2014年12月21日日曜日

なみのおと なみのこえ新地町

せんだいメディアテークで、「フィクションの境目」と題した映画上映会に昨日・今日と行ってきた。
溝口健二とレオス・カラックスの超傑作映画が見れたのも良かったけれども、何より濱口竜介の震災後のドキュメンタリー”東北三部作”のうち二作品を見れたのが何よりの収穫だった。


リンク先の、両監督のディレクターズ・ノートが何より素晴らしい
http://silentvoice.jp/naminooto/
http://silentvoice.jp/naminokoe/



以下は『なみのおと』、『なみのこえ 新地町』を見ての感想。


『なみのおと』は震災から半年、『なみのこえ』は震災から一年後に撮られた作品。
「被災地のドキュメンタリー」と聞くと、やはり直感的に震災後の人々の生活や街の風景を映した作品かな、と思うけれども、この作品はそうではなく、何組かの現地の人たちが室内で互いに向かい合わせになって、当時のことを振り返ったり、あるいは監督と1対1で対話したり、という会話の集積で成り立っている。だから彼ら/彼女らの”日常生活”は全く出てこないし、震災後の街の風景も各パートのつなぎとしてわずかに出てくるにとどまる。

ここでは映像によって被災地を映すのではなく、会話によって語らせる、というアプローチがとられる。その新鮮さ。

作中の監督のナレーションで、「あまりに被害が大きすぎると、何もかもがなくなってしまい、かえってその被害の程度がわかりづらくなる」というものがあり、そもそも外部の人間が、被災した地域の光景を見ても、そこで何が失われたのかを知ることはできない、ということに気付かされる。現場の光景以上に何事かを語るもの、それは現地の人々の声に他ならない。

なるほど、現地の人々の声は、確かに現場の光景より雄弁で、多くのことを教えてくれる。その街の何が好きで、どういう生活をしていて、何が失われたのかを実際に教えてくれるのは、そこに住んでいた人たちの声だ。

しかし、だからといって、これらの声は、「真実を明かすこと」だけに奉仕するわけではない。

人によっては、当時の出来事を詳細に生々しく回想することもあるが、やや曖昧な語りに終始する場合もあるし、あるいは向かい合っているがゆえに、率直な感情や思いを言い辛そうな夫婦や親子もいる。

当然である。
人は他人にいちいち本音をぶつけたりしない。自分の感情と相手の感情とその場の空気のそれぞれに配慮しながら、言葉を慎重に選ぶのが人間ってものである。それは”被災者”であろうと誰であろうと変わらない。

だからこの映画は、「被災による喪失感」だとか、「日常生活における絆」といった、「被災地の真実」を語る映画ではない。

むしろ、こうした語り(合い)が示すのは、「喪失感」とか「日常のありがたみ」といった我々がついつい先んじて(勝手に)イメージしてしまう言葉や概念(もちろんこうした事を語る人々も出てくる)からはこぼれ落ちてしまうような、我々人間の普遍的な”営み”である。

そしてその営みは、びっくりするほど多様で、時にはまどろっこしく、時には物悲しく、時には見てるこちらが腹を抱えて笑ってしまうほどに可笑しい。

震災という特別な経験をした人たちのごくごく当たり前の、当たり前のように個性的な営みに、目を向け、耳を傾けること。それがこの映画が試みていることだと思われた。



2014年12月5日金曜日

ナイト・スリーパー ダム爆破計画

監督:ケイリー・ライヒャルト

ミークス・カットオフがいまだに輸入されないライヒャルト監督の新作(DVDスルー)。一回しか見てないので、備忘録的に。

ネタバレしかしてない。

まずもって、かなり巧妙なつくりである。
ダム爆破に至るプロセスでの多くの伏線、すなわち、防犯カメラの前で帽子を外してしまうダコタ・ファニング、ボートを運ぶ道中での多くの観光客、計画を練っているところに現れる通行人、爆破十数分前に現れる車(これを捉えるコーエン兄弟的ロングショットが素晴らしい)、ことを終えた帰りの検問、などなど、いずれも後々に主人公達が追いつめられることになりそうなキーショットが何度も出てくる。
しかし、実際には彼らはこれらの「ヘマ」に足元を掬われるわけではなく(つまり伏線は回収されることなく)、計画を実行したときには気付きもしなかった存在によって、心理的動揺をきたし、自滅していくわけだ。

だがこの映画の魅力はこうした計算された構成だけでは語りきれないだろう。
ボートがゆっくりとダムに接近していく様を捉えたショットの純粋な視覚的面白さ、あるいは冒頭と後半に出てくる農作業を捉えたショット群、自転車に乗ったダコタ・ファニングを捉えた移動ショット,
図書館のコンピューターでニュースを知ったアイゼンバーグを捉えたカメラがゆっくりと俯瞰へと移動していく素晴らしい演出。
こうしたいくつかの優れて映画的なショットは、しかし決して、作品の印象を決定づけるようなインパクトのあるショットとは言い難く、きわめて抑制的に、小出しにされる。この抑制的なリズムが、むしろ終盤の転調と帰結をより効果的なものにしているだろう。

ことほど左様に、終盤のサウナにおける、ダコタ・ファニングののけ反りこそが、この映画のクライマックスとなっている。



ジェシー・アイゼンバーグの主観ショットがやたらと出てくる。数えきれないがおそらく20ほどある。
一方で、その他ピーター・サースガードやダコタ・ファニングの主観ショットは全く出てこない。一か所、これはサースガードの主観ショットかな、と思うところが、ボートで湖に出て、枯れた木々に目をやるシーンだ。だがここでも、最後までそれらの木々に目をやっているのは、ジェシー・アイゼンバーグだけである。
アイゼンバーグはここでは徹底的に「見る人」としてキャラクタりぜーションされている(ラストショットも彼の主観ショットだ)。
その意図は不明確である。効果を発揮している、のかもよくわからない。

それと、三人の関係性とその動きを繊細に描写していく手腕は見事なものだと思うが(それぞれの人間に対するカメラの距離、あるいはオフで入ってくる声、などなど)、もう少し大胆に描いてほしいとも思う。