2012年8月19日日曜日

脱・社会的な価値転倒

「優劣もクソもないよ。人それぞれじゃないか」という考え方って、そう理解しつつもどっかで納得できないものだけど、最近は自分でも驚くぐらい「人それぞれじゃないか」と自然に心から思えるようになってきたな。「優劣もクソもない」につけ加えるとしたら、「昨日の自分より優れてるかどうかだけが問題」だと思う。
 優劣をつけるためには当然、計測基準が必要になるけれど、人間のあらゆる要素を計測するなんて不可能だもんね。で、計測可能な部分だけ測って、「こいつの方が優れてる」って言っても、まぁそれで仕事で使えるかとかはわかっても、ま、だから何だという話だよね。
 自分の価値を社会的規範と序列に完全服従させちゃったらつまんねーじゃん。
 社会は物事を序列・階層化して首尾良く進んでいくもので、だから社会の内側ではどうやってもそういった規範からは抜け出せない。社会の外側だったり自分の内部では、そういう序列・階層は自由に無視してかまわない。何をいくら肯定したってかまわない。
 そういう脱・社会的な価値の転倒が無いとやってられない。だって社会において「優れている人」というのは限られてるから。残りの人は劣等感を抱えて生きるの?っていう。
 社会において「優れていない人」が、自分だけの価値体系を獲得して自分を肯定する力を得るためには、もしかしたら他人の援助が必要かもしれない。援助はもちろん社会的な行為だけど、この援助は何というか、社会の内側にポッカリと空いた穴だと思えばいい。社会的規範に制約されない援助。
 僕は文化・芸術にもまたそういう作用があると思っている。映画を見て救われるっていうのは、別に映画見たから社会で成功できるってことじゃない。むしろ社会で成功するとか失敗するとか、そういう価値観とは別の世界を開かせてくれるってこと。
 自分が生きてる/活動してる世界の価値基準に、自分の生活の何もかもが縛られてしまうのはかなりきつい事だからね。
 だから「映画や音楽が世界を変える」っていうのは少し違うと思うんだよね。世界に風穴を空ける、という方が近いと思う。

2012年8月15日水曜日

『永遠と一日』レビュー

監督:テオ・アンゲロプロス

 アンゲロプロスの映画はこれが4本目なので、まぁまだまだ他作品と比較するような段階にないわけだが、しかしそれでもアンゲロプロスという人が長回しを多用する監督で、時に同一ショット内で異なる時間軸を操るという事ぐらいは知っている。そしてこの映画でもそのような技法が多用されており、いきなり19世紀に時間が飛んだり、あるいは20世紀の人物と19世紀の人物が同一画面に収まることすらある。
 あるいは同一ショット内に限らず、海辺の家の玄関からゆっくり海の方へとドリーしていく同じショットで二つの時間(アレクサンドレが子供のとき、マリアが生存しているとき、あるいはそれと現在が混在するラスト)を描いている。
 
 回想シーンとして最も美しいのが、一家でボートに乗っている画面だ。ブルーノ・ガンツを捉えたカメラが上昇して、そのまま空を経由して回想シーンへと至る。そこでは家族たちが音楽に合わせて踊り、その後音楽が止むと、今度は女性が歌い始める。それからブルーノ・ガンツがゆっくりと母親の方へと歩いていき、しばしのやり取りをした後、妻と肩を寄せ合う。その背後には群青色の海が映っている。。。これほどの幸福感を掻き立てるショットというのは、『エルミタージュ幻想』以来だ(『エルミタージュ幻想』は90分間幸福の絶頂を味わえる)。

 また、特徴的なのが、例えば窓ふきの子供とともに国境まで行った時や路上で結婚式をしている時、あるいは海辺でのシーンなどを見てもそうだが、まずブルーノ・ガンツのバスト/フルショットから始めて、パンやドリーをしていくうちにその周辺に多くの人々がいる事が(観客にとって)判明するようなショットだ。これは他の作品でも駆使されているのかはわからないが、しかしこのように一見人の気配が無いにも関わらず、カメラを動かすと実はたくさんの人々がそこにいた、というのはとても面白い。
 そしておそらくここがこの映画のポイントなのだが、そのようなショットを多用しておきながら、最後のショットはその逆で、多くの人達が画面に収まりながらもやがてそれらの人々が画面の外へと消えていき、ブルーノ・ガンツが一人残される。ここは明らかにその他のショットと対照をなしているだろう。

