1. 午前4時にパリの夜は明ける (M・アース 仏)
2. シー・セッド She Said(M・シュラーダー 米)
4. ター TAR (T・フィールド 米)次々点: 君たちはどう生きるか(H・Miyazaki 日)
1. 午前4時にパリの夜は明ける (M・アース 仏)
2. シー・セッド She Said(M・シュラーダー 米)
4. ター TAR (T・フィールド 米)(Dryden Theater 35mm)
すごいシーンが少なくとも3つある。
・父が帰ってきたシーンで、病床のベスが立ち上がってふらつきながら父のもとへと歩み寄るショットだ。直前に他の姉妹が父と抱き合う場面を映し、カットを割ってカウチから立ち上がるベスのフルショット。そのままカメラが後退しながら、前方へ歩み寄るベスをフォローする。父が画面内に入り込んだところで、抱擁。
・ベスの臨終のシーン。鳥!
・終盤近く、キャサリン・ヘップバーンが食卓から玄関へと進む瞬間、カットが割られて、カメラは玄関口に置かれる。ヘップバーンが玄関の方へと一人寄ってきて、壁際の死角に隠れて、亡きベスへ向けて言葉を送る。
いずれもおや?っと思わせるカッティングが先行し、そのあとにそのショットの狙いがわかるという構成になっているのだ。
また、終盤でヘップバーン演じるジョーとローリーが2階の部屋で言葉を交わすシーンが、単純な構図・逆構図の切り返しで撮られているが、実は切り返しのショットはこのシーンだけなのではないかと思うがどうか。それぐらいここの切り返しショットが新鮮に映った。
ド名作。観客もみな笑って楽しんでいた。
(Dryden Theaterにて35mmで鑑賞)
監督:アンソニー・マン
ジョン・アルトンとマンの組み合わせとしては、MUBIの配信で見た『Tメン』しか知らなかったのだが、警察のプロモーション的な側面が濃厚な作品ではありながら、サウナで犯人を探す場面で、大量の湯気によって視界が遮られながらも、犯人がぬーっと姿を現すといったシーンが非常に印象的だった。本作でもクライマックスにおいて、霧によって視界を遮られたなかでの銃撃戦があり、こうしたところに共通点がうかがえる作品となっている。ただ、そうしたモチーフの一貫性などどうでも良いぐらい、とんでもないレベルの視覚的充実と絶妙な説話法によって、どんな絵画よりも美しく、それでいてノワールならではの毒々しい閉塞感をたたえたほぼ完璧な作品に仕上がっていると思う。
冒頭の接見シーンからして見事なカット構成だと思ったが、全編にわたって深い縦構図のショットが横溢しており、たとえばレイモンド・バーが手下の積み重ねたトランプタワーを無慈悲に破壊するショットでは、画面手前でトランプタワーがグシャっと潰されて、凄い迫力だ。
あるいはクレア・トレヴァーがタクシーから2階に上がってきて(ここに至る窓越しのサスペンスも素晴らしいが)部屋に入ったあと、奥の部屋で着替えているマーシャ・ハントと初めて対面するのだが、ここで普通なら二人のミドルショットの切り返しでも入れることが予想されるが、なんとトレヴァーが画面奥で、部屋の中のハントに軽く会釈するだけなのだ(ハントは画面に映ってもいない)。こうした語りの効率性、視点の維持は、もちろん予算による制約など非美学的要因も大きいと思われるが、それにしてもこのように想像力を喚起させるようなショットを見るのは嬉しい。
映画は非常に面白い構造をしていて、主人公は脱獄囚のデニス・オキーフだが、恋人のクレア・トレヴァーのモノローグがときどきオーバーラップする演出がなされていて、それは多くの場合、マーシャ・ハント演じるアンとオキーフとの情事(の予感)への嫉妬、あるいは絶望の言葉であり、それでいてこの映画で最も極端な変化を遂げるのがそのマーシャ・ハント演じるアンなのだ。"A littele decency"を求めて仕事をしていた彼女が、オキーフを救うべく男を銃撃してしまい、思わず部屋の外へと走っていくシーンでは、扉の外がそのまま家の裏口になっていて、そこからまっすぐと海へと続く道になっている。彼女がドアを開けて画面奥の海の方へと走っていくショットは見事というほかない。 その後浜辺で接吻したオキーフとハントだったが、オキーフは意外とそっけなく、翌朝にハントを車から降ろし、代わりにトレヴァーが向かいの車から降りてくる。二人が無言のまますれ違うのを俯瞰で撮るのだが、ここがまるでスパイ映画の人質交換のようなのだ。なんとかっこいい映画を撮るのだろうか。
