2012年4月26日木曜日

自己規範と社会規範


以下の、マッキンゼーの田中祐輔氏のTweetを見てほしい。


 てか就職できなくてウジウジ言ってるくらいなら、マジで中国でもブラジルでも行けばいい。成長中の国なら何かしら仕事くらい見つけられるはずだしその経験は絶対に将来的に意味がある。んなこともできないでネットでウジウジ言ってるブタはもう野垂れ死んでくれ。
親も悪いよなー。仕事しないでダラダラしてる子供なんて追い出せばいいのに。ウチのオヤジは、塾でも習い事でも僕から言い出して土下座してお願いするまでは何もお金払ってくれなかったし、就活で僕が外資系の投資銀行を全部落ちて弱ってる時も「お前ごときが受かるか」と高笑いするオヤジだった。
大学の必修科目として半年間「生命力強化プログラム」を導入して欲しい。選択科目は、ロシアのマグロ漁船、ブラジルの鉱山、中国の工場みたいな。生命力強くなるし、成長中の国で一定の期間過ごすのは意味がある。

Tweetの順番は投稿の順番から一部変更したが、氏の論理構造はこの順番で見るとわかりやすいだろう。要するに、今の若者はだらしない⇒俺は生命力あった。みんな生命力持たなきゃダメだろ⇒若者をマグロ漁船へ!という事である。

あるいは茂木健一郎氏のこのTweetを参照してほしい。
教育課程におけるカリキュラムは、それが子どもたちに与える感化と便益を通して精査されるべき。その意味では、現行のカリキュラムは決して最適なものとは限らないと思う。中学校でダンスが必修化されるそうだが、将棋も必修にした方が集中力や考える力がつくのではないかと昨日思った。
日本人は英語を話す力が相変わらずないが、英語による演劇を必修にすれば、ずいぶんと風景が変わる。考えてみると、私たちが「学校」にあてはめているカリキュラムは、知識偏重だった頃の思い込みに基づく、化石のような側面がないとも言えない。カリキュラムのビッグ・バンが必要だろう。
コンピュータのプログラム能力は現代人に必須だが、それが十分に教育されているという話は聞かない。日本史や世界史の細かい人名や年号を聞く入試問題も、それに向けられた授業ももはや時代錯誤。日本の停滞は、化石化したカリキュラムがもたらしていると言ってもよい。
重箱の隅をつつくような歴史教育、試験はナンセンスだが、歴史を知ること自体には価値がある。世界のさまざまな場所で、さまざまな年代にどのようなカリキュラムが存在したか。それを知ることで現代が相対化される。バッハの時代には、音楽はりっぱな主要教科だった。
見ればわかるように、茂木健一郎氏による教育への提言だが、その内容は英語演劇の必修に将棋の必修にコンピュータの必修に、と盛りだくさんである(笑)これは推測の段階を出ないが、おそらく茂木氏の脳内には、「こういう奴が社会に必要だ」という具体的な学生像があり、その実現のために公教育の変更を提案するというもので、はっきり言えば「独断のまどろみ」に過ぎない。
しかしその論理構造は上の田中祐輔氏と類似しており、自己規範を社会規範にすり替えているのである。
自己規範はあくまで自分自身が生きていくうえで参照する軸やマニュアルであり、それをそのまま他人に適用する事は妥当ではない。巷で言われるワタミ的体育会系マッチョイズムも同じ論理構造を持っており、別にある人が「サービス残業をもらわなくても、俺はお客様の笑顔のために働くんだ!」と思う事は勝手だが、それを組織内の規範とする事は全くもって危険極まりないことであり、現に自殺者が出ている。
社会規範とは、ある人が望む人生を実現するためのものではなく、社会で生きる全ての人達が「自分が価値をおく理由のある生を生きる」事を可能にするような公共原理であるから、ここに自身の経験に基づく独断的な自己規範を適用することは不合理なのである。

2 件のコメント:

  1. 「自分が価値をおく理由のある生を生きる事を可能にする」ことは公共原理ではないんじゃないかな。それでは各個バラバラの自由主義であってもかまわないことになります。つまりそこに公共性はありません。田中祐輔氏、茂木健一郎氏の考え方は良く分かりませんが、もしそれが公益となるのであれば、彼らの提案は「公共性を持つ」と言えるでしょう。

    そもそも社会規範なんてものは、自己規範の最大公約数ですね。これはもう「社会」を形成する上で仕方ないことではありますが、少なくともあなたの考えておられる疎集合的な観念ではないんじゃないかな。

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  2. この記事を書いた当時はたぶん、アマルティア・センとか読んでたと思いますが、まぁなんでもいいです。コメントありがとうございます。

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