2015年6月13日土曜日

海街diary

監督:是枝裕和

前作『そして、父になる』では、子供が撮っていた福山の寝顔の写真を、福山自身が発見することで、福山は何かを感じとっていた。つまり、カメラの写真が映画のひとつの重要なアイテムであった。
にもかかわらず、『海街diary』では写真という写真が省略されている。広瀬すずが走って持ってくる父親の形見の写真は、ついにスクリーンに映ることがない。家の中に飾ってある”はず”の姉妹たちの祖母、祖父の写真も、ついにスクリーンに映ることがない。映画内で死ぬことになる二人の人物の遺影も写されない。

さて、『そして、父になる』以前の是枝監督の作品を見ていないので、大きなことは言えないが、しかしこのことは『そして、父になる』からの流れからして、決しておかしくはない。
なぜなら、『そして、父になる』で重要だったのは、写真という「思い出」ではなく、カメラという「まなざし」であったからだ。福山がカメラのメモリに残された自分の写真を見て感じ取るのは、「息子のまなざし」なのだ。
そうであれば、この映画においても、是枝監督は『そして、父になる』同様、”思い出”には興味がない。重要なのは”まなざし”である。

たとえばこの映画においては、二人の人物の別れ際に、必ずと言っていいほど、片方の人物が振り返る。
大竹しのぶは、駅で綾瀬はるかと別れる際に、立ち去ってからもう一度彼女の方を見る。
堤真一は、浜辺で綾瀬はるかの元を離れる際に、もう一度振り返り、手を振る。
花火の夜に前田旺志郎と別れる広瀬すずは、去り際にもう一度彼の方を振り返る。
何かが名残惜しそうに、終わっていく。そのような感触が、映画に刻まれているようにも思える。それは、近年まれにみるシンプルで美しいアヴァンタイトルにおける、長澤まさみの”振り返り”によってすでに予感されている。
逆に大竹しのぶが姿を現すシーンにおける視線の泳ぎ方なども印象的だ。


映画全体としては、美しい瞬間や出来事、エピソードの積み重ねの合間に、時折暗い影が見え隠れするような構造で(暗い工場の夫婦、食堂の顛末、夏帆が働く店の店長、長澤まさみの恋人の顛末、、)、何らかのドラマの展開を期待させるのだが、それらは特に掘り下げられることはなく、むしろ最終的には広瀬すずの”私の居場所問題”にドラマが収斂していくのは、なんだか安易な感じもする。
たとえば綾瀬はるかと堤真一の関係性にしても、いくらなんでもあっさりしすぎではないか。

一方で、一見善良そうな体裁でありながら、広瀬すずの飲酒やヌード(!)、長澤まさみの露骨なセクシーショットなど、なかなかしたたかな映画でもあるだろう。広瀬すずの爪に長澤まさみがマニキュアを塗るシーンは、『ミツバチのささやき』を想起した。

また、序盤の、葬式に向かう電車に座る長澤まさみと夏帆の顔に当たる光、あるいは広瀬すずを後ろに乗せて前田旺志郎が自転車を漕ぐシーンなど、ちょっとビックリするぐらいに美しいシーンもある。後者のシーンなどは、本当にただこれだけで泣けてしまった。