2021年12月25日土曜日

2021年公開映画ベスト

今年はあんまり見れなかったので5本まで。

 
 1. アイダよ、何処へ?
 2. パワー・オブ・ザ・ドッグ
 3. 水を抱く女
 4. プロミシング・ヤング・ウーマン
 5. 約束の宇宙
次点:17歳の瞳に映る世界
次々点:この世界に残されて


主演男優賞:フランツ・ロゴフスキ(水を抱く女)
主演女優賞:キャリー・マリガン(プロミシング・ヤング・ウーマン)
助演男優賞:レイモンド・ティリー(アイダよ、何処へ?)
      中島歩(いとみち、偶然と想像 第一話
助演女優賞:霧島れいか(ドライブ・マイ・カー

特別賞:SLEEP マックス・リヒターからの招待


旧作では久しぶりにアントニオーニを見直した。『情事』が破格の名作であった。あと、『赤い砂漠』も素晴らしい。色彩で心理を表現、というとバカみたいだが、しかしこの映像表現には痺れるしかない。
映画館ではブレッソン『バルタザールどこへ行く』、ロメール『昼下がりの情事』が忘れがたい。

2021年12月20日月曜日

偶然と想像

 監督:濱口竜介

『ドライブ・マイ・カー』で思ったように、やはりこの人の映画って、人間ばかりが目立っていて、周辺の小道具とか装置に全然興味が持てない。ぶっちゃけホン・サンスは好きではないものの、何となく食い物とか、窓枠とか、そういうのが頭に残ったりする。本作で真っ先に比較したくなる(が、ぶっちゃけ全く違うと思う)ロメールにしても、例えば『美しき結婚』でベアトリス・ロマンがあーだこーだ言ってるときに目に映るのはアリエル・ドンバールが手掛けるアート作品だったりする。
なので、いくら良くできたお話でも、観念的な印象をぬぐえず、映画としての体温を感じない。というかこれなら、スクリーン見なくていいじゃん(白状すると何度か視線が滑って劇場の非常口のマークを見てしまった)。

あるいは映画において偶然というのはそもそも、モノの予想もつかぬ動きによって人間が衝突する、というものではなかったか。ということを総論として思った。

ただ全体として、相手のコンフォートゾーンに土足で侵入する横暴ぶりと、一歩踏みとどまって引く男気の両面をうまく見せていると思う。それと、こいつが主役と見せかけて、あ、あなたが引っ張るのね、という意外性の出し方も上手。

さて、

第一話。
『いとみち』にも出ていた中島歩の芸達者ぶりというか、受けの演技が素晴らしい。
このエピソードのキャラ設定が一番ロメールっぽい。(『パリのランデブー』の第一話だね)
古川琴音が最後に見せる「男気」が良いじゃないか。実はこのエピソードが一番楽しめた。
ただ、中島のオフィスは空間としてあまり面白みがないのと、声がやたら響くように設計されているのだけど、なんせセリフがめちゃめちゃ多いんで、だんだんこの音響が煩くなってくる。


第二話。これ、最低。全然面白くもないし、5年後とかどうでもいいよ。
言語化可能な領域の外に出る力とかさ、うるさいって。刺さる人には刺さるのだろうが、私には何も関係がない。これなら宮台真司のデイキャッチャーズボイスでも聴いてた方がマシよ。内側からの切り返しもこれ見よがしで嫌だったね。


第三話。10年前の震災のとき、ちょうど『ヒアアフター』が公開されていたことを思い出した。ヒアアフターの主題をより捻りを効かせて、得意分野に持ち込んだような見事なエピソードだ。偶然の再会のシーンがツァイ・ミンリャンの『河』を思わせる。
花壇から仙台駅までよく歩きますね。あと、定禅寺通りのあそこは道じゃない!(笑 それはいいですが、せめてあそこの銅像とか映せばいいのに!(笑))
河合青葉が息子が好きなフィギュアに全然興味が持てないとのことだが、なるほど濱口も興味がなさそうである。知らんけど。