それと、やはりクライマックスが見事だ。あまり見せ場がないままハッタリ野郎の印象すらあったレイモンド・バーが、実に巧妙にオキーフに一発撃ち込むのがものすごい早業で、まさに西部劇の手触りなのだが、続く炎のシーンがまた見たこともないような造形で驚いた。
監督:アトム・エゴヤン
結構久しぶりに見たのだが、やっぱりアトム・エゴヤンには圧倒的な語りのセンスがある。
てっきりエゴヤンのオリジナルストーリーなのかと思っていたが、実はアンヌ・フォンテーヌの『恍惚』(原題はナタリー)のリメイクであった。
エゴヤンとフォンテーヌでは、6対2でエゴヤンの圧勝である。
群像劇ではないのだが、人物から人物へとフォーカスが移動していく手捌きは、スウィート・ヒアアフターから微塵も衰えていない。とりわけアヴァンタイトルで、クラブからアマンダ・セイフリッドが出てくるのを俯瞰で捉えると、カットバックしてそれを窓から見下ろすジュリアン・ムーアの姿を捉える。ジュリアン・ムーアは産婦人科医としてクリニックを営んでいるのだが、オーガズムに達したことがないという患者に、「オーガズムはただの筋肉の収縮よ」と教え諭す場面が冒頭にあり、これがちゃんと伏線になっている。このクリニックやムーアの家も含めて、出てくる建物が基本的にガラス張りで、見晴らしの良い/プライバシーのない空間になっている。セイフリッドの話に出てくる植物園は、そのなかでも他人からの視線から身を隠す絶好の場所なのだということがよくわかる。こうした空間造形、視線の演出を基本としつつ、さらに各所で見事なアイデアが散りばめられている。
例えばアマンダ・セイフリッド演じるクロエの造型。『恍惚』のエマニュエル・べアールは基本的にはクールで謎めいた美女なのだが、クロエの方はちょっと子供っぽさがある。自転車でズッコケてみせる場面だったり、くしゃみが止まらなくなるところ(「亜鉛を飲めば大丈夫」)など、なかなか大胆でユーモラスな味付けがされている。ちなみに自転車でズッコケるシーンは、ジュリアン・ムーアの気を引くためにやったように見えるのだが、天然なのかもしれない。このどこまでわざとなのかわからない所作が、一番ラストに効いてくる。彼女はわざと手を離したのだろうか。
また、セイフリッドの報告を聞くために、二人はさまざまなカフェで落ち合うのだが、セイフリッドがリーアム・ニーソンといよいよ一線を超えたという話をする場面で、映画では初めて雪が降る。映画の雪は、魔法であり、虚構である。(ちなみに映画のラストは春。この時間の推移の変化も見事なものだ)
上述した特筆すべきポイントは『恍惚』にはなく、これほどリメイクした意義を感じさせる映画もない。物語上も結構要所要所で違いがあって、これは好き嫌いが別れるかもしれないが、エゴヤン版はラストショットから逆算された実に巧妙な脚本だと言って良いだろう。
ということでエゴヤンの見事な傑作だと思うが、この映画もまた、まったく評価されていないのだから、世の批評家はいったい何を見ているのだろうか。本作にしろ、またカンヌでこき下ろされた(エゴヤン自身がショックを受けたという)『白い沈黙』にしても、題材がいささか俗っぽくなったということはあっても、その演出のボルテージはいささかも衰えていないと思うがどうか。
ところで、フォンテーヌの『恍惚』はいささか中途半端な作品になっていて、上述の通りエゴヤンの圧勝だと思うのだが、しかしながら微笑するファニー・アルダンの存在感、ジュディス・マグルの弾き語りなど、フランス映画特有の抗い難い魅力があるのも確かであった。。
