2014年1月30日木曜日

パッション

監督:ジャン=リュック・ゴダール

ゴダールらしい原色の赤、青の衣類と対照的なクリーム色のセーターとマフラーをしたイザベル・湯ペールとは結局のところ何だったのか。彼女は車を追いかけながら歩き、ハーモニカを吹き、工場の中で逃げ回った。うむ。
それにしてもこのゴダールは素晴らしい。ハッとするようなクローズアップ、いつもながら素晴らしいロングショット、逆光の扱い(部屋の中のランプシェード)。
あるいは、身体の柔らかい女が身体をくねらせてメモを取るシーンがあるが、ここで入るカッティング・イン・アクションほどバカバカしいカッティング・イン・アクションは見たことがない!
スタジオ内のワンショットで、最後に照明が落ちて画面奥の光だけが見えるあのシークエンスには震えるほかない。「まずは見てから」

2014年1月9日木曜日

限りなき追跡

監督:ラオール・ウォルシュ

中盤でロバータ・ヘインズがフィル・ケイリーに捨てられるシーンがあるが、ここで黄色い美しい服を着たかつての女が残酷な男に捨てられたその後ろ姿を、後から来た3人の主観ショットによって捉えることで、この映画に見事な抒情が生まれている。スレイトンによって捨てられたり、恋人を奪われた者達が、偶然に出会いながらその都度仲間として報復へと向かっていくという物語構造を、見事に画面によって象徴的に描き出している。

あるいはその直前のロバータ・ヘインズがドナ・リードと取っ組み合うシーンはまた見事にヒッチコック的というか。窓からの主観ショットによって誤解が生まれ、ロバータ・ヘインズがドナ・リードにつかみかかる。ドナ・リードは何のことかわからない。
この二人は最終的に和解することなく終わるわけだが、しかしヘインズが倒れたところにドナ・リードが駆け寄るショットが一つだけ、これまた見事にリズミカルなカッティングで挿入される。

終盤の取引のシーンはそのままトニー・スコット『マイ・ボディガード』に連なっていく。

またラスト数分はほとんどセリフゼロである。

2014年1月5日日曜日

2013年の公開映画を振り返る

映画とは結局のところどう扱うべきなのだろうか。あなたに映画を愛しているとは言わせないと言われたところで、どうすると愛していて、どうすると愛していないことになるのか。全てのショットを、細部を完璧に記憶できれば、それが愛なのか。そうではあるまい。
いや、別に「愛」という言葉にこだわる必要はないのだが。
しかし愛でも「語る」でもいいのだが、やはり映画は単に「そのもの」として記憶される以上の事を必要としているように思われる。つまり分節される必要がある。

さて、2013年に公開された映画の中でとりわけお気に入りのものは、
『最終目的地』(ジェームズ・アイヴォリー)、『エンド・オブ・ザ・ワールド』(ローリーン・スカファリア)、『世界にひとつのプレブック』(デヴィッド・O・ラッセル)
『最終目的地』については、全編とても素晴らしかったと思うが、やっぱり何よりもラストが素晴らしい。オマー・メトワリーとシャルロット・ゲンズブールが、最終的にどうやってくっつけばいいのか。つまり二人の「最終目的地」をいかに演出するか、というところでジェームズ・アイヴォリーは見事な聡明さを見せてくれる。大雨の中、ダッシュするメトワリーのもとへ赤い傘を持って駆け寄るゲンズブール。このショットが最終目的地だ。もうこれだけでいい。そしてそこに至る直前の出来事、つまりメトワリーが荷物を持ってやってきて、ゲンズブールが圧倒的ツンデレぶりを発揮して追い返し、アンソニー・ホプキンスが「もう一回行けよ」とだけ言って、メトワリーがダッシュで出ていく一連のシークエンスは、この最終目的地のためだけにあると言っても過言ではない。
そしてここには、はたしてゲンズブールがメトワリーを受け入れてくれるのかとか、メトワリーがどうやって彼女に思いを伝えるのか、といった野暮ったい心配は不要である。誰もがこの二人の最終目的地を確信しているのだから。ただ赤い傘を持って駆け寄るだけでいいのだ。
これほどまでに映画とはこれだ!と思わせてくれた映画は今年見れなかったので、これが文句なしのベストです。

