2020年4月9日木曜日

王国(あるいはその家について)

監督:草野なつか

パソコンの小さいスクリーンで見たので、そこはご了承願う。

「あるいは~」というサブタイトルが如何にもなのだが、まぁそれは良いとして。

実演ではなくリハーサルによって表象する、という実験的な映画である。
筋立てとしては、休職して地元に帰った女性(アキ)が、かつての幼馴染夫婦+一人娘と交流を持つが、様々な価値観の対立などがあり、いったん疎遠になる。が、台風の日に娘を預かったアキが、橋でその子供を突き落としてしまう、というものになっている。「なぜアキは、幼馴染の娘を殺したのか」という動機がミステリーとなって、そこに接近するようにして人物達のやり取りが(リハーサルによって)描かれる。

手法を別にすれば、それほど突飛なテーマではない。
非常に粗っぽくまとめるなら、幼馴染夫婦の「家」は、温度や湿度までコントロールされた、「家族だけの場所」であり、アキはそこに入り込めないし、入りたくもない。しかしアキとしては、幼少時に椅子とシーツでお城を作った親友との、二人だけの二人にしかわからない関係性(=王国)が失われたこと、あるいはそこから親友が立ち去り、「家」の方に行ってしまった事、あるいはそこに囚われていることに、「傷ついて」いる。それが台風の日の一時的な晴れ間(台風の目に入っている状態)に、彼女の内面を激しく揺さぶり、娘を突き落とすに至るわけだ。王国を取り戻すために異物を排除すること。
このことが、アキが読み上げる、幼馴染に宛てた手紙に語られる。

少し脱線するが、これはいわば「意味の場」(マルクス・ガブリエル)をめぐる物語とも捉えられるだろう。いみじくもガブリエル自身が、「意味の場」というものを(単なる「対象領域」とは違って)杓子定規に割り当てられた部屋の空間そのものというよりは、間取りや配置によってその都度変わる部屋の表情(←不正確)というような意味合いで説明していることとも重なるが、簡単にいえば、ここでは幼馴染の夫が設定している意味の場と、二人にしかわからない意味の場が、対立、衝突し合っているのだと言える。思弁的実在論の立場にたてば、それぞれの意味の場が間違いなく実在していることになる。

まぁそれは良いとして。
で、上記の物語を、リハーサルの反復によって描こうというのが、野心的である。
まだ見たことがないのだが、今村昌平の『人間蒸発』は途中で実演とメイキングが混合するような作りになっているというから、それと近いのかもしれない。
あるいは、何か表象しがたいものを表象していく過程を役者のリハーサルによって描こうというモチーフは、篠崎誠の『SHARING』を思い出させる。日本のインディ映画では、意外とこういうのが多いかも?例えば濱口竜介の作品世界とも決して遠くないと思うのだがどうか。(もちろん、アトム・エゴヤンも)

見ている側としては、セットや服装などが変わりつつ何度も反復されるリハーサルを見ながら、徐々に肝心のシーンを想像していくことになるだろう。少なくとも私はそうだった。あるいはリハーサルという「嘘」にあっても、セリフを読み上げる役者達からは、それ以上の感情の変化、言葉の受肉が感じられるだろう。少なくとも私はそうだった。
こうした反復による表象プロセスそのものが、一種の「王国」の形成になっていて、見る者はその合言葉を共有しているのだ、と大寺眞輔氏が指摘しているが、まさにそういうことでもあるだろう。

だが、こうした表象困難なものの表象プロセスを共有することで、私たちは果たして「シネマ」に接近しているのだろうか。いや、そんな原理主義的なことを言いたいわけではないのだが、例えば上記したアキが幼馴染への手紙を読み上げるシーンは、ワンショットで最初から最後まで語られ、こちらは否応もなくアキの心理状況、そして娘を突き落とすという行為についての想像と分析を膨らまさせられるのだが、これは「文学」ではないの?と。
あるいはそもそも、あえて断片的なリハーサルの光景を時系列も交錯させながら構築していく手法をとっていながら、この(明らかに筋立て上、最も重要な)手紙のシーンは狙ったように最初から最後まで通して読み上げられることによって、最終的に、直接的な言語的メッセージが勝ってしまってはいないか。だとすると、それはもう、この手紙だけで良いわけで、時系列を交錯させること、断片性を強調すること、あえてリハーサルを描くこと、城南高校のあれこれについての会話をあえて反復することの効果も、正直薄くなってしまっていると思う。
150分、なんだかんだで見続けてしまったので、その力量は素晴らしいものがあるが、うーん、手紙一枚で終わりじゃん、と。次作に期待。

(ところで、こうした実験的な、あえて「作り物」であることを強調することで、表象を脱構築していく手法によって、新鮮な日本映画が誕生したことは良いことだが、これがいざ劇映画としてリアリゼーションされると、とたんに三島の『Red』みたいなことになってしまうから、ちょっと複雑な気分ではある。)