2016年3月19日土曜日

消えた声が、その名を呼ぶ

監督:ファティ・アキン

石鹸工場にアルメニアの難民たちがかくまわれている。主人公タハール・ラヒム(素晴らしい・『ある過去の行方』でも素晴らしい演技)もその一人だ。

タハール・ラヒムとその友人が、ネット越しに見える女性が着替える様子をみて発情し、風俗店に行こうと出かける。するとその道中に、チャップリンの上映会がなされていることを知り、タハール・ラヒムは一人、上映会の方に向かう。チャップリンの映画が、あまりに自身の経験と重なり、彼は上映が終わってもしばらく座ったまま動けなくなってしまう。すると自分がかつて経営していた店の従業員が現れ、しかもその従業員によって娘が生き残ったことを知る。

このような脚本。つまり、エモーションがエモーションを導く、美しい物語の流れ。
悲しみや怒りが、声を失った男の身体によってダイレクトに画面に刻印される。
オスマン→キューバ→アメリカと進むにつれ、最初は大きなシステムのなすがままになっていたタハール・ラヒムの行動も、よりアグレッシブに、また暴力性を帯びてくる、という明確なストーリー・プランも素晴らしい。
脚本と撮影が勝利しており、役者も素晴らしい。傑作だ。

2016年3月14日月曜日

オデッセイ

監督:リドリー・スコット

クライマックスである「アイアンマン作戦」が面白いのは、あれだけやめろやめろと言われていた作戦であるにもかかわらず、ほとんどどさくさにまぎれてマット・デイモンが勝手に始めたあげく、案の定コントロールが難しくて苦戦するからだ。
ずいぶん生真面目に計画を練っていた最後の最後で、こういうお茶らけたクライマックスを用意しつつ、オレンジ色のロープを使った美しい「再会」を直後に描くことが、この映画を「映画らしく」している。

だが一方で、この映画のほとんどのシーンは、全てにおいて「首尾よく」、「要領よく」、「適切に」物事が進行していく。そのご都合主義は決して映画的なそれではない。
登場人物はみな頭が良く、コミュニケーション能力が高く、プレゼンテーション能力が高い。
要するに、グローバル・エリートだ。
宇宙力学課の物理学者が、NASAの首脳陣を前に自分の考案したアイデアを披露するシーンは、さながらTEDxのプレゼンテーションだ。
なんとさわやかで快活なこと。
申し訳ないが、私はそんなものを見に映画館に来ているわけではない。


この映画もまた、『ソーシャル・ネットワーク』であり、『ラッシュ/プライドと友情』であり、『ザ・ウォーク』である。
大量のナレーションが手際よく並べられ、タイミング良くリアクションショットが加わる。「軽快な編集」の寄せ集め。それはさながら映画全体が「プレゼンテーション」になってしまったかのようであり
(いやもちろん映画とはRe-presentationなのだからそうした要素があるのは当然としても)、もはやその高度に科学的で専門的なナレーションの内容が本当に理解できているのかどうかもわからぬまま、「細かいことは良くわかんないけど、とにかくカッコいいからオッケー!」な気分だけが生まれる。こうした映画に対して投げられる賛辞とは大体が「スピード感」だの「軽やかさ」だのといった言葉で飾られたものばかりである。濁りがなく、引っかかるものが何一つない。
あるいは、何か見ている間中、ずっと何かのCMを見せられているような気分にすらなる。

これはやっぱり問題だと思うが、どうかね?