第三話はヒアアフターを思い出しつつ、ペッツォルトの『あの日のように抱きしめて』も思わせる。というか、濱口とペッツォルトのテーマには共通点が多い。自分の好みとしては断然ペッツォルトだが。

全話とも、あまり時間の変化がない。
いろいろ話し合って、気づいたら夜だなぁ、とか、歩き回って気づいたら朝だなぁ、とか、そういう時間の推移がないのが残念、というか致命的な気もする(観念的な印象ってこういうところからも来る)。

ちょっと言い過ぎた。いや、もうすでに「世界のハマグチ」なので何言ってもいいだろ的浅ましさで書いたのだが、これだけ(無名ではないが)「非有名俳優」を集めてそれぞれに個性的なパフォーマンスをひきだしている事については拍手。日本にはまだまだこれだけ魅力的な俳優がいるぞと、そういう事を教えてくれるという意味で、大変貴重で重要な作品であることは間違いない。まぁちと好みが・・・(苦笑)




2021年12月16日木曜日

パワー・オブ・ザ・ドッグ

(だいぶネタバレ) 
監督:ジェーン・カンピオン

これほどギリギリでおチンチンを見せない映画も珍しいのではないか。
圧倒的強度でおチンチンを撮ってみせた『ペイン・アンド・グローリー』とは逆の味わいである。
というのはさておき、、

100点満点である。
マチズモと去勢不安の精神分析的な読みをされる方もきっといらっしゃるだろうが、まぁそれは良い。
とにもかくにも第一級の物語映画である。これは映画史に残るのではないか。
ストーリーテリングとはこうするのだと、一から教えてもらうような、幼稚園の先生に絵本を読み聞かせてもらうようなワクワク感を最後まで堪能した(たっぷり毒の効いたお話であるが)。
例えば冒頭、馬で移動中のB・カンバーバッチとジェシー・プレモンスの対話。カンバーバッチが何を言っても無反応なプレモンスに対し、カンバーバッチはすっと馬を前に出して、後ろを振り返り、ぎろっとプレモンスの方を睨む(もちろん仰角ショットで)。
あるいは、K・ダンスト演じるローラと息子(コディ・スミット・マクフィー)とのやり取り。彼が手作りした写真集や紙の花を愛おしむ様子を見せつつ、直後に、フライドチキン用に鶏を調達すること、今夜は床で寝てもらうことを、いささか苛立たしそうに息子に告げる。
少し飛ばそう。J・プレモンスがK・ダンストのレストランを再度訪れる場面。ダンストは忙しさと騒がしい客にいら立っており、プレモンスとしてはタイミング悪く訪問してしまい、バツが悪い。しかしそこでプレモンスが機転を利かせて、見事に客を静かにさせる。それをドア越しに見て「やるじゃない」とばかりに微笑むK・ダンストのアップショット(※)。


もう少し先のシーン。K・ダンストとプレモンスの夫婦が、幸福な朝を迎える。プレモンスは、サプライズがあるから待っててとダンストに告げて外出する。するとその後のシーンで、プレモンスと農場の人間達がピアノを運んでくる。ダンストにとってそれは思いがけぬプレゼントだが、彼女に笑顔はなく、むしろ困り果てた様子である。

さらに飛ばす。カンバーバッチが秘密の場所でブロンコ・ヘンリーのサインの入った生地を身体に滑らせて恍惚としているシーン。このあと彼は川に飛び込み、日光を浴びながら自身の体に水をかけているが、ふと後ろを振り返ると、C・S・マクフィーがこちらを見ている。不覚をとられたカンバーバッチは、興奮して怒鳴り散らしながらマクフィーを追いかける。
あるいは、プレモンスがカンバーバッチに風呂に入るよう告げるシーン。
あるいは、詳しくは語らないがウサギをめぐるシーン(※2)。

