監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
小屋の中で偶然見つけた赤ん坊の父親がこっちをジロリと見ているショットだとか、あるいはフェイ・ダナウェイの消息がつかめず途方にくれるマストロヤンニの主観ショットで、ダナウェイにもらったドレスを着て喜ぶ使用人を映したショットだとか、「どーでもいい」けど楽しくて仕方ないシーンを仕掛けてくるのは、デ・シーカの素晴らしさと言っていいのだろう。それにしても楽しい映画だ。映写機の前で”Ti Amo!!”と叫びまくるシーンなんて、その悲劇性以上にそこまでやってくれれば何も文句ありません、と言いたくなるようなぶっ飛び方だ。
さて、この映画では扉の開閉が全部で10回ぐらいしかない。二人が宿泊する丘の上のコテージは、多くの場合、扉が開かれ外とつながっている。
初めにダナウェイが泊まる屋敷では、オープニングでダナウェイが中に入るまで、扉を3回にわたって開けるわけだが、ここでマストロヤンニが屋敷に来てからを検証してみよう。
マストロヤンニが屋敷に現れたとき、既にマストロヤンニは門を開けており、こちらに歩いてきている。その後二人は、屋敷の中に入るが、このとき扉を開けるショットは省略されている。さらに、ダナウェイが昼寝するとか言い出して、マストロヤンニが帰ろうとするあたりのシーンを見てみると、まずマストロヤンニが外に出て、扉を閉める。そこからカメラはかなりの時間持続せしめ、マストロヤンニをフォローする。そしてマストロヤンニの主観ショットで、ダナウェイがいるであろう二階の大扉を映す。すると二階ではダナウェイがランジェリーを着て、マストロヤンニを見送ろうと(?)その大扉を開くと、マストロヤンニがいない。しかし車がある。そうしてダナウェイが一階に降りてみると、マストロヤンニがカウチで寝ている。つまり、マストロヤンニは物音立てず、再度ダナウェイの屋敷に侵入していたことになる。扉を(ショットとして)介さずに二人は接近していく。
なんにしろ、この二人が最初に結ばれるまでの演出はめちゃめちゃ素晴らしい。
さらに言えば、二人が感極まって口づけと抱擁を交わして、一気に場所を替えてラブシーンに移行する編集が二度ほどされている。ここでも二人は、扉を必要としない。
サーキットではダナウェイがフェンスを乗り越えようとまでしてみせる。