しかし、ただ分節する事が必要、と言うだけでは意味がない。良い分節と悪い分節を区別しなければならない。(分節を分節せねばならない、などと馬鹿なことは言うまい!)
だがそれは僕にはできない。それを区別するには膨大な「映画史」と文献を踏まえなければならないからだ。僕の尊敬する映画研究塾(実のところ何をもって尊敬すると言え、何をもって裏切ると言えるのかわからないが)は分節=複雑性の縮減を批判するけれども、しかしこれから研究塾が出そうとしている論文はヒッチコック=ホークス”主義”についてであるはずだから、それは何らかの分節を伴っているだろう。
分節の仕方と同等に重要なのは、分節をするための素材だ。何をもってその映画を分節するのか。それはショットである。だから目に焼き付けたショットが多ければ多いほど、分節の可能性も広がるかもしれない。知らないけど。
とにもかくにも、まずは目に焼き付けることなのである。

『エンド・オブ・ザ・ワールド』で最も素晴らしいシーンは、スティーヴ・カレルとキーラ・ナイトレイが海岸でキスを交わすシーンだ。ここに至る直前の展開をみると、まずスティーヴ・カレルが元カノの家に立ち寄ったものの、なぜかドアをノックすることなく車に戻って発車していしまう。で、キーラ・ナイトレイが「は?なんで?」と問いただしてるうちに、あやうく衝突しかけて急停車。その衝突しかけた相手というのが、よくわからん巡礼者達。いやただの旅行者達なのかもしれないが、二人はその旅行者達の列と彼らが向かう先にある海とカモメを見て、ニッコリほほ笑んで、キスをするわけだ。
理由とかどうでもいいや、キスしちゃおうぜ、というわけだ。ああ、なんて素敵なシーンでしょう。
ローリーン・スカファリアはこれが初監督作ということで、処女作にしてはちょっと保守的?な気はするが、これはとっても良かった。

と、カッコよく言ってみたところで、これはこれで大変だ。一年前に見た映画について一体どれほどのことを覚えているのか。ゴダールがヒッチコックの映画について、ストーリーは何も覚えていないがワインセラーおイメージは覚えてると言ったところで、本当にその記憶したイメージは正しいのかなんてわからない。僕なんか「見事なロングショットだ!」と思っていたショットが実はバストショットでした、なんてことすらある。
(記憶の中の)映画のイメージは、映画そのものではない。それは一秒後から、もう乖離している。
映画を見ることと、映画を記憶することは全く異なることなのかもしれない。

『世界にひとつのプレイブック』は、今思えば、いや見たときも感じたが、ジェニファー・ローレンスとブラッドリー・クーパーがくっつくまでに至るプロセスが、上二作に比べて野暮ったい。最後はマジ告白だし、手紙をめぐる真相を「説明」するような告白もちょっとどうかと思う。
しかし、それでもこの映画には大いに感動させられた。デヴィッド・ラッセルは、画面の力を知っている。知っているのに説明していしまう変な人だ。(とはいえ彼の作品はあまり見たことがないので、あまり変なことは言えない)
主役二人が前後に並んでジョギングするショットや、二人が横に並んで踊りだすショットは今年見た映画で最も幸福なショットだった。