上記したシーンのいずれも、シーンの最初と最後で、その空間が大いに変化している。ポジティブに思われた関係性や人物の内面世界に、鋭く亀裂が走り、人物の感情は高ぶり、空気や関係性が変化し、しかもそのままサッとシーンを終わらせてしまうのである。断片的なエピソードを、常に不和と唐突さを以て、いわば傷をつけたままサッと終わらせる事で、観客は思わず次の展開を固唾をのんで見守ることになるだろう。まさにこれこそが一流のストーリーテリングであり、脚本だけにも編集だけにも還元できない、映画の話法である。
こうして、あえて切断させながらエピソードを積み重ねていくことで、次第にこのニュージーランド=モンタナ(!)の広大な空間が、様々な感情が激しく入り乱れる意味空間となっていく。
その中で、K・ダンストは、先住民の手袋をつけたまま全く見事に気を失うだろう。
カンバーバッチとマクフィーは、善悪を超越した刹那的戯れを演じることだろう。
初めて肌を接触させる二人の周囲を回るカメラワークは、何度同じようにぐるぐるカメラを回してもC・ノーランやトニー・スコットには決して到達できぬ達成を見せている。
そこには扱う階級は違えど、そう、まるでジョセフ・ロージーの最良の作品のような、濃密で毒々しい、陶酔すべき時間が流れている。
そして呆気ない幕切れを飾る、簡潔で美しいラストショット。これが2021年の映画か?
まるでハリウッド黄金期だ!(一見ハッピーエンディングだが、ニコラス・レイの『孤独な場所で』さえ思わせる決定的な分断線が引かれている。)
決して派手な事は起きない130分だが、人間の本能を刺激して止まない、あっという間の130分である。


(※) このシーンは、不和によって亀裂が走る、の正反対だが、いずれにしても、関係性を変化させる出来事によって、ぐっと感情が高まるタイミングで、潔くそのシーンを終えてしまう、その手さばきの素晴らしさは共通している。

(※2) ここもあえて、トーマシン・マッケンジー演じる使用人が意気揚々と人参を持っていく展開によってショックを高めていることに注目したい。


文脈的に書くところがなかったのだが、ダンストがプレモンスに即興でダンスを教える場面は何という美しさだろう(一人じゃないって、素敵な事ね~♪)。


備忘録
・山の形状が吠える犬に見えるというのだが、わからなかった。なかなか面白い視覚の表現で、主役二人と観客の間に一線が引かれる。
・動物の表現。うさぎは2回出てきて2回とも殺される。カンバーバッチが馬を「この雌馬!」と言って厩舎から追い出すシーンがある。牛の去勢シーンがある。
・カンバーバッチの役は実はラテン語を喋る教養人という設定。知事夫妻の教養マウントにK・ダンストが固まってしまうシーンなどのいやらしさ。


2021年11月20日土曜日

『ビースト』と『あるいは裏切りという名の犬』

 フランスで元警官という経歴を持つオリヴィエ・マルシャンが監督した『あるいは裏切りという名の犬』を、リメイクした韓国映画が『ビースト』である。
ふたつ合わせて、『ビースト、あるいは裏切りという名の犬』とオリヴェイラの映画みたいになるな、というのは置いといて。

