2015年1月23日金曜日

とある記者会見を見て。

たとえばある映画に対する感想を僕みたいな素人がネットで放言する理由は、まず、自分の発言など何の影響力もないだろうという前提のもと、たとえ影響があっても(たとえば制作者の目にとまる)それは別に倫理的に問題のないことだと思うから。
つまりある映画に対する僕の批判・非難が制作者の目にとまっても、それは倫理的に問題がないという確信があるから。とはいえ僕は、ある作品を批判することと、その作品をつくった人間を批判すること、あるいはその作品を誉めている人を批判することは、どれも全く異なる次元の問題であり、それぞれに境界線を引きつつ、その線を超えるべきか超えないべきかをその都度考える必要があると思っている。結局のところ何の影響力がないにしても。
というのも、それは相手への配慮というだけでなく、作品と作り手と鑑賞者を一緒くたにすることで、自分の世界観が単純なものになってしまうリスクがあるから。

ある作品の感想ーそれがネガティヴなものでもーをネットで放言するのは、他の人と意見を共有できたり、異なる意見に触れたりするきっかけになるから。そうした機会は、自分の感性の確認したり、自分が見えていなかった視点に気づかされたりすることで、自分の感性をさらに磨くためにも大事な契機だと思う。だから常に、別の視点、別の解釈を希求したいとも思う。

逆に言えば、そうした意義がないのであれば、いちいちその作品を批判したり嘲笑したりなんて、しないと思う。何の意味もないばかりか、場合によっては他人を傷つけるから。

あるいはまた、その作品が客から金を取る作品である場合と、それが例えば友人が試しに作った自主制作の作品である場合とでは、僕はスタンスを変えると思う。タダで視聴しといて、友人が作った作品を辛辣に批判する気なんて、とうてい起きないと思う。

でももしかしたら、いつもより穏やかな言葉づかいでもって、その友人に、自分のできる範囲でアドバイスする事はあるかもしれない。たぶんその時には、その作品の欠点の指摘なども含まれると思う。その指摘がすでに誤りの可能性もあるが、たとえ妥当だったとしても、その指摘は、相手のためを思っての指摘でなければならないと思うし、相手の納得や、それによる成長につながらないのだとしたら、それは僕の失敗だと思うし、それなら自分よりももっと効果的な事を言ってあげられる他の誰かがアドバイスしてくれることを願って、僕は口をつぐむことにしたい。
そんなことを思った。

2015年1月12日月曜日

その街のこども TV放送版

演出:井上剛

佐藤江梨子が死んだ友人の父親に会いに行く一連のシーンが素晴らしい。
それはもちろん、一つだけ灯りのついた部屋の存在と、それをあくまでロングショットで捉えること、によるところもあるが、それ以上にまた、一度コンビニへ行った森山未來が走って公園に戻るというディレクション、そして佐藤江梨子が戻ってきてからの、二人の、手を振る/振らないのやり取り、といった演出の複雑さが素晴らしいのではないか。
つまり、”一つだけ灯りのついた部屋”というビジュアルに満足せず、あくまでその空間で役者を行き来させるからこそ、公園の二人とロングショットで捉えられた父親の、二つの空間の差異が、静的な(図式的な)ものにならず、ダイナミックなそれになっているのではないか。

ちなみに、この映画は、『コラテラル』なのではないか、というのが見たときの印象だった。上記のシーンで『コラテラル』を想起せずにはいられなかった。

居酒屋の撮影が意味不明なのだが、それでもついつい引き込まれるのは、会話が素晴らしいからだろうか。
居酒屋での対立→鞄を同じロッカーに預けていたせいで再会→二人で歩く流れに、、、という展開の心地よさ。あるいは佐藤江梨子がいったん居酒屋に戻ってくるシーンの省略の的確さ。

ラストの二人の抱擁。
キスはしないのだが、これはキスをしないのが日本流、というよりは、もはやこの二人は、唇と唇を合わせるなどという器用なことはできず、ひたすら抱き付くことしかできない、それぐらい切ないのだ!と解釈したら、勝手に泣けてきた。

2015年1月5日月曜日

狂気の行方

監督:ウェルナー・ヘルツォーク

何よりも楽しい。これが大事だ、何よりも大事だ、と言うわけでもないのだが、まぁ難しいことは言わずに一回目はとりあえずこの映像を楽しんでればいいんじゃないか、って感じもする。
"映像の質"というものが何で決まるのかは知らないけど、この映画に出てくるいくつかの映像にはビックリした。
オートミールがコロコロ転がるのを超至近距離でフォローしたショット。劇場があるガラス張りの建物内の撮影、ホテルのロビーの撮影、演劇のリハーサルにおいて、人物だけに光が当たり、彼ら彼女らが暗幕に浮かび上がったように見える幻想的なショット、そしてマイケル・シャノンがバットと剣を持ってゆっくりと家の中に入ってくるショット。

最近は3Dでドキュメンタリーを撮ったりしている(未見)ヘルツォークは、そういえばこれのひとつ前の『バッド・ルーテナント』ではイグアナを至近距離で撮った荒っぽい映像を挿入したりしていたが、それでも『バッド・ルーテナント』というのはほとんどが、オーソドックスなカッチリとして構図を決めた優れたショットで構成された映画だったと思う。

一方でこの映画は、全編ほとんどが手持ちのハイビジョンカメラが、ゆっくりと漂うような動き方をする。フォーカスの定まらないカメラワーク、と言うと、この映画の「フォーカスの定まらない物語」を秀逸に表象してると言えてしまいそうだ。カメラ同様に、物語も、どこに行くのかわからない。というよりいつになったら物語が進むのだ、といった感じである。

男が母親を殺害して自宅に立てこもる。
その男の動機を探るべく、刑事が事件が起きた向いの家の住人、恋人、そして男が所属していた劇団の監督に話を聞く。それら人々の語りとともに、男自身の過去が回想として次々と挿入される。
どうやら男はペルーでおかしくなってしまったらしいことがわかる。
次第に回想の語りそのものも常軌を逸していく。突然人物が固まったり、何の説明もないまま場面が転換したり、、、
中毒性のある映像というのは、こういうのを言うのだろうか。

と、まぁものの見事に物語の焦点をぼやかし、イメージと戯れる巨匠ヘルツォークの優等生ぶりを味わえる、と言ったら生意気すぎるか。

しかしそれにしても、回想において、マイケル・シャノンがいよいよ母親を殺害しようかという一連のシーンの、見事な緊張感は、ヘルツォークが大変優れたストーリーテラーであることを十分に証明している。