ポール・ダノが、90年のアメリカの小説を原作に、パートナーでもあるゾーイ・カザン(エリア・カザンの孫)とともに脚本を書き、自らが監督した作品。
キャリー・マリガン、ジェイク・ギレンホールが夫婦を演じる、1960年のモンタナを舞台にした作品。
背景に広大な山々が映り、手前に鉄道が走っていくアメリカ的風景が二度出てくるが、こういった光景には無条件で身をゆだねてしまいたくなる。モンタナといえば、最近ではケリー・ライヒャルトの佳作『ライフ・ゴーズ・オン(Certain Women)』でも舞台となっていた。
田舎街を舞台に映画が描くのは、家族の崩壊である。一人息子のジョーは内向的な性格で、父(ギレンホール)のすすめで始めたアメフトでも仲間と打ち解けることができずやめてしまう。父はふとした失態と己のプライドから失業者となり、自堕落な生活をするが、好転しない現実と自分自身への苛立ち故か、山火事の消火活動に行ってしまう。残された母(マリガン)は、夫が失業中の間は何とか自分が稼ごうと奮闘するが、その夫が消火活動に行ってしまったことで、精神的均衡が崩れ、年老いた元軍人との愛人関係に興じ、息子に対してもうまく接することができなくなってしまう。
最近日本で公開されたポーランド映画の傑作『メモリーズ・オブ・サマー』を想起させる物語(ノリノリでダンスする母親と気が乗らない息子を対比する描写など瓜二つだ!)だが、しかしむしろこれはアメリカ映画の得意としてきた家族映画の系譜に連なる作品として見るべきだろう。内向的な少年と家族の崩壊という物語はむしろ『普通の人々』を思わせる。
結論として、とてもいい映画である。ラストも泣かされる。が、全体として少し弱いと思う。
家族映画としては、家族を外側から見つめる視点が足りないと感じる。『普通の人々』であれば、ジャド・ハーシュ演じる精神科医がいた。あるいはルメットの『旅立ちのとき』。ピアノ教師がリバー・フェニックスを見出し、フェニックスは徐々に自分の家庭を外側から相対化する視点を獲得していく。
家族の外部から、家族を見つめなおすための立ち位置が、この映画には欠けている。
おそらくビル・キャンプ演じる老紳士が、その役割を負うべきであったが、キャリー・マリガンに現を抜かすだけのあまり魅力のない老人に過ぎないのが残念である。あるいは写真屋の店主にもそうした立ち位置につくチャンスがあったであろうが、映画は二人の関係性については深く掘り下げようとしない。これはもったいない。
その結果、映画はある種のロマン主義的な、「ここではないどこか」を探して彷徨う人々を映し出して良しとしてしまう。仕事を探して転々とする家族の生活、キャリー・マリガンの「早く目を覚ましたい。でもどこから?どこへ?」というセリフ、ビル・キャンプが青年に話す「天使の舞い」の逸話。目の前の重い現実から逃げたいけど逃げられないというベルイマン的な主題が、あまり新鮮味を持たぬまま反復されてしまうのは、いかがなものか。もちろんラストショットにそれを超えようとする意志を感じることは可能だが。
前述したポーランド映画『メモリーズ・オブ・サマー』に見られたような、「夜中に愛人に会いに行くであろう母親を尾行する過程で、遭遇した鹿に魅入られて尾行など忘れてしまう」というような、物語構造を揺さぶるようなオルタナティブな視点がここにはない。
(その意味で、C・マリガンとB・キャンプの情事を少年が窃視するという展開とその見せ方は、ややありきたりなそれに留まっていると言える。)
急いでフォローしなければならないが、オープニングの庭のシーン(木の存在が素晴らしい)、ギレンホールがトラックに乗って出ていくワンシーンのとてつもないエモーション、放火騒動のあとに息子が寝室へ行き、夫婦がダイニングに残されるのを家の外から撮ったショットの素晴らしさなどなど、撮影監督ディエゴ・ガルシアとのコラボレーションは本当に見事であり、P・ダノは今後もたくさん撮っていってほしいと思う。
久しぶりにキャリー・マリガンの本気を見れたことも大いに満足。