つまるところ、なぜ僕たちは映画を見るのか。
生理学の教科書を読むのは、生理学の知識や理論を覚えるためだ。だから生理学の教科書で学んだ知識は、やっぱり記憶しておかないといけない。そうしないとテストに合格できないし、実際に患者を見ても病態を把握できない。生理学の教科書を享受する、とはそういうことだ。
とすれば、映画もまたそうなのか。やっぱり映画を享受するとは、映画の全ショットを記憶に焼き付けることなのか。いや、無理だ。そしてそうではないと思う。なぜなら今でも僕は映画のショットを碌に記憶できないが、にもかかわらず明日は何を見ようか、明後日は何を見ようか、とそんなことばかりを考え、そして映画館へと通じる厳しい冬の道を孤独に歩いた末に暗闇の中で傑作と出会うたびに歓喜しているからだ。そしてその数時間後にはおそらく半分以上のショットを忘れているのだ。

その他良かった映画としては、『コズモポリス』(クローネンバーグ)、『ビザンチウム』(ニール・ジョーダン)、『ファインド・アウト』(エイトール・ダリア)、『マーサ、あるいはマーシーメイ』(ショーン・ダーキン)、『愛さえあれば』(スザンネ・ビア)、『そして父になる』(是枝裕和)といったところでしょうか。
『愛さえあれば』は、『最終目的地』にとても良く似た映画で、それゆえにラストの二人のくっつき方にもうちょっと工夫がほしいと思うが、ピアース・ブロスナンがトリーネ・ディアホルムにジャケットを着せてやる一連のシーンなんて素晴らしかった。
クローネンバーグは、キネカ大森で見た『ザ・ブルード』『スキャナーズ』が別格だった。

映画の素晴らしさを、それを享受する喜びを、他人に説明するときに挙げる、僕の記憶の中の映画のイメージは、実際のイメージとは異なっているかもしれない。だから僕の説明は間違っているかもしれない。でも僕は知っている。映画を見る喜びを知っている。見るたびにそれは確認される。
見た後にはもう語れない。
映画は語るために見られるのではない。見るために見られるのだ。これは究極の反機能主義だ。
映画は何の使い物にならない。映画は映画の素晴らしさを語る道具にすらならない(なぜならその道具=イメージはすでに実際のイメージと乖離しているから)。

2014年1月1日水曜日

パンドラ

監督:アルバート・リュイン

主観ショット18、ドアの開閉15ぐらい
この監督は、この映画が監督としては2本目で、その前にはサイレント時代から製作や脚本を担っていたという。
そのためだろうか、中盤のクライマックスである、闘牛場でのシーンは、「いるはずのない人間を見てしまう」ことで闘牛士が混乱する、という嬉しくなるような映画的顛末である。
そもそもこの闘牛士は一体何のために出てきたのか。エヴァ・ガードナーの元彼として突如現れ、
なぜか本番前に闘牛をしてみせるもののなんか滑ったみたいな空気になるぐらいだ。
しかしこの闘牛場でのシーンのためには、彼はガードナーの嫉妬深い元彼であり、またガードナーとジェームズ・メイスンの情事を目撃しなければならないわけだ。

黄色の使い方がとても良い。ガードナーのドレスやメイスンの宿の部屋のソファーなど。
あるいはラストの”The End”の文字の背景も黄色いカーテンであることからも、黄色の配置がこの映画において重要であることは間違いない。

それとこの映画の主観ショットはほとんどが、メイスンが見つめる雲やら帆やら海やら操縦舵であって、ヒッチコックの映画のようにその光景自体が何らかの疑念や誤解を生じさせたりするわけでもなく、ただ無意味な光景として提示されている。一方で冒頭の遺体の発見やバルコニーからの望遠鏡の光景にしても、それらは決してショットとして提示されない事からも、単になんとなく主観ショットを配置しているわけではなさそうである。

シネマヴェーラでの上映で見た。今の私は一回の観賞で映画の細部を有意味に語って見せるだけの能力はないので、いささか中途半端な言及にならざるを得ないが、しかしこの映画は傑作であると思う。それは一見すると下手な演出(メイスンの回想シーン(というかそもそも三重の回想構成にすること自体))や序盤の露出アンダー気味の照明が映画を弛緩させているように見えながら、しかし上記の闘牛場での見事な展開とカットの連鎖、あるいは美しい美術、ラストの鏡の扱いなどがけた外れの魅力を持っている。