2022年4月28日木曜日

アネット

 監督:レオス・カラックス

 カラックスは『汚れた血』、『ポンヌフの恋人』、『ホーリー・モーターズ』を見ただけというレベルの観客なので、あまり大それたことは言えないのだが、『汚れた血』でドゥニ・ラヴァンが疾走する有名なシーンなど、ヴィジュアルインパクトの大きいアイデアを、絵具をキャンバスにぶちまけるように炸裂させて、ハマればとことん良いけど、ハマんないと退屈、というイメージがある。特にポンヌフの恋人が気に入っている(濱口竜介が選んだ3作品を上映するというせんだいメディアテークの企画で見た)。

で、この『アネット』。2回、思わず涙してしまった。1回目は初っ端。レコーディングと見せかけて、歌いながら歩きだし、キャストが集合して、さぁ行くぜ!という感じで路上に出ていくというワクワクするオープニング。フィクションとは、パフォーマンスとは、そしてパフォーマーとは、なんてカッコいい人達なんだと、いきなり感極まってしまった。ズルいと言えばズルい。そしてラストのアダム・ドライバーと子供の対面での歌唱シーンも、それまで「マリオネット」として表象されていた子供がついに内に秘めた憎悪をぶちまける、その残酷なまでの対決に感動せずにはいられない。

しかし全体として、もっと真面目にミュージカルをやっても良いのではないか。高まりそうなところでフッと終わってしまって、もどかしいシーンが多かった(特に法廷)。
また、海のシーンもちょっとローキーすぎるのではないか。スクリーン・プロセスのやたら高い波に比して、あまり躍動感がなかった印象である。

あるいは、装置と演者の関係が、スタティックな次元にとどまっている。
小道具や装置が、画面を活気づける場面が少なく、人間の動きと歌唱だけが前面化している。たとえばアダム・ドライバーとサイモン・ヘルバーグが対決する場面では、ヘルバーグが座ろうとした椅子をドライバーが取り去って、ヘルバーグがズッコケるのだが、こういう演出がもっとあってしかるべきだろう。

題材と、「パフォーマーのパフォーマーぶり」を中心に持ってくる指向性を含めて、『ドライブ・マイ・カー』の重力圏にいると思うが(「妻を殺した」と独白するドライバーの圧巻のパフォーマンス!)、そういう意味でどちらも上記のごとく、モノとヒトの動的な関係への無関心ぶりが気になって仕方がない。





2022年4月27日水曜日

チタン TITANE

 監督:ジュリア・ドゥクルノー

市橋容疑者みたいな話である。
主役の女がなぜ人を殺しまくるのかが最後まで不明である、という点が良い。その意味で、『プロミシング・ヤングウーマン』の対極を行く映画といっても良い。「理由のある暴力」に溢れた現代映画界では、ことさら新鮮な印象をもたらす。

自身のチタンプレートが埋め込まれているのと同じ部位に、針を突き刺すという「所業」が、それなりにスペクタキュラーで、冒頭からグイっと引き込まれる。鏡を取り入れた構図も良い。
前半は「何をしでかすかわからない」という興味をかき立てながら、上記のような巧妙な絵作りでテンションを持続させることに成功している。
逆に、後半になってヴァンサン・ランドンが率いる消防隊に入ってからの展開はつまらない。”ダンス”がひとつのキーとなっていて、全部で3回、ダンスシーンが出てくる(ヴァンサン・ランドンとのダンス、消防隊員が酒を飲みながら踊るシーン(スローモーション多用)、そして、車庫でのEDM⇒ストリップ風のダンス)。
最近の映画祭受けの良いヨーロッパ映画には、かなりの確率でダンスシーンが出てくる。それぞれにその「意味」するところには微妙な違いがあると思われるが、例えば本作の場合は、ダンス・ナンバーが、それに合わせて踊る人間達の「縄張り」の暗喩になっているのかもしれない。したがって、両性具有的な生を生きる主人公は、そこに居心地の悪さを感じる。
だが、映画全体として、これほどダンスシーンが入るのは、最近では『BPM』ぐらいで、ちょっとバランスが悪すぎるように思うし、それぞれのシーンが大したインパクトを残さず終わってしまうのも残念だ(その意味で、ものの数秒でインパクトを残してしまうリューベン・オストルンドのスマートさを思う)。

このように、「ノリの良い」「理由なき殺人」が影を潜め、ただ居心地の悪さを強めていくのみの後半は明らかに失速しており、それゆえ禍々しく演出されたラストも肩透かし感が強い。というか、これならヴィンチェンゾ・ナタリの『スプライス』の方がよほど「過激」だろう。