『ビースト』を劇場で見て、その後DVDで『裏切り~』を見たが、後者から触れたい。

ダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューという、ソース顔二人の共演映画なのだが、これが非常に良く出来ていて驚いた。マルシャンの映画はその後も意味不明な邦題シリーズの犠牲になっていて、最近は日本では劇場未公開で配信スルーという状態のようだから、必ずしも固定ファンの獲得に成功していないのかもしれぬ。しかしこの映画はかなりタイトにまとまっていて、リアリズムの追求がある種の洗練、簡潔性の美学に高められていると言って良いのではないか。
オープニングで警視庁の看板を外す男達を見せておいて、実はこれは引退する刑事への贈り物だったというジョークを流しつつ、並行モンタージュで護送車襲撃を描く。襲撃のシーンが非常にうまく出来ていて、それほど決め過ぎないロングショットに、各ポジションの必要不十分なミドルショットを合わせ、現金収奪が完了すると、襲撃された白のワゴンの前後に停めた黒のワゴンが同時に走り出して去っていく、というロングショットで締める。
この強奪犯が絡むシーンは、あとでドパルデューの単独行動が悲劇に終わる場面になるが、ここでの銃撃戦も、かなり豪快ながら尺はそれほど長くなく、とにかくコンパクトなのが良い。
終盤にオートゥイユが出所してから、元同僚に会いに行くシーンなどがいささか性急な処理になっていて、ここが少し勿体ないと思った。特に元麻薬捜査官で、ドパルデューに幻滅して地方の分署に異動した女性警官との再会が、単なる情報処理になってしまっている。個人的には、一線を退いた刑事同士の再会、というのは最も映画的でエモーショナルなそれだと思うので、これはちと残念。思うに、この女性警官とドパルデューのシーンを全て省き、彼女の現役時代の幻滅を、オートゥイユとの再会後に語らせれば良かったと思うのだがどうか。
ラストの捻りも良かったです。

で、『ビースト』なのだが、お話の大枠は共通している。
新入りの女性警官の存在、”アリバイ”提供と引き換えに殺人を黙認するという展開、成果を求めて単独行動に出てしまう刑事、窓を突き破っての転落、バーのマダム、そのマダムへの暴行の復讐、など。
相違点として、細かい話で言えば、メインとなる事件が護送車襲撃から猟奇殺人になっているところがいかにも韓国映画だ。
しかしもっと本質的な、ある意味この物語に対する視座を反映している違いがあって、フランス版では、オートゥイユ演じる刑事がかなり同情的に描かれており、ドパルデュー演じるは「悪役」として描かれている。当然、オートゥイユも結構無茶苦茶やっているのだが、娘とのエピソードなんかもあって、だいぶ甘い。そんな「善人」であるオートゥイユが組織からはじかれ、ドパルデュー演じる「悪人」が組織のトップに立ってしまう、というこのシステムの非情なる論理を見せることで、観る者をいらだたせ、オートゥイユ演じる刑事に肩入れさせるのがフランス版である。
韓国版は、オートゥイユ演じる刑事の無茶苦茶ぶりをむしろ掘り下げることで、個人の内部にある善と悪、その混沌ぶりを徹底的に曝け出すことによって、観客をどちらにも肩入れさせない物語を作ろうと意図しているように見える。
その結果、刑事が”殺人の黙認”を隠ぺいしようとするという新しいエピソードをつくっている。実際に展開されるサスペンス(銃弾の取り換え工作、元妻とのアイコンタクト、死体がこちらを見ているという幻覚)もそこそこの完成度となっているが、元々なかったエピソードを新たに仕込んできた事を踏まえると、総じて見事な脚色と言わざるを得ない。

フランス版が、システムと個人の相克、そして法外の領域における決着、という『ダーティハリー』から綿々と続く正統派的主題を扱っているとすれば、韓国版は、個人において善悪の境界があいまいとなっていき、それがやがて狂気へと発展していく、その末路を露悪的に描こうとする。そしてその他の韓国映画を踏まえれば、これはこれで定番の主題と言って良いだろう。しかしある意味リメイクでそれをやっちゃう韓国映画界の勢いとでも言うか、そういうものを改めて感じた次第。

撮影や演出の簡潔ぶり、ショットの過不足のなさにおいては圧倒的にフランス版を買うし、韓国版のやたら多い過剰なクローズアップもやや安直な手法と思うのだが、しかし同じ題材に対するはっきりと異なるアプローチを経験できるという意味では両方とも見ることを推奨したい。


