監督:イライザ・ヒットマン
これを見て、それなりに映画を見ている人は、『4ヵ月、3週と2日』を思い出さずにはいられないだろう。この映画では18週という設定なので、4,1,1ぐらいということになる。(この週数をめぐってもちょっとしたトラブルがあるが。)
『4ヵ月、3週と2日』の舞台は、冷戦時代の、中絶が違法となっているルーマニアであったのに対し、本作は中絶が合法の自由の国アメリカである。中絶を遂行するまでの旅路、交渉のプロセスは、4,3,2では圧倒的厳しさが支配していたのに対し、本作はいくらかソフトな、しかし相変わらず困難な旅路である。息もつかせぬ活劇として撮られた『4,3,2』に比べて、あえてゆとりを持たせた、ときにルーズに過ぎる撮影スタイルが選択された本作は、冷戦に「勝利」した我々西側は、本当に良い社会になったのだろうか、という問いかけのようにも感じられる映画である。原題となっている「Never, rarely, sometimes, always」の反復が、まさに我々に向けられている(固定されたバストショットでシドニー・フラニガンを捉え続けるカメラは、凝視という攻撃性を自ら露呈しつつ、観客にとっての鏡の機能を有しているだろう)。
ところで、男性描写についてはどうか。
『4,3,2』では、堕胎を執行する産婦人科医が、圧倒的抑圧者として画面に君臨していたことが思い出される。しかしながら、これは『4,3,2』のレビューでも書いたが、あの産婦人科医は、同時に大変なプロフェッショナルで、彼は施術を終えたあと、確かに施術を受けた女性の体に優しく手を置き、「ケアのまなざし」を見せるのである。これは、だからこの男にも良心があるということではない。そうではなく、彼、あるいは医師が発揮する「ケア」が、いかに暴力と、家父長的抑圧と表裏一体の関係にあるか、ということをこれ以上ない強度で暴いているのである。このたった一つの描写でそれを暴いたクリスチャン・ムンジウが、その後宗教的抑圧を描き(『汚れなき祈り』)、次に娘のために汚職を働く父を描いた(『エリザのために』)ことは必然である。
それに比べると、本作の男性、特に4,3,2,における産婦人科医的なポジションにある若い青年(テオドール・ペルラン)は、それほどの強度をもった存在ではない。ストーリーラインの近接性から比較したくなる誘惑があるが、このあたりの描写は直接の比較をするべきではないかもしれない。むしろこの、おそらくはあまりモテない、歌も下手な、金を貸す代わりにキスをせがむ青年に代表される、男達の凡庸さこそが、本作の面白さかもしれない。
ところで、ニューヨークの街並みを捉えたショットは少ないものの、16mmフィルムで撮られた作品としても覚えておきたい。(撮影は『幸福なラザロ』のヘレネ・ルヴァール、なるほど!!)
それと、4,3,2との比較でばかり書いてしまったせいで触れられなかったが、主役2人の旅路を、ほとんど2人に会話させずに描くという試みも素晴らしい。もちろんクライマックスで手を取り合う描写への演出上の伏線という意味もあるにはあるが、それでもお互いロクに口もきかずに不機嫌な顔をして困難な旅に出る二人の姿には感銘を受ける。