フランス映画界で絶好調活躍中のレア・ミシウス長編デビュー作。主演はノエエ・アビタで、傑作『午前4時にパリの夜は明ける』で神秘的な美しさをまとったホームレス女性を演じた人だ。大きな目が鋭い光を放つが、彼女は網膜色素症で間もなく夜盲症になる。そのことを医者に告知された彼女は、マフラーで目を覆って視覚に頼らずに歩くなどの訓練を始める。2作目の『ファイブ・デビルズ』でも嗅覚が異様に鋭い少女が出てきたが、視覚以外の五感へのアプローチが彼女の発想の源なのかもしれない、と考えるだけでワクワクさせられる。
さて、映画は物語の統一性よりも活き活きとした行動主義に彩られ、上記の五感モチーフも実際には大して重要性を帯びない、というところが長編デビュー作らしくて良いじゃないか。インディアンのような格好で、二人してヌーディストビーチの訪問客を次々脅して回る場面は『気狂いピエロ』を思わせるが、そのほかにも忘れ難いイメージが数多くある。最初に犬を盗むシーンの横移動と視線ショットの扱いも素晴らしいし、晴天の浜辺での仰角ショット、波打ち際の戯れなどなど。笑えるシーンもたくさんある。母親の話を聞くまいと目を塞いで歩くと看板に顔面を強打する場面、母親のセックスを子供たちを連れてみんなで覗く場面。やっぱりこの人は才能がある。
監督:アリス・ディオップ
カミュの異邦人を思わせる「身勝手な殺人」をめぐる法廷劇だが、その前段階として主役のラマ(カイジ・カガメ)のパートがある。そこでは、まず彼女はマルグリット・デュラスについて大学で講義し(女性への暴力を題材とする)、その後夫とともに実家へ赴く。実家では、まさに異邦人のごとく視線を泳がせ、座るべき場所を見つけられないでいる。特に、居間に入った彼女を、カメラが真正面のバストショットで撮るが、まるでその「視線」を避けるように、彼女はどことも言えぬ空間に自分の視線を彷徨わせる。この実家のパートは何か決定的な出来事が起こるわけではないのだが、会話は歯切れが悪く、正面で対峙した者同士の会話はなく、常に斜めでのやり取りに終始しており、これが法廷劇の構造的伏線となっているのは明らかだろう。被写体とオフ空間の関係、視線の演出が非常に繊細で、ヒリヒリとした感触が画面に横溢している。
実家を出ると、彼女はサントメールに一人で赴き、そこで行われる、自身の15ヶ月の娘を海に捨てて殺害した罪で起訴されたアフリカ生まれの女性ロランス(ガスラジー・マランダ)の裁判を傍聴する。陪審員をクジで決める場面を延々と見せるあたりから、”スローシネマ”的な志向性が前面に出てくる。初日の裁判の様子もかなりの尺をつかって、裁判長(ヴァレリー・ドレヴィル。大変充実したパフォーマンス。)とロランスのやり取りをメインに描いていく。途中、ラマを含む傍聴人のリアクション・ショットが映るが、誰がどんな人物なのかを映画は説明しない。たとえば手前に映っていた初老の男性が、その後証人として立つことで、それが誰なのかがわかる。この初老男性はロランスと同居していた人物なのだが、証言する彼を真正面から捉えたバストショットは、非常に繊細なライティングと衣装との関係が成立していて、力のあるショットだ。
さて、法廷劇のパートでは、主にフィックスショットにより、発話する主体や、その証言を聞く人々にカメラが向けられている。裁判長や証言者はほぼ真正面のショットで捉えられる。弁護士の最終弁論は完全にカメラ目線となっているが、裁判長と証人は微妙にズレた位置から捉えられている。このあたりは一貫しているが、ロランスについては、かなりさまざまな角度から捉えられており、それも初日、二日目、三日目と裁判が進展するにつれ、カメラの位置も微妙に変化する。これはやや抽象的に言えば、複数のパースペクティヴによって被告人が分析されていく流れに沿った演出上の意図とも解釈できるが、それにしても演じるガスラジー・マランダの強烈な視線が、(色調的にも)モノトーンなショットのテンションを持続させている。彼女は常に、話す相手(裁判長、検事)をじっと見据えて喋っているが、実際に犯行に及んだ日の出来事を物語るときは、裁判長の方ではなく、(その日の光景をありありと思い出すように)斜め上の宙を見つめながら話している。それに聞き入る裁判長の瞳がわずかに潤んでいる、というような視覚的なドラマが同居している点にも言及しておきたい。
