2012年4月26日木曜日

「人それぞれ」リベラル

さて、今回は映画評論家の大寺眞輔氏のTweetへの共感を表すとともに、改めて現在の社会の環境とかを見つめるために、ちょっと覚書程度のものを書いてみようかと思う。
大寺氏自身の問題意識は、日本の映画環境のあり方にあって、Tweet自体はそこへ向けてのものではあるが、しかし(これはあらゆる大寺氏のTweetに言えるが)その射程は映画環境の枠にとどまらず、より一般的な社会的問題意識へと昇華され得るものだ。


と、調子に乗った書き方はこれぐらいにして、さっそく大寺氏のTweetを
http://blog.ecri.biz/?p=1697


・文化的選良、あるいは自己規範の形成について 


やや乱暴な要約かもしれないが、要するに大寺氏の問題意識は、かつて映画ファン(シネフィル)達が形成していた「シネフィル共同体」内での映画の消費だけでは、もはや映画は生き残れない。なぜなら、以前はSNSが普及しておらず、シネフィルの意見はシネフィルの意見としての権威を持っていたが、SNSが普及してしまった今、シネフィルの意見とふつーの人の意見が同じ重み(軽さと言うべきか)を持って受容されるからである。
そしてもちろんふつーの人の意見へのシネフィル的応答は、「いや、映画の趣味なんて人それぞれでしょ?」で片づけられる。
つまりかつてシネフィル共同体が有していた権威=映画をめっちゃ見てるすごいやつらという認定が無くなった今、その失われた権威にしがみついて発言している限り、誰も見向きもせず、あるいは内輪のノリとして消費され、映画は資本主義の流れとともに消失せざるを得ない。


この問題意識をより一般的なワードと記号によって再構築するならば、以下のようになるだろう。


マスメディア全盛時代において人々に圧倒的な影響を与えていた「文化的選良」の権威はいまや失われ、人々はSNSを通じて自由に自分の価値観を発信できるようになった。
それは一見、多様な価値観の衝突によるより豊かな文化的空間を創造するかにも思えるが、現実には多様な価値観は衝突することなく、「価値観は人それぞれ」という大義のもとにあらゆる言説は同じ軽さでネット上に埋没している。


これをFacebook的な言説空間と呼びたい。その空間は以下の性質によって特徴づけられる。


人々は自由に意見を発し、自己の価値観の表明を嬉々として行っているものの、それは「イイネ!」というほとんど相槌と変わらないレベルの評価に安住する類のものであり、個々人の文化的スキル、価値観の変容が起こる契機は乏しい。


「人それぞれ」という一見リベラルで好ましいようにも見えるこのワードが、実は人々の価値観の衝突と議論を抑制し、結果として各々の自律と発展を妨げている。これを私は、「自己規範の喪失」と呼びたい。
自己規範とは何か。私の解釈では、絶え間ない文化的、学問的な自律と発展をめがけ、多様な言説を自身の中で再構築することで形成される自己のライフスタイルであり思考の枠組みであり、価値の階層である。
つまり、「自己規範が失われる」とは、異なる価値観を擁護することや批判することを恐れ、「イイネ!」という「一応の承認=何も言ってないに等しい相槌」をすることで安息を得ることが常習化することである。
自己規範の形成は他者の擁護と批判を伴う。なぜなら他者への言及は常に自己への反省を促すからである。


・「人それぞれ」リベラルへの抵抗としての「愛の表明」、または「『暇倫』的試み」

 さて、以上見てきた要素を再構成すると、以下のようになる。
SNSによって人々が自分の意見を発信できるオープンな場が出来た事で、それまでの権威主義的/選良主義的なものはその力を失い、あらゆる意見が等価なものとしてネット上に溢れかえり、それらは「イイネ!」という無差別な承認に安住することを余儀なくされている。その結果、社会で権威的に、しかしある種の尊敬を受けながら維持されていた「価値階層」が失われ、人々に自己規範の刷新を促すような社会的環境が失われつつある。
大寺氏も、この「選良集団」の権威によってそういった集団に伴う「内輪感」が打破されたことを好意的に見つつも、やはり「人それぞれ」という名のもとにあらゆる言説(例えば映画批評)が等価に消費される現状には問題を感じている。だからといって、選良主義的な自意識過剰な振る舞いをしたところで、誰からも見向きもされないだろう。
これに対する新たなあるべき「選良の姿勢」として、大寺氏は具体的な表現ではないものの、ある種の方向性を打ち出している。

自分が愛するもの、歴史、教養、これら全てを捨てるべきと言う意味ではありません。しかし、それらを他人にも愛してもらうためのルールや作法全てが変化したと思うのです。私たちに必要なのは創意工夫です。そして同時に、これらを自分の身元保証として使うことは、たぶんもうできない。
まあ、自分でもひねくれ者だなあと思わないでもないです(笑)。でも同時に、自分があんまり好きじゃない映画を本気で擁護してるアメリカとかの論評読むと、なるほどそういう愛もあるかとなびいて肩入れし始める自分がいるのも本当なんですよね~
蓮實さん山田さんが編集した「季刊リュミエール」でも、ウェイン・ワンの『スラムダンス』を表紙にした13号に一番インパクト受けたし。それは、彼がさほど重要な映画作家とまでは成長しなかった現在から振り返ってもそう。あれはとても勇気ある決断だったと思う。そしてそこに愛を感じる。



つまり、SNS時代における「各々の多様な自己規範の衝突による新たな価値の醸成」の可能性は、その自己規範の「ぶつけ方」にあるのだ、という事ではないだろうか。   自分の教養をそのまま自堕落な自意識のもとで垂れ流すのではなく、あるいは自己規範を絶対化して他人に押し付けるような傲慢なやり方とは別のやり方で愛を表明すること。そういった方策に活路を見出している。
 で、ここで話は飛ぶのだが、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』という試みにはそのような「新たな価値の醸成」の兆しがうかがえる。というのも、『暇と退屈の倫理学』を(かなり乱暴に)要約すると、「暇つぶしに映画見るのはアリだと思うよ。だけどどうせ映画見るならガチで見てみなよ。そっちの方がQOL高いよ。」というものであって、これは「暇と退屈」という人類共通の身近な悩みを切り口に、文化的教養へのコミットメントを促すものであると解釈できるからだ。しかも、國分氏は近いうちに、「欲望と快楽」に関する著作を出すと公言しており、人それぞれに楽しいことしてればいいのか、それともやっぱり映画や音楽やその他もろもろの文化にも、選良が存在しており、そういった選良の導きを受けることでさらに楽しい人生が可能になるのか、という問題提起へと至ると予想しているのだが、だとすると本格的な文化的教養への導きの書になるのではないだろうか。






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