 私個人の意見で言えば、長回し(に限らずあらゆる映画)において重要だと考えるのは、画面で常に新たな出来事が起こることだ。それは何も爆発やら銃撃戦が起きるという事ではなくて、人物の関係性が微妙に変化したりとか、あるいは風が吹いて空気が変わる、というだけでもいい。とにかく映画が動き続けることが重要だと思う。
 そういう意味で考えた時、この映画ではときにあまり意味を感じない長回しがわずかながら見受けられた。検死室でだんだん子供にカメラが寄るというショットが果たして必要だろうか、あるいは死んだ友人を埋葬する子供たちをあんなに長々と映しだしても、これといって新しい情報は見受けられない。
 
 しかしとはいえ、これがアンゲロプロスのテンポなのだろう。というかこのテンポでなければ、この時間軸を自由に行ったり来たりしながら徐々に主人公の途方もない孤独感を浮かび上がらせる魔法のような映画はできないのかもしれない。

2012年8月1日水曜日

ダークナイト・ライジングについて、というか映画というものについて(ネタバレあるよ)

『ダークナイト・ライジング』の終盤で展開されるひとつのシークエンスを取り上げよう。それは警官と市民軍が正面衝突して、その中でバットマンとべインが再び対峙するシーンである。

まず、べインが警官を次々と処理し、方やバットマンが市民軍をボコしていくのを、それぞれのやや引き気味のバストショットで交互に見せていく。いわゆるクロスカッティングであるが、グリフィスの時代から多くの映画においてクロスカッティングが効果を発揮してきたのと同様に、ここでも「おお、再びこの二人が会いまみえるのか!」という高揚感を覚える。

そしてついに二人が正面で向き合うとき、カメラは互いに向き合う二人の姿をフルショットでおさめる。後ろでは市民軍と警官たちがなぐり合っている。思わず「キター!」と叫びたくなるとても力強い画だ。

そしてついに始まる二人のなぐり合いもとても素晴らしい。『ダークナイト』では細かいカット割りの末、もはや何してんだかわからなくなってしまったアクション・シーンが、とても的確なサイズとカットで展開される。

そしてバットマンがべインのマスクを肘打ちでぶっ壊した途端、それまでどんなに殴られても憮然としていたべインが突然理性を失い、アドレナリン全開で強烈ジャブを連打してくるわけだが、バットマンがひょいと身をかわしてもべインは構わず、なんと柱に向かってワン・ツーのコンビネーションを喰らわせ、柱にビキっと亀裂が走る。素晴らしい演出だ!

そしてとうとうバットマンがべインを負かし、強烈な一発を喰らわせると、べインは官庁舎(だっけ?)の中に転がりこみ、間髪入れずバットマンがべインをぼこぼこにする。そしてここで注目してほしいのが、屋外から屋内にバトルが移ったことで、周囲のノイズ(警官と市民のなぐり合い)が減じ、突然静かになるところだ。まぁこんなものは人それぞれの好みだが、僕はこういうふっとノイズがなくなって、なぐり合う音が響き渡るようになる演出が好き。