2021年11月1日月曜日

抱きしめたい ―真実の物語―

 指摘すべき細部はみんなのシネマレビューで、ユーカラさんがすべて書いてしまっている。 

大変感心させられた。すべての間合いが程よい。メリーゴーランドは別として、その他、基本的にあんまり盛り上がらないのだが、しかしこんな感じで日常は流れていくんだよな、と思わせる。北川景子が錦戸が浮気していると誤解するも、それが一瞬で解消してしまう流れ(ここの北川景子のパフォーマンスが素晴らしい)。浜辺でおんぶしながら歩くショットが美しく(雲が良い)、時間の流れも良い。

結論が180度が変わる過程を省略して、「次の瞬間には別の行動をとっている」という脚本の徹底が、シネフィル塩田監督らしさか。

終盤の錦戸のモノローグにも泣かされた。
出逢い、幸福、突然の別れ。それを残された者がその意味をずっと考えながら残りを生きていく、ということ。「考え続けていれば、ずっとそばにいてくれる気がする」という意味のモノローグに、死別という経験の重みと切なさを思う。

通俗道徳の洗練された賛歌として見事な出来栄えだが、やっぱり会話がつまらないと思う。アイスの話とか、カレーがうまいとか、いいんだよそんなの!(謎ギレ)



2021年10月24日日曜日

ノーマンズランド

 ダニス・タノヴィッチの長編デビュー作。なるほど、ボスニア紛争を題材としながら、見事に洗練された寓話として描いている。
冒頭の霧の描写から、夜が明けて、いきなり銃撃戦が始まり緊張感が高まるが、それ以降はむしろとぼけた展開で笑いを誘う。
タノヴィッチが凄いのは、笑える展開を繰り広げながら、それがじわじわと「笑えなく」なっていく様子すら描く点だ。
気絶している間に、自分の背中の下に地雷を仕掛けられてしまった男は、最初はむしろ笑いを誘う存在である。彼がタバコを吸って咳をすると、相方が慌てて彼の背中が浮かないように押さえつけるという描写が好例だ。ところが、終盤にだんだんと雲行きが怪しくなってくる。その雲行きの怪しくなり方、身もふたもなく、「はい、無理」となってしまうこの不条理さ。
当然、こうした不条理劇には様々な意味を読み取ることができるだろう。国連の援助や仲介の無力さを読み取ることもできるし、もっと大きく、神の沈黙、とまで言えるかもしれない。
まるで60年代の西部劇のようなタッチで、雄弁にボスニアの現実を語る手腕。
日本には『サラエボの銃声』以降輸入されていないが、IMDBを見ると、近年も新作を発表し続けているようだ。タノヴィッチをもっと!

追記:終盤、塹壕からの撤退が決まったあとに、ジャーナリストが車に乗り、車の窓に撤退する国連軍兵士の姿が映る。窓の反射を使った撮影は映画の常套手段だが、単なる美的な印象以上の、やり切れぬ情感を残す素晴らしいショットだ。

2021年10月22日金曜日

カティンの森

 劇場公開時以来、久々、3回目の鑑賞。
やはり家で見ても音響が微妙なので、オープニングの緊迫感なんかが公開時よりも印象としては薄れてしまったが、しかし全編見事な撮影、構成、ストーリーテリングだ。
アンジェイ・ワイダは、IMDBなんかを見てみると作品数がかなり膨大で、日本で見れる作品というのはDVDなどを合わせても一部に過ぎないのだが、年代ごとに作風がずいぶん異なる印象を受ける。
個人的にはやはり『灰とダイヤモンド』の陰影表現の徹底ぶり、ツィブルスキの情熱的な芝居に心を掴まれるのだが、60-70年代のいくつかの作品は、『灰とダイヤモンド』とはかなり作風が異なっている。『約束の大地』、『ダントン』、『戦いのあとの風景』などは、大胆なカメラ移動やズームを多用し、少々露骨なセリフに依存したそれで、良く言ってエネルギッシュ、しかしどこか粗雑な面も否めないと感じる。当時のポーランド情勢も影響しているのかもしれないが、A・ムンクやザヌーシ、ブガイスキらに比べると少々見劣りする。

