監督:イングマール・ベルイマン
ベルイマンはテレビ映画などを入れると30本以上の映画を撮っている人で、また年代によっても作風がかなり違っていることから、容易にベルイマンについて語ることはできないはずで、僕自身まださらっと十数本を見ただけなのだが、しかしこの『ファニーとアレクサンデル』は、ベルイマンの集大成!という印象を非常に強く感じた。
たとえば”牢獄”というメタファー。エクダール家もある種の牢獄であるが、エミリーが嫁いだ先の主教の家もまた牢獄であるし、また子供たちの避難先にも文字通りの牢獄が存在し、そこに謎めいた美青年が住んでいる。
ベルイマンの映画を見ると、いつも、人生は牢獄だ。と思ってしまう。あちらへ行ってもこちらへ行っても、地獄が待っている。そこからは抜け出すことはできない。
『冬の光』を見れば良い。どこへ行こうとも救いはなく、神は沈黙したままだ。
『恥』もまたそうだ。どこへ行こうと待っているのは暴力とモラルの荒廃だ。
『叫びとささやき』では、部屋を行ったり来たりせわしなく動くが、どの部屋でも重たい重たい現実があり、それに気づいたとき、扉はなかなか開かぬ扉としての存在感を増す。
『蛇の卵』もまた、荒廃したドイツではどこに行こうと暴力があり、やがて主役二人は文字通りの牢獄に閉じ込められる。あるいは警察の尋問中に逃げ出したデヴィッド・キャラダインの顛末を見れば、その”逃げ場のなさ”が見て取れるだろう。
あるいは『狼の時刻』においても、そうしたモチーフは見て取れると思う。
「人生という牢獄」に抵抗する手段は様々である。
『恥』で夫婦はお互いに見た「夢」について語る。戦前の美しかった街並み、人生に思いをはせるのだ。
『叫びとささやき』では死体がよみがえる。
また『不良少女モニカ』や『夏の遊び』は、島での生活そのものが「現実からの逃避」という儚い抵抗であった。
本作『ファニーとアレクサンデル』においても、夢、亡霊、幻覚、読み聞かされる物語、といったモチーフが横溢しており、さらに言えば、終盤の主教の屋敷と謎の美青年の住む牢獄を交互に映し出し、それらが互いに共鳴しあうという見事な並行モンタージュによって、イメージが現実を超える瞬間すら創出してしまっている。ラストのセリフは「想像力によって空間と時間を超える」だ。
まさしくファンタジー映画として『ファニーとアレクサンデル』は君臨している。
しかし現実とファンタジーに対するベルイマンの視線は極めてシニカルなものだといえる。
主教との再婚は、人生の悲しみから救われるためのエミリーの決意だったが、その決意は見事に裏切られ、さらなる牢獄が待っていた。しかしその牢獄においては、幻覚さえも時には敵であり、実際、かつて屋敷に住んでいた女性たちの亡霊はアレクサンデルに露骨な敵意を示し、アレクサンデルを追い詰める。
そこはまさに地上の地獄と言ってよい空間であり、エミリー、ファニー、アレクサンデルはやっとの思いでそこを抜け出すわけだが、3人が戻ってきた場所とは、そう、エクダール家だ。
それは第1章で描かれるように、人間の醜悪さ、みじめさ、強欲さが凝縮されたような空間だ。そこに戻ってくることが、この映画における「ハッピーエンド」なのだから、全く現実とは救いようがない。(アレクサンデルの元にはあろうことか、死んだ主教の亡霊までもがつきまとうことになる!)
上でもふれた第一章の一家の描き方が全く素晴らしい。自暴自棄のあまり妻に暴力をふるうカール(妻を突き飛ばす瞬間のカッティング・イン・アクションがすごい)、性欲がとどまることを知らぬグスタヴ(セックス中にベッドが外れるシーンのバカバカしさ!)。
夫(オスカル)を亡くしたエミリーの絶叫も、決して彼女の姿を大映しにせず、ドアの隙間からだけ彼女の姿と夫の亡骸を捉えるという演出が極めて優れている。
オスカルの死に際のベッドサイドの演出も濃密なことこの上ない。
悲しむエミリーに主教が手を差し伸べる瞬間の演出が大変すばらしい。ここでは、涙を流すエミリーの首元に後ろから主教が手を差し伸べ、彼女に触れるかどうかというタイミングで、劇的なチェロの音色が挿入される。
さて、その後、主教がアレクサンデルを説教し、ムチを打つシーンがあるが、ここでそのままアレクサンデル主教の部屋を出たあと、残されたファニーの顔に、同じように主教が手で触れようとする。ここでファニーはサッと顔をそむけて、主教の手を拒むのだ。拒まれた手の震えを捉えたクローズアップがすごい。
書ききれないぐらい見事な演出、演技の数々であり、この映画ほどあっという間に終わってしまった映画はない。