とまぁワンシークエンスについてこれだけ書いてしまったわけだが、しかし映画とはこういうものだと思うわけだ。つまり、「バットマンとべインが再び対峙してなぐり合った結果、べインが我慢し切れず自滅。バットマンの勝利。」という「点と点をつないだあらすじ」を、カメラの位置を決め、カットを割り、細部を演出することで、つまり「点と点の間の中身」を演出することで、映画が映画でしか味わえないエモーションを獲得する。そしてだからこそ、ひとつのシークエンスについて書きたいことがこれほど出てくる。
映画で重要なのは結果ではなく過程だ。このシークエンスに即して言えば、バットマンとべインが再び対峙することが重要なのではなくて、いかにして対峙するかが重要なのであり(ここではクロスカッティングとフルショットへのカメラの引きによって)、バットマンが勝つことが重要なのではなくて、いかにして勝つか(ここではべインが柱をドカドカパンチして自滅することで、あるいは屋外から屋内に舞台が移行することで)が重要なのだ。その過程がどれだけ豊かであるかが、映画の豊かさを決めると思う。



しかしそれに対して、この『ダークナイトライジング』の、とりわけ前半2時間のほとんどのシーンが、ほとんど語るに値しないお粗末なものであることには失望を禁じ得ない。それはあらすじが長すぎるからだ。べインがハイジャックして、キャットウーマンが泥棒して、エネルギー計画がどうのこうのという話をして、バットマンがつかまって、爆破して、市民軍が結成されて、、、とさすがにイベントが多すぎる。これらひとつひとつをしっかり描いたら、5時間ぐらいかかるだろう。
そしてこの映画は3時間弱なわけだが、その結果、ひとつひとつのシーンはただイベントの結果を描くのみであり、観客は物語の「あらすじ」を追わされているに過ぎない。

もっとも象徴的なのが、終盤にゴードン警部が突然つかまって突然裁判されて、氷の上を歩かされるというのを、ゴードンがつかまるところと、ゴードンが弁明するとこと、判決を言い渡すとこをささっと見せて終わっている点だろう。まぁ設定上は即席の裁判 であるとはいえ、しかしこれは裁判なのである。多くの法廷映画が繰り広げてきたような、迫力のある言葉の応酬、自分の全人生をかけて戦う被疑者の感動的な姿、傍聴人の視線の演出など、ここには全くない。つまりここには演出がない。ゴードンがいかに弁明し、キリアン・マーフィー(!)演じる裁判長がいかにして理不尽な刑を命じるかにはまるで興味がないかのように、マーフィーはただそれとなく判決を読むだけだ。
(ちなみに僕ならこのシーンは、画面の手前にキリアン・・マーフィーの顔、奥にゲイリー・オールドマン演じるゴードン警部をパンフォーカス気味に配し、ワンショットで撮りたい笑)

あるいはもっともひどいと思ったのが、マシュー・モディーンの顛末だ。それまで半ば諦めモードで、戦いから逃げていたマシュー・モディーンが、警官の制服を着て、警官隊の中に混じっている。このマシュー・モディーンの表情はどうだ。そして「警察はひとつしかいらない」とつぶやくマシュー・モディーン。われらがマシュー・モディーン!ありがとう!と感動するわけだが、ああなんということだろう、マシュー・モディーンは戦車の爆撃にあって死ぬわけだが、ノーランはマシュー・モディーンの死にざまを撮ることなく、戦車が砲撃するシーンのあと、マシュー・モディーンの死体を見せて満足してしまう。そりゃあ無いぜノーラン。。。

演出があって初めて、好きとか嫌いとかが言えるのだが、この映画には、あまりにも「無演出」で好きとか嫌いとか言える次元に達していないシーンが多々ある。

『ダークナイト』の素晴らしいオープニングを思い出せ。
見事な手さばきで次々と銃撃と金の押収が展開され、バスが突っ込んできて、ようやく主犯のやつがマスクをとると、ジョーカーがお出まし。あれにめちゃめちゃ興奮するのは、「銀行強盗の主犯が実はジョーカーだったから」ではなく、振り向きざまにマスクをとるとジョーカーの恐ろしい顔が現れるという、粋な演出に対してだ。

とまぁ、こんな感じで、結構残念な部分が多い映画だったが、酒場でのアン・ハサウェイの格闘シーンとか、証券取引所からのカーチェイスとか、クライマックスのゴードン警部の頑張りだとか、結構燃えたのは事実。
ということで、別にノーランでもいいから、これ5時間ぐらいにしてリメイクしてくれ。