さて、冒頭述べたように、ラマは「人見知り」で、他人の視線を恐れているように見える。それはひょっとすると、最初の講義のシーンでデュラスのモノローグを読み聞かせるとき、スクリーンが壇上にいる彼女を隠す機能を持っている(彼女は生徒たちの視線を避けながら朗読している)という点にも表れているのかもしれないが、裁判の後半になって、ラマとロランスの視線が交錯する、思わず息を呑むような瞬間がある。これは、観客にとってもロランスの視線を初めて(そして唯一)受け止めるショットになっていて、ともすれば全体のトーンを壊しかねない賭けのようなショットだが、結局このショットがあるからこそ、本作はヴェネチアを席巻したのだろう。まったく見事なシーンだ。ラマはロランスの視線に「曝され」、精神の均衡を揺さぶられることになる。しかし最後の最後に、傍聴席のラマを真正面から捉えるショットが挿入される。このような構造的な巧さが、映画の緊張感を最後まで持続させていると言って良いだろう。
裁判と裁判の合間に、サイドエピソードが挿入されるのだが、こちらも実に的確なカメラワークとフィックスショットの使い方をしていて、たとえば初日の裁判のあとに、ラマが被告人の母親の元へ歩み寄っていくショットが見事だ。この被告人の母親も大変なくせ者で、ショットのたびに印象が変わるように構成されている。レストランで、ラマがハラミを頼んだ途端、「そんなに食べるの!?」と驚く場面は笑ってしまった。だが、彼女が証人として立つ場面は実に厳しいシーンとなっている。
実際の法廷での証言記録をそのままセリフとして採用しているという触れ込みだが、パリ大学の教授の、「アフリカ生まれの大学生が、20世紀初頭のヨーロッパ哲学をやるなんておかしいですよ」という差別的な発言も実際のものなのだろうか。
さまざまな映像素材の活用も特徴的。戦時中のナチスに占領されたフランスで髪を剃られる女性たちの映像、テレビの映像、パゾリーニの『王女メディア』のフッテージ、子供時代のホームビデオの映像、1分程度の回想シーンなど。これらのイメージが映画に厚みを与えているかというとやや疑問が残り、個人的には力強い法廷劇と合間のサイドエピソードだけでもよかったのではないかと思った。
完全な感想文となってしまうのだが、この映画にあっては、人物や車の動き、人が部屋を出たり入ったり、横切ったり、カーテンを開けたり、それをカメラがパンでフォローしたり、ドリーで追ったり、といった断片的な運動の集積を、観客としてただ見ているということに理由もなく喜びを感じ、別にそれ以上を望まずとも、160分の長丁場を楽々と過ごしてしまえた、ということにつきる。
●学校に来たブランシェットが、ペトラを送り出してから、反対方向にいるいじめっ子ヨハンナの元へと歩いていく。画面奥には、反対方向に歩きつつも、ブランシェットの動線を見守るペトラが映っている。
●トイレにやってきた人物がそのままトイレの個室に入ると、画面奥の洗面台の前にいたブランシェットが、手前に移動したあとに、下から個室を覗こうとする。これが直後のオーディション場面の伏線となり、足音で直感したブランシェットが、いったんつけた評価を消しゴムで消す。消しゴムで消す音もしっかり録音されている。
●家に帰ったブランシェットがニーナ・ホスと対面する。薬をとりにいったフリをして画面奥左から、画面手前に来て、右側の洗面台へ。それから薬をとってきた素振りで再び画面奥左へ進み、ここでカットして、反対側からのポジションからのショットになり、いったんブランシェットが画面手前側の部屋に消えて、音楽を再生し、二人で抱き合って、キス。奥には赤い照明。