だがこの『カティンの森』以降、遺作となった『残像』までのおよそ10年に及ぶ晩年の作品こそが、ワイダのワイダたる所以を一挙に示したと思う。これらの作品は、上記の荒々しいカメラワークに頼った演出ではなく、むしろ厳格なフィックス・ショットとS・ルメットばりのカッティング・イン・アクション、誇り高き女性像などが際立った傑作ばかりである。90年に撮られた『コルチャック先生』に、すでにその片鱗は見えていたものの、70-80年代からゼロ年代にかけてのワイダの遂げた飛躍にはすさまじいものがある。(90年代後半からパヴェウ・エデルマンが撮影を担っていることがほとんどなので、このあたりが転機なのかもしれない)

さて、『カティンの森』であるが、ここで21世紀の3大ジェノサイド映画を決めてしまおうと思う。先日見た『アイダよ、何処へ?』(スレブレニツァの虐殺)、アトム・エゴヤンの『アララトの聖母』(アルメニア人虐殺)、そしてこの『カティンの森』である。

『アイダよ、何処へ?』が、とにかくアイダという一人称の視点を忠実にフォローしながら、虐殺そのものについては直接的な描写を排することで、大文字の歴史と個人史の交錯をスリリングに描いたとすれば、『アララトの聖母』は歴史を語る行為を徹底して相対化してみせたポストモダン映画であった。
『カティンの森』はそのちょうど中間のような映画であると言える。
少佐の妻がナチスドイツの記録映像を見せられ、カティン事件を知る。
その映像では、ナチスとポーランドの調査委員会の調査の様子に、ソ連の極悪非道を暴露するナレーションがかぶさっている。彼女はこれによりソ連の犯行を確信する(作り手のスタンスももちろんこちらである)。
一方で中盤には、ソ連が作ったプロパガンダ映像において、先ほどの映像と瓜二つな、ソ連とポーランドの調査委員会による調査の様子が映される。ナレーションは、ナチスの仕業として糾弾している。
歴史は勝者によって創られるように、ナチスの犯行という主張が既成事実化していくのである。
その意味で、『アララト』ほど挑発的ではないが、ワイダがここで、映像がもつ邪悪な力を主題化していることは間違いないだろう。

その一方、虐殺後、あるいは終戦後の後味の悪さ、人生の苦みを描いた点では、『アイダよ、何処へ?』に先駆けるそれとなっている。
上記のように、勝者ソ連によってカティン事件が嘘で塗り固められていく様を、それに抵抗しようとして挫折する人々を描くことで表現しているにとどまらず、終戦後に再会する人達の微妙な感情のすれ違いを見事に描いているのが素晴らしい。
主人公のアンナは、終戦後も、夫の帰りを待ち続け、娘には呆れられてしまっている。先に夫の死を知ったアンナの義母とも、感情的に対立していく。(義母を演じたマヤ・コモロフスカの何とも苦々しい表情が素晴らしい。)
少佐の妻と、元家政婦で今や市長の妻となった女性との苦々しい再会の描写も、慎ましくも厳しい印象を残す。
カティンで死んだ兄の墓碑をつくる妹(マグダレーナ・チエレツカ)と美術大学総長として共産党に忠実な姉(アグニェスカ・グリンスカ)の対立。
そして、束の間の若い男女の出会いと永遠の別れ(これぞワイダ印!)。

終戦がダイレクトに喜びにつながらず、新たな対立を生むに過ぎないという陰鬱な現実こそは、まさしく『アイダよ、何処へ?』が描き出したものであるし、ワイダが(そのスタイルには様々な変化があれど)50年代から一貫して取り組んできた主題だと言える。
クラクフの静かな公園、霧、そして雪。これほど美しく、華麗で、しかし徹底的な厳しさに満ちた歴史映画はなかなか見れるものではない。やはり、ワイダの最高傑作だ。