◎衣装の確信犯的な対照から隠れたストーリーを妄想する
ペネロペ・クルスにこれほど地味な衣装を着せることに終始した映画があっただろうか。と書くとペネロペ・クルスの映画を全部網羅しているかのようだが、そんなことはない。
言いたいのは、とにかくペネロペ・クルスの衣装が地味ということだ。
一方で、ハビエル・バルデム演じるパコの妻であるベア(バルバラ・レニー)は、結構派手な服を纏っている。最初の登場こそ平凡な赤のカーディガンだが、シャワーを済ませたJ・バルデムが目にするのは、翌日の結婚式のための背中がぱっくり空いたドレスだ。ここでややセクシャルな描写(J・バルデムが背中のチャックを閉めようとしつつ、ドレスの中に手を入れて戯れる)が続く。
その後も、落ち着いた服装の場合もあるが、それでも花柄のチュニックを着ていたり、下着姿のシーンが結構多い。
対するペネロペ・クルスは、終始、紺色のパーカーなどの、暗い色の、かつ露出も少ない服装である。ラストシーンにようやく、ちょっとだけeye-catchingなブルーのシャツを着てはいるが、それでもだいぶ控えめと言ってよい。
もちろん、これはペネロペ・クルスの娘が誘拐されてしまう映画である。母親が露出度高めだと、ムードがおかしくなるという判断もあるとは思う。しかしながら、上記した結婚式のドレスですら、ペネロペ・クルスのそれは、結構地味である。
そこで、もう少し別の「背景」も探ってみたい。
さきほどペネロペ・クルスと対比的に取り上げたベアをめぐっては、セクシャルな視線が散りばめられていることに注意したい。
先ほどのJ・バルデムとの絡みに加え、例えば、ベアのドレスは、親戚がつくったもので、ベアが「夫が気に入っていた」と伝えると、「ドレス?それとも中身?」と返す。
あるいは、誘拐されたイレーネに対して、警察に通報すべきと主張するベアに対して、J・バルデムが「実の母親だったらそうとは言えない」と返すと、ベアが「子供がいなくてよかったわ」と捨て台詞を吐く。
ここで気づくのだが、そういえばJ・バルデムとベアには、子供がいない。
別にいなくたっていいのだが、しかし、どうもこれは、あえてそういう設定にしているのではないか、と考えたくなる。ベアをめぐるセクシャルな視線、冒頭のJ・バルデムとの絡み、こうした側面と照らし合わせたときに、この夫婦は子供がいないというより、できないのではないかと思えてくる。どうもセックスレスというよりは、なかなか子供ができない、という感じがする。映画における夫婦の描写からはそう思える。
そして、そんななか、判明する事実を思い出してほしい。
そう、イレーネはJ・バルデムの子供なのである。つまり、ここでベアが知らされるのは、イレーネが夫の子供である、同時に、夫には繁殖能力があるということなのである。
つまり、不妊の原因は自分かもしれない、という可能性が浮上する。
彼女が最終的に何も言わず家を出ていくのは、もしかするとこういった要素もないまぜになった葛藤なのかもしれない。
とたんに、このベアという女性の存在が、痛々しいものとして印象付けられてくる。
実に閉鎖的な共同体を舞台にしたこの映画において、彼女の出自は不明なままなのであるが、彼女はもう少し都会の出身なのではないか。更生施設の職員という進歩的な職業に従事しつつ、おしゃれで露出度高めな服を愛し、夫を献身的に支える。夫も妻を愛している。決して不協和音は目立たない。にもかかわらず、(少なくとも映画内においては)セックス・アピールの乏しいペネロペ・クルスとの間に子供がおり、自分との間には子供もできない。そんな一人の女性の、なんともいえぬ挫折感。
そんなことを妄想してみた。
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