●最も込み入っているシーンでは、玄関のドアをどんどん叩く音がして、ドアを開けると隣人が憔悴した様子でブランシェットに来るように要求する。部屋に入って左側へ進むと、便失禁をした老婆が倒れている。ブランシェットが隣人と一緒に老婆を持ち上げてポータブルトイレに乗せる。カットが割られると、ブランシェットが服を脱いでゴミ箱に捨て、一生懸命体を洗っている。するとベルが鳴り、急いで服を着て開けると、髪の濡れたソフィー・カウアーがいる。その後車でいささか冗談を言い合ったあと、別れ際にくまのぬいぐるみを忘れたことに気づき、ブランシェットが彼女の消えた廃墟のようなアパートへ進むと、暗い通路に迷い込み、後ろから獣がこちらをうかがっている。恐れ慄いたブランシェットが走って外に出ようとして、右に曲がって階段を登るが、登り切る直前に足を引っ掛けて、顔面を地面に打ち付ける(顔面自体は画面手前に映る壁によって見えなくなっている)。すぐにカットが割られると、キッチンで氷を叩き割るブランシェットのショットに切り替わり、手前からニーナ・ホスがやってくると、怪我をした顔をこちらに見せる。ニーナ・ホスがそれを見てギャッ!と驚く。その後、窓辺で休んでいると、ペトラが「四つ足歩行」で彼女の元に歩み寄ってくる。
●このシーンとは反対に、ブランシェットがニーナ・ホスに驚かされるシーンもある。ブランシェットがニューヨークから帰ってきたあと、手前からニーナ・ホスが現れると、ブランシェットがギャッ!と驚く。
●また、ニューヨークにおいて、ホテルに帰ってきたブランシェットとカウアーが、エレベーターを降りて反対側に進む。ブランシェットが夕食に誘うが、カウアーはそっけなく断る。その後、ブランシェットがTwitterを見てると、若干スキャンダラスな動画が流れ、動揺して薬を飲もうとするが水がないため、水を取りに部屋を出る。カメラが滑らかに右側にパンすると、ちょうどエレベータに乗り込むカウアーの姿が映る。
●学校の前でブランシェットがペトラを迎える。後から赤いコートのヨハンナが親と一緒に画面左へと歩いていく。そのあとニーナ・ホスがやってきて、ペトラを彼女から引き離して、画面右側に立ち去っていく。これを車の窓越しのフィックスで撮る(ここは凄くミヒャエル・ハネケっぽい)
●ブランシェットが外出しようと階段を降りている間に、隣の家の老婆と思われる遺体が運ばれてきたため、踊り場でブランシェットがそれを避ける。カメラがパンして階段上を映すと、隣人がそこにいる。
●隣人の家族が騒音のクレームを言いにきたシーンで、ブランシェットが最後に扉を閉めてしまうのだが、家族(妹?)の左手がそこに映り込んでいる。
などなど、挙げたらキリがないのでこのへんで。
ちなみに物語との関係で言うと、
ブランシェットは赤毛に弱い。悪夢の中でブランシェットの顔に手をかける(ベルイマンの『ペルソナ』を思わせる)赤毛の女性は、クリスタ?それともオルガ?
ペトラに書斎に一人で入らないように注意するシーンがあり、ペトラは入ってないと言うが、義母が家を訪れているシーンでは、ペトラが書斎でカーテンの影に隠れている。一人で入っているではないか!
ちなみにこの映画の物語を、キャンセルカルチャーについての映画と理解することは私には難しい。確かにキリトリ動画によって窮地に立たされる映画ではあるものの、映画はその「起承転結」をかなりズタズタに断片化して提示しており、その明らかに断片化されたものについて、各々が想像力を働かせてピースをつないでいくことは重要だが、結局リディア・ターなる人物が過去に何をして、果たして本当にキャンセルカルチャーなるものの犠牲になったのかどうかという点は、不問のままである。
そして、私には、とっかかりの主題として確かにそうした現代の趨勢をテーマとしつつも、トッド・フィールド自身は、それらをめぐって人物が右往左往する、その運動にのみ興味があったのではないかと思いたくなる。それほどまでに透明な運動と発話の連続で成立している映画であるし、是非一度、この映画の字幕をまったく読まずに、画面で展開される線と面の運動を注意深くみることを推奨したい。それはカンディンスキーの美しい抽象画を見るような体験になるだろう。