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と、つまらないラストシーンをわざわざ「解釈」するのもあまり気が進まないのだが、ラストにはどのような意味があるだろう。
彼女が赤子をついに出産する直前、「父」であるヴァンサン・ランドンは自身の腹部に酒をたらし、そこにライターで火をつける。火は彼の腹部を焼くが、途中で耐えかねて(?)毛布で火を消す。かくして、彼の「お腹」には火傷ができる。
そしてそのまま寝室へ行くと、まさにこれから産まんとする"息子"の姿が。”息子”と信じていた人間が実は"妊婦"であることを知って、反射的に激怒する父であったが、思い直したように、彼女をベッドに寝かせ、分娩を手伝い、やっとの思いで彼女の膣から赤子を引き出す。人間と車の合体産物(ポスト・ヒューマン?)である赤子を産み落とした彼女の腹は引きちぎれ、また彼女はそのまま死んでしまう(ように見える)。
"父"はその赤子を腕に抱え、絶命した母の横で自身も横たわる。
このお産という「腹の焼けるような」経験の直前に、放心したような表情で自身の腹を焼く意味はなんだろうか。
彼は、どこかで彼(女)が、"息子"ではないと薄々感づいているが、心の空虚さを埋め合わせるために嘘をあえて信じているように見える。この父は、現代人の「末路」なのかもしれない。真実から目を背ける迷える現代人が、(腹を焼くことで)産みの苦しみを疑似体験し、男女二元論を超えた、ポストヒューマンの誕生に、手を貸したのだろうか。


2022年4月21日木曜日

第一容疑者 EP9 The Final Act

 監督:フィリップ・マーティン

 2006年の本作をもって、完結。終わり方の潔さに、このシリーズのスピリットが端的に現れているように思う。
 またペドフィリアかよ、という感じがしなくもないし、他のエピソードに比べて脇役の刑事にあまり焦点が当たらないのが残念だし、ヘレン・ミレンの妹(とその娘)の扱いが超ご都合主義だとか、色々問題はあるが、それでも上々の仕上がりではないだろうか。
 
 冒頭から、手持ちのカメラに素早いカッティング、手前に障害物を置いて歪な空間を作っていくスタイルが、2006年、如何にもボーン・スプレマシー以後、という感じがする(知らんけど)が、 しかし特に後半においてはかなりカメラの動きも抑制されているし、時々見られるガラスに街並みが反射したショット、病室の壁紙と日差し、そしてトム・ベルのカムバックとその痛切なまでの姿(この作品が放映される前に病死したというのだから、いっそう身につまされる)。

 トム・ベル、被害者の父、ヘレン・ミレンが、人間としての不完全さを受け止めていく姿が、本筋の展開と共鳴しながら、かなり優しい眼差しの作品として終結しているのではないだろうか。
 各エピソードのスタイルに、それぞれの時代のスピリットがよく反映されたシリーズなので、またじっくり見返すのも楽しみだ。素晴らしかった、ありがとう。

(テレビシリーズというのは、なぜか最後に、ありがとう、と言いたくなる)

2022年4月19日火曜日

オペレーション・ミンスミート

監督:ジョン・マッデン

  ミンスミート作戦を企てたチームが、それほど広くもない暗い地下室で、祈るように電報を待つ。遅い、失敗か、と思っていたそのとき、電報が来て、見事に連合軍がシチリア島を奪還したことが知らされる。作戦室は拍手に包まれ、リーダーのコリン・ファースは大成功ゆえに呆然とその拍手を見つめる。あの戦争の様々な作戦室でみられたであろう風景であり、映画でもよくあるシーンだが、やはり何度見ても涙が出る。鳥肌が立つ。その後、二人の(無名の)男が、早朝の階段で語り合い、飲みに行こうといって、街中に消えていく。それをロングショットで撮る。良い終わり方。この手の密謀映画の常套ではあるが、満足感がある。
 でもそれだけである。
 この作戦自体は面白いのだが、しかしお話としては全く面白くない。死体を海に捨てただけである。おそらく製作者達もそれをわかっており、ケリー・マクドナルドとコリン・ファースの渋いロマンスを一生懸命演出する。でも、そんなものを見に来たのではない。。
 もっと群像劇的にすべきでないだろうか。例えば死体役に選ばれた路上生活者の生前は、回想で適当に処理されているに過ぎないが、むしろ彼が死んでいくまでを冒頭で描けば、それが対ナチス戦争勝利につながる作戦につながっていく「巡り合わせ」が演出できたはずだ。あるいはケリー・マクドナルドの恋人にしても、彼女との出会いをこそ描くべきではないのだろうか。そういうピースがつながっていき、国家規模の作戦になっていくのが、醍醐味なのではないのか。何だか最初っからすげぇ偉そうなコリン・ファースが、ひたすらすげぇ偉そうに作戦を進めていくだけでは、映画にならんだろう。
 ジョン・マッデンでもこれは無理。次行ってみよう。