監督:黒沢清
康子(竹内結子)が西野(香川照之)の家に一人で挨拶に行くシーンがある。そしてその次のシーンで高倉(名前不明:西島秀俊)が日野市事件の現場の家を訪れる。その次のシーンで高倉が帰宅すると、カメラはそのままカットを割らずに、やや乱暴なカメラワークで料理中の康子を映し出す。
この一連の流れは重要である。
改めて振り返ってみる。
まず、康子と高倉が日中それぞれ、"家"を訪れる。それぞれのシーンで、門を手前に配して彼/彼女を映したショットが提示される。
どちらのシーンでも、一度門は開けられる。
だが二人とも、その門に入っていくことはない。
ここでは二人とも、「不吉な場所に入る」という決定的な出来事を回避する。二人はまだ無事だ。
帰宅した高倉は、「持続したショット」によって、康子との絆をギリギリ保持している。
一方で、康子が失踪した犬を追いかけると公園で西野がその犬と一緒にいるというシーンがある。このシーンで、西野が「僕と旦那さん、どっちが魅力的ですか」と詰め寄るシーンがあって、ここ、持続したショットで二人が画面におさまるように撮られている。ここでまさに、高倉と康子の脆い絆を、西野が本格的に壊しにかかっているのは明らかだ。
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監督本人の発現によれば、ラストの「叫」は竹内結子のアドリブらしい。それにしてもこのラストは感動的だ。
近年の黒沢清のホラー映画というと、主人公がどこかで「幽霊」なり「異世界」に魅了されて、恐れながらもだんだん近寄ってしまう、という面白さがあった。というかそれが個人的には黒沢ホラーの最も面白い点で、逆に『リアル』では佐藤健がショッキングな光景を見るとイチイチ目を背ける、というのが何ともつまらないと感じた。
『回路』の小雪が最も象徴的だが、何とも不気味に悟ったような笑顔で幽霊に近づいていく姿、というのが黒沢ホラーにおいては観客を「置き去りにする」重要な機能を果たしていた。
本作はどうかというと、西島秀俊や東出昌大(怪演!)は、刑事の"業"によって、ついつい犯罪現場に近づいてしまう、という風に描かれている。また、竹内結子はそのお人よしの性格ゆえなのかわからぬが、知らず知らずに香川照之に近づいてしまう。
で、この近づいてしまうという過程が、これまでの黒沢ホラーに比べると、視覚的には抑えられた表現になっている。あの「思わず見入ってしまう顔」がここにはなく、あくまで内面的な変化を行動によって丹念に繊細に描いている印象がある。
それは、視覚的なインパクトや「観客を置き去りにする」という機能を果たさない一方で、ラストを極めて説得的で感動的なものにする。
つまり、「こっちの日常」から「あっちの非日常」に行ってしまうその契機が繊細に語られる分、そこから戻ってくるその「重み」がしっかりと響いてくる。
行って戻ってきた。行ってしまって、そして戻ってきた。戻ってきたからこそ、行ってしまったことの恐ろしさが衝撃的な残酷さでのしかかってくる。その残酷さに耐えきれず、竹内結子は絶叫する。素晴らしすぎる!
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ドローン撮影はとっても印象的でよかった。
手前と奥に人を配して、中央で出来事を描くという構図が多用されている。
画面の見応えが相当ある。香川照之の初登場シーンなんて、陰→日向→陰と移動して、最高にインパクトがある。