人々に取り戻させるために、被災地に駆けつけるのだ、という風になるだろう。
もちろん、これは非常に理想的・夢想的な解釈であるが、しかし一人でも多くの人々がこうした精神を持ってボランティアに向かうことが出来たならば、それは大変素晴らしいことだ。
そのためには、一人でも多くの人々が、この日常に積極的な価値を見出さなければならないだろう。
そしてそれを担うのは、パーティも含めた、文化と芸術だと思う。特に、芸術は、それ自体で素晴らしい刺激でありながら、同時に我々のこの日常を称賛する力を持つ。
アルフォンソ・リンギス的に言えば、それは「合理的共同体」とは別の、価値語によって生を聖化する力が出現する、あの共同体である。
・合理的共同体=退屈の元凶?
人はその一生涯において、常に意味にとらわれている。何をするにも、何を見るにも、そこに意味がなければ、「悪いこと」だと考える。例えば別に受験するわけでもないのに、受験勉強をすることは、全く無意味なもので、人間はそうした行為を嫌がる。
つまり、何事も何物も、それが何のためにあるのか、という思考によってそれを理解しようとする。
しかしこの発想を続けるとどうなるか。
なぜ勉強するのか⇒いい大学に入るため⇒というのも就職するため⇒というのも安定した生活を得るため⇒というのも、生き抜くため⇒さて、僕はなんで生きているんだ?
という事に行きつく。つまりそもそも生きている意味など誰も知らないため、結局あらゆる物事は「無意味化」してしまう。これがロジカルシンキングなるものの最大の弱点である。
國分氏の本書では言及されていないが、こういった事も「退屈」に深く関わっていると思う。
つまり、合理的な思考を続ける限り、我々は日常の生を称賛し得ない。
ではどうすべきか。
意味から価値へと移行することだ。意味がなくとも美しいものなど、この世にはいくらでもある。それらの「無意味な美」に出会うことが、人生の醍醐味だとしたら?
つまり、合理性とは別の秩序に支配された、感性の環世界を創造し続けること。これが文化と芸術に与えられた使命であり、我々が日常から享受すべき「幸せ」なのだと思う。
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