虚構と現実が対比される。
それは映画と現実の対比にとどまらず、主人公であるマルゲリータの回想や衝動的空想と現実の対比としても描かれる。
この映画において現実と対比される「虚構たち」はどういった存在として描かれているのだろうか。
たとえば映画内映画、すなわちマルゲリータが撮影している政治映画は、冒頭からスタッフの協調性に欠けており、なかなかうまく進まない。そこにジョン・タトゥーロが入ってくることで、ほとんど撮影現場は崩壊寸前に至る。
つまり虚構の制作は、全くうまくいかない。「アクション!」とともに出現する虚構は、あまりにも早く「ストップ!」してしまう。その都度、マルゲリータは現実に引き戻されてしまう。
虚構の制作が失敗するたびに、苛立たしい現実がゆっくりと彼女の心をかき乱していく。
映画内映画とは別に、彼女の妄想なのか回想なのかわからぬが、いくつかの「虚構」が挿入される。
最初のそれは極めてユニークで、ヴェンダースの映画を上映している映画館に大勢の人が列をつくって待っているというものだ。そこでは彼女に対して苦言を呈する兄が出てくるという面はあるものの、映画全体においてはかなりdreamyで美しい情景として示されているように思われる。だからこのシーンが唐突にカットされて現実場面に戻るとき、これもまた現実に引き戻された、という感覚を覚える。
だがしかし、これ以降の「空想/回想」については、かなり悲観的である。車を壁にぶつけまくるシーンや母親が病院を抜け出してしまうシーンなどがそうである。
また、母親がすでに死んでしまっているという「夢」はマルゲリータの「不安」を反映しているように思われる。記者会見で何人もの記者が同時にしゃべってくるシーンはマルゲリータの「焦燥感」を感じさせるものである。
これらの統一性のなさはそれ自体では問題ではないが、一方でそれほど映画全体を活性化させているわけではなく、やや中途半端に感じられる部分もある。
さて、マルゲリータがその都度連れ戻されてしまう現実、その苛立たしく、重苦しい現実はどのように描かれるのか。
上記の通り、「映画の撮影」がその一端を担う。
ジョン・タトゥーロが現場をひっかきまわしてしまい、現場をコントロールするはずの映画監督は、ここでは完全にコントロールを失ってしまっている。
その他のシーンでも、現実は容赦なく、唐突で無慈悲なやり方で彼女の心をかき乱す。「いつの間にか」家の中が水浸しになっていること、「いつの間にか」母親の容態が急変して気管切開されていること。。
周囲をコントロールする力を失い、なおかつ不条理の速度で進んでいく現実に追いていかれそうになり、自分自身の感情すらコントロールできなくなってしまう。
これは近年ではオリヴィエ・アサイヤスの『夏時間の庭』とも通底するテーマである。『夏時間の庭』においては、死んだ母親の長男であるフレデリックが、自分の周囲のコントロールを失い、つねに後手に回ってしまう存在として描かれている。本作では当然マルゲリータがその存在を引き受けているといえよう。
現実は思ってもみないテンポと速度で、人々を追いていく。しかしながら映画自体はとてもゆっくりとした時間の中で描かれており、その緩やかさに魅了される。
ジョン・タトゥーロのオーバーアクトは、まったく嫌な感じがしない。とっても可笑しい。
